一期一会

一齣 其日

本編

一期一会


 ものを書いているとどうにも刻を忘れてしまうのが、彼のサガであった。

 長屋の一室に灯っていた火がふっと落ちて、戯作者春永はようやく夜が更けている事に気づく始末だ。

 それまで切れることなく続いていた集中の糸がプツンと切れる。脳を埋め尽くしていたはずの文字は今となっては有象無象。この暗がりじゃそもそも筆を走らせることもできない。

 仕方がない、と春永は筆を置く。

 背筋をうんと伸ばし、もう寝てしまうかと軽く首を回している時だった。

 どんどんと、戸が鳴った。

 妙だった。すっかり帳も落ちたこの暗がり具合、丑三つ時だって過ぎているに違いない。

 正直、戸を開けるのは気が引けた。

 魑魅魍魎、何がこの戸の先に待っているかわからない。

 だが、春永の手は恐る恐る伸びていた。

 男は曲がりなりにも物書きだ。興味も好奇心も人よりも一層二層に強い。

 奇妙に背中をくすぐられては、開けずにいられるかという話である。

 ぐいと思い切りに戸を引いた。

 そして、春永は絶句した。

「……匿ってくれ」

 そこに立っていたのは、魑魅魍魎の類ではなかった。

 いたのは、折れた刀を携えた一人の浪士だった。

 雲間から顔を覗かせた月が浪士を照らす。

 頬に一筋の刀傷。腹にも一太刀浴びたのだろうか、着物の中が赤黒い血でいっぱいに濡れていた。

 目に映る光景を飲み込み切れず固まってしまった春永を浪士は無理矢理に押し退けると、そのまま長屋の奥へと居座ってしまった。

 きちんと草履を脱いでいるところが妙に律儀だった。

 これが噂の尊攘派浪士、だろうか。

 浪士の姿を見て、そう思わずにはいられなかった。

 文久四年(1864年)初め、昨今の市井はあまりにも物騒だ。天誅と称して尊攘派と呼ばれる浪士の手で毎度のように河原に首は晒される。幕府は幕府で、浪士を集めて都に上らせ浪士狩りをしているという。

 いや、今はそんなことはどうでもいい、と呆然としていた足を急いで動かす。

 魑魅魍魎に遭う以上に恐ろしいものに遇ってしまったような気はするが、さりとてこの状況を放っておけるような男でもなかった。

「ちょ、ちょいと待ってくれよ旦那」

 慌てて手拭いを取り出すと、浪士に向かって差し出す。

「こいつでその傷の血を止めませんと、体に障りますぞ旦那」

 浪士は一瞥だけして首を横に振った。

「余計な世話は無用だ。匿ってくれるだけで十分……これ以上面倒をかけたくない」

 脂汗に濡れた額を隠すように、浪士はさらにうずくまる。

 呆れてため息が出た。

「何が面倒をかけたくない、ですかい。もうとっくに面倒はかけられちまってんだ。ほら、傷を塞がせなさい。ここまで来たら最後まで世話を焼かせていただきますよ、旦那」

「な……」

 抵抗しようとする浪士だったが傷のせいか体に力が入らないらしい、一介の戯作者の腕にも今は敵わなかった。傷口は呆気なく春永によって抑えられてしまった。

 そこからはもう大人しかった。包帯で腹の傷を塞がれる時も、額の傷の手当てをされる時も、文句一つこぼすことはなかった。

 一通りの手当が済むと春永は徐に長屋の畳を開けるや、中から酒を一つ取り出してきた。

 滅多に飲まない、秘蔵の酒だった。

 二つの猪口に並々と酒を注いでいく。程よい濁り酒の匂いが鼻をくすぐってくる。

「一献どうですか。酒は百薬の長といいます。その傷にも効きましょう」

 浪士の膝下にトンと差し出すが、しかし、浪士は手を出そうとしなかった。

「もしや、毒でも入っているのではと疑われてますかな」

「いや、そういう訳ではない……が」

「ならば呑みなされ。遠慮することはない」

 シワがよく刻まれた顔に春永は笑みを浮かべて、ささと酒を浪士に勧める。

 浪士は、酒と春永を交互に見やる。瞼の中で訝しげな色がチラリと見えた。

「素性も知らない男の酒は飲めない、というやつですかな」

「……それは、今更だろう。知らぬ者の部屋に押し入って、居座って、勧められた酒を飲めないは流石にない」

「で、あれば……」

 浪士の視線が、春永の顔に向く。

 そして、ゆっくりと男は口を動かす。

「アンタは……どうしてこう、親切なんだ」

「親切、といいますと」

「……私のような厄介者に深く関わる義理なんざ無いだろう。なのに、こうも甲斐甲斐しく世話を焼くとはどういう了見だろうな、とな。無礼な話ではあるがな」

 尖らせた唇に指を当て、「そうですなあ」と呑気な声で春永は考える。

 損得なんぞ考えてなかった。

 放っておけない性分なだけである。

 しかし、それ以上に答えになるものがある、としたら──


「ま、ネタになるからでしょうな」


 浪士は、目を丸くしていた。

 真面目を取り繕っていた顔も崩れて、口もあんぐりと空いてしまっていた。

「そんな風に驚くこたあないでしょう旦那」

 流石の春永も、その反応には苦言を呈した。

「アタシゃ戯作者です。ものを書くのが好きな人間です。不思議なこと、面白いこと、怖いこと、なんでも書きます」

 傍の筆を手に取って、くるりと何度か回してみせる。もはや体の一部と言っていいような動かし方だった。

「ただまあ、こンな歳になってくると頭も干からびつつあってですね、ぼうっとしちまうこともある。だから、まあ、瑞々しい体験は欠かせねえのですよ、旦那」

「だから、か」

「それだけじゃあねえですけどね。でも、アンタに世話を焼いたことがそのうちネタになるってンならこういうのもたまにはいい、って話ですよ」

 ささ一献と、再び春永は酒を勧める。

 改めて見るとその眼差しは、とっくに壮年を越えた年頃な顔とは裏腹に、混ざりっ気のない純な色を帯びていた。

「──頂戴いたす」

 浪士は猪口を持つと、ぐいと一気に飲み干した。

 いい酒の飲みっぷりであった。

「これは流石にお侍様だ、もう一献もどうですかね」

「いや、流石に今はもうキツイ。代わりに茶を一杯いただけないか」

「お安い御用ですよ、旦那」

 言うや否や、春永はお湯を沸かして慣れた手付きで茶を淹れる。

 酒の代わりに、今度は茶の香りが部屋を徐々に満たしていく。

 会話はなかったが居心地の良い空気があった。


「様々なご厚意、かたじけない」


 浪士がそう呟いたのは、湯呑みの茶を一口啜った後のことだった。

「先ほどから思っていましたが、律儀な人ですな」

 思わず、ふふと笑ってしまう。

 押し入ったのは無理矢理だったのに。

 変に遠慮をして迷惑をかけまいとして、きっと生きるか死ぬかの分かれ道だというのに。

 そんな変に真面目な気質が面白い人物造形に使えそうだ──とは流石に口からこぼさなかった。

 しかし、これも育ちの故だろうか。武士というのは学問、武術、ともに厳しく鍛えられるという。きっと、春永の想像を絶する世界が、今の彼を作ったのではないか、などとついつい想像をめぐらしてしまう。

 これもまた、戯作者のサガであろうか。


「まあ、一期一会──という言葉もございますしなぁ」


「……一期一会、か」

「ええ」

 春永も自分の湯呑みに茶を淹れてずずっと一口味わう。

 舌を撫でる苦味が心地いい。

「よかった、美味しく淹れられているようで。この出会いはもう二度とはない。だからこそ、私はこの時がかけがえのないものだと思うのですよ。この茶もそれです」

「……明らかに厄介な俺のような奴との出会いでも、か」

「ええ、もちろん」

 試すような物言いに、春永は容易くにこりと返してみせた。

 相変わらず純な眼差しだった。

 そこでやっと、浪士の顔が綻んだ。

「色々すまんな」

「いえいえ。ささ、茶を飲んでゆるりとお休みなさいませ。追手が来たら教えます故」

「かたじけないな、本当に」

 冬の夜は虫の音もなく、しんと街も眠っている。

 ただ、この夜は時折茶の啜る音が、静かにこだましていた。



 戸から差してきた朝焼けで、春永は重い瞼をやっと開けた。

 目覚めた──と自覚して、しもうたと頭を叩きたくなった。

 いつあの浪士に向けた追手が来るとも限らない。寝ずの番をしようと思っていたのに、これではあまりに情けない。

 しかも、やたらにがらんとした部屋の中。

 浪士がうずくまっていた場所に目をやると、彼は忽然と姿を消していた。

 代わりに、短い文が一枚──『世話になった』、と。

 なんとも律儀で、なんとも愚かな。

 あの傷はまだ塞がっていない。動けば途端に開くであろう。

 言ってくれれば、何日だって匿ってやったものを。

 などと思えど、いつまでも世話になろうなどという甘えた考えを持つ男でないことは、ほんのひと時接しただけでも十分理解できた。

 しかし、毒を喰らわば皿まで。一度首を突っ込んだことを中度半端で投げ出すほど、春永は出来の悪い人間ではなかった。

 幾多の物語に‘完’の文字をつけてきた男だ、浪士を追って春永は駆け出す。

 戸を開けて、東の空に昇った朝日に向かって足を踏み出した。

 だが、その光景は春永が息を切るよりもずっと前に、不条理に彼の瞳に飛び込んできた。


 血溜まりに斃れていたのは、見覚えのある背中だった。


「だ、旦那……ッ!」

「──あン?」

 駆け寄ろうとした足が、その呟きで静止させられた。

 動転していた視界は、奴の姿を全く入れていなかったらしい。

 血に濡れた刀を携え、気怠げな目をした小兵の侍だった。

「……面倒じゃな」

 侍のつま先が春永を向いた。

 冷めた視線が春永を射抜く。

 ぞッ、とした。

 腰が砕けて、ベシャリと尻が地に落ちる。足はただもがくことしか出来なかった。

 終わりだと、そう思った。

 春永は非力だ。剣を持ったこともなければ、喧嘩だってしたことがない。

 興味好奇心は人一倍だが、凄惨な光景を前にして何かできるなどという胆力は持ち合わせていなかった。

 にべもなく、容赦もなく、奴の血に濡れた刃が錆にさせられる

 男が春永の目の前に立つ。

 刀が振り翳される。

 これが最後か、まだ続き物が残っているのに無念だ──そうして、ぎゅっと瞼を閉じる。

 そんな春永の思いとは裏腹に、刃が春永を斬る前にチンと鍔が鳴った。

「……おんしのような奴を斬っても寝覚が悪くなるだけじゃけ」

 そして、ため息が落ちた。

 徐に瞼を開くと、あんなに血に塗れていた刃は、男の鞘元に納まっている。

「仕事はもう終わっちゅう。余計なことはしとうない」

 ガシガシと頭を掻きながら、春永に何をするでもなく男は素通りしていく。

「おい、おっさん。奴の知り合いってんなら、勝手に葬ってやりゃあええが。わりゃあ知らん、なんも知らんがな」

 微睡の中で夢でも見ているような気分だった。

 しかし、男の足音も、路上に立ち込めた血の匂いも、確かな現実だった。

 呆然な春永は、朝ぼらけに消えていく小兵の男をただ見送ることしかできなんだ。



 夜が明けてそう時間も経っていない。

 ──はずだというのに、昨夜交わした言葉も、共に嗜んだ酒の味も茶の味も、遠い昔のことのように思えて仕方がなかった。

 思ったよりも軽い浪士の亡骸を、あくせくと掘った穴の中に丁寧に寝かせる。

 今にも、やたらに律儀で申し訳ないなどという彼らしい言葉が閉じた口から溢れてきそうなものであるが、彼の口はもう二度と開くことはない。

 土を被せるのが、なぜか名残惜しかった。

 たった一夜の間柄──考えてみれば、お互い名も名乗らなかった者同士だというのに、どうしてこんな心境になるのだろう。

「一期一会、とは言ったがな……こんな一期一会は、好きじゃあないなあ」

 唇を噛みながら、土を浪士の亡骸へと被せていく。

 彼の亡骸が土の中に納めるのにそう時間は掛からなかった。

 墓石がわりに手頃な石を乗せ、供えた線香に火を灯す。

 昨夜出した残りの酒を供え物がわりとそこにかけた。石を伝って流れた酒は、土が全部余すことなく飲み干した。

 昨夜の彼は一杯の酒しか飲まなかったが、もしかしたら本来は相当飲める口だったのかもしれない。

 それを知る術はもう、春永には無かった。

 浪士の名も何もかも、知ることはもうできない。

 

「知ることはできんが、これで終わりじゃあ話としちゃあちと無情がすぎるぜ──なあ、旦那よ」


 手を合わせずすくっと春永は立ち上がる。

 春永の脳髄では、すでに色んな筋書きが駆け巡っていた。

 春永は戯作者である。

 戯作者が彼にあと手向けるものがあるとすれば、それはあの一夜を──戯作者が目に焼き付けた彼を文字に書き留めることくらいだろう。

 たった一度きりのこの出会いでしか彼を知らずとも、筆を走らせることができなければ戯作者の名折れだった。

「きっと面白いのを聞かせてやる。アンタとの一期一会、楽しみに待っているといいさ」

 手を合わせるのはその後でも遅くはないだろう。

 墓に背を向け歩む戯作者の手は、すぐにでも筆を取らんとばかりに止まらぬ疼きを覚えていた。

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