血と肉と幸福
宮塚恵一
violence chain
血と汗と排泄物の
シャワーで流しても消えやしない。この浴室には、それがこびり付いている。
僕の目の前には複数に分けられた小さなゴミ袋がある。砕いた骨と肉が詰まっているその袋を、僕はせっせと鞄の中に詰めた。
「お疲れ」
粉塵マスクをつけてくぐもった声の明梨が言う。酒焼けのしたハスキーな声。かつては合唱部の部長を務める程だった彼女の面影はそこにはない。明梨は手からゴム手袋を外して、僕に渡した。僕は何も言わずに、それもまだ縛っていないゴミ袋の中に入れる。
「体洗うから、出てって」
「うん」
明梨は小さく溜息をつく。明梨は胸がデカい。競泳水着が張り付いた明梨の体はミチミチと肥えている。その一方、お腹が胸と同じくらいに膨らんで見えるのは、別に妊娠中しているからではない。
僕はゴミ袋の詰まった鞄を浴室の外に放り投げた。その後ろで明梨が競泳水着を脱ぐ。振り返りでもしようものなら、僕は明梨に股間を何度も蹴り上げられることになる。
「ん」
明梨が僕の頭の上に競泳水着を置いた。僕は振り向くことなく、浴室から出る。その瞬間、ピシャリと浴室の扉が閉まった。
僕の目の前にあるのはゴミ袋がミチミチに詰まった鞄。
その中にあるのは、人間の残骸。明梨によって解体された哀れな、人間だったモノを捨てるのが僕の役目だ。
僕は明梨に頭に乗せられた競泳水着を掴む。血と汗と糞の
明梨の
「早くゴミ捨てろよ」
浴室から明梨の声が響いた。
「わかったよ」
僕は鞄を持ち上げて、明梨の家から出て行った。車の助手席に鞄を置いて、車を走らせる。半日程かけてドライブがてら、山に、川に、遠くのゴミ捨て場に、鞄の中のゴミを捨てるのだ。
💀
最後のゴミ袋の中身を山道の崖に捨てた頃には、日が暮れていた。
僕は明梨に「終わったよ」とメッセージを送る。返事はない。寝ているのかもしれない。人間の解体を終えた後の明梨は、大抵疲れ果てて寝るか酒をあおるかの二択だ。
明梨の人殺しの手伝いが、僕の生きる意味だった。
初めは彼女が殺した親の死体遺棄を手伝っただけだった。幼馴染の明梨を放っておくことは、今も昔も弱気な僕にはできなかった。その歯止めが、彼女はもう効かない。思うように人を殺し、解体する。僕は彼女が殺した人間の解体と後処理を手伝う。
返事を待っていると、着信音が鳴った。明梨からのものではなかった。僕はメッセージの差出人の名前を見て、心が躍った。
『結城くん。今日、時間ある?』
それは美咲さんからの呼び出しだった。
明梨の後始末をした疲れも、彼女からの呼び出しがあれば、その日の幸福はお釣りが出る。
『三十分くらいで着きます』
僕はそう返信すると、すぐに車で家に帰りシャワーを浴びた。血と汗と糞の
「来たね」
部屋のインターホンを押してすぐに、美咲さんが僕を出迎えた。美咲さんからシャンプーとコンディショナーの匂いが漂ってくる。彼女もきっと身体を洗ったばかりなのだろう。鼻の奥を突いてくるような、血と汗と糞の
美咲さんに迎えられるまま、僕は彼女の寝室に向かう。寝室の布団の上には
「ごめんね、もう始めちゃってた」
「いえ、全然」
美咲さんは布団の上にすとんと座る。彼女がワンピースの端を捲る。そこには剥き出しの女性器がある。
「手でして」
美咲さんに言われるまま、僕は彼女の股間に指を入れた。一人でしていたというそれは既に濡れていて、僕の指が抵抗なく入る。僕はわざとくちゅくちゅと音を立てて、彼女の中を弄る。
僕が彼女を弄る間、彼女は声を出さない。ただ顔と耳を紅潮させ、たまに息を吐く。それが僕にはとてつもなく妖艶に感じて、息遣いを聞く度に、僕の下着の中も濡れていくのがわかる。
「そろそろ、お願い」
美咲さんはそう言って、両手を横に広げる。右手で美咲さんの股間を弄り続けながら、僕は彼女の顔に体を近付ける。そして僕は、彼女の首筋を左手で握った。
これが、僕と美咲さんの関係。大学生だった時の先輩だった美咲さん。彼女と僕はセフレですらない。ただ美咲さんの欲求に従って、僕は彼女の首を絞める。彼女の欲望の発散の為に、彼女の体を弄ることはあるが、僕はキスさえ許されていない。
彼女に奉仕し、首を絞める。ただ、それだけの関係。
僕は左手にぐっと力を入れる。彼女の首が、僕の手の中で締まっていく。一秒、二秒、三秒。僕はゆっくりと頭の中で数を数える。彼女の目が、僕ではない遠くを見る。そのまま握る力を強くして、彼女の首を──。
──ぴんぽーん。
インターホンが鳴った。遠くを見ていた彼女の目が一気に現実に引き戻され、僕の胸をとすんと突き放す。僕は抵抗できず、そのまま尻を布団の上についた。
「ごめんね」
美咲さんは立ち上がり、インターホンのモニターを見て、困ったような表情をした。
そして僕を見て、部屋の中を見回すと、押入れを開けた。
「ごめん。ちょっと、ここ入ってて」
「え?」
「お願い」
そう言われてしまえば、そうする他ない。僕は押入れの中に体を入れる。美咲さんが外から押入れの扉を閉めた。
美咲さんの足音が聞こえる。玄関のドアをガチャリと開ける音。
「よお」
玄関から聞こえるのは男の声だった。
「急に来ないで」
「なんでだよ」
男の笑い声。バタンと玄関の扉が閉まる。美咲さんと美咲さんのものよりも重い足音が近づいてくる。
男が居間から話す声。台所で水の流れる音。テーブルにカップが置かれる音。漂ってくる
「ねえ」
「すぐ帰るよ」
美咲さんに構うことなく、男は何かをずっと話している。話している内容まであまり聞こえない。
「ちょっと」
「いいだろ」
「ダメだって……ッ!」
言葉とは裏腹に、困ったような嬉しそうな声。
「ん……」
美咲さんの声。息が荒い。僕が彼女の中を弄る時よりも。美咲さんの嬌声が耳に響く。心臓の鼓動が跳ね上がる。僕はまだ美咲さんの匂いが残る自分の指先を舐めた。しょっぱい味が口の中に広がる。ズボンの中で僕の物が跳ね上がりたがっている。
「それはダメ」
「どうして」
「生理、だから」
「そっか」
男が立ち上がる布擦れの音。男が何かを美咲さんに話す。その後にまた美咲さんの隠すような嬌声が聴こえる。
「サンキュ」
「次来る時はちゃんと言って?」
「わかったって」
「お金も……返してよ?」
「ん、わかった」
男と美咲さんの足音。ガチャリと扉が開き、閉じる音。美咲さんの溜息。
「ごめんね」
美咲さんの声と共に、僕の周りの暗闇が晴れた。美咲さんが押入れの扉を開けたのだ。目の前には、困ったような表情をしている。
「今の、人は」
「うん、ごめんね。今日はもういいや」
「え」
僕は美咲さんの首に手を伸ばす。美咲さんはゆっくりとその手を振り払った。
「また今度ね」
💋
血と汗と排泄物の
浴室に溜まっていく魂の汚泥は、きっと水なんかじゃ落とせない。
明梨が中華包丁で人間だった物に刃物を落としていく。
「この人、何したの」
「万引き」
「何それ」
「バイト先の万引き犯」
「ああ」
明梨は今、家近くのコンビニでバイトしている。その前はガソリンスタンドでのバイトだったが、思ったよりも重労働だったとのことでやめたのだ。コンビニバイトはガソリンスタンドよりは明梨の
「その辺、ゴミ」
彼女がボタボタと解体した人間の残骸を浴槽に落とす。僕はそれを拾い上げて、ゴミ袋に捨てていく。
「なあ明梨」
「何?」
「頼みがあるんだけど」
「珍しいじゃん。お前から頼みとか。生意気」
「人を殺したいんだ」
「……へえ?」
明梨は僕の方を振り向き、マスクを外した。彼女の血に塗れた笑顔は、僕の目には何よりも頼もしく魅力的に見えた。
🩸
夜の路地を男が歩いている。眼鏡をかけて長身の男の顔を見て反吐が出る想いに襲われた。あいつが美咲さんを──。
男の連絡先は、あの後また美咲さんに呼び出された時に、こっそりと彼女のスマホを覗き見て手に入れた。そこから毎日、美咲さんの家の前に張り付いて、奴が現れるのを待った。数日後、男は何を警戒することもなく、美咲さんのアパートの前に現れた。男を確認して、僕はすぐに明梨に連絡した。男が部屋に入って一時間も経たない頃、男は手に万札を手にして部屋から出てきた。男は万札をひらひらとはためかせた後に財布に仕舞う。
「あいつ?」
「うん」
男を待っている間、僕の横でつまらなさそうにしていた明梨の顔が輝く。
「あいつが、お前の殺したい男なんだ」
「そう」
「あいつ何したの」
「ムカつく」
「そりゃ良いや」
明梨は楽しそうな声で笑う。僕達は、男の後をつけた。そして人通りの少ない路地に男が足を踏み入れたのを確認して、僕は男の連絡先に電話をかける。目の前を歩く男の外套の中から、着信音が響いた。男がスマホを取り出す。男は電話に出ることなく切ったが、その時にはもう遅かった。
着信音と共に、明梨が僕の横から飛び出して、男の背後に近づいていた。明梨は手に待っていたスコップを振り上げて、男の後頭部を殴り付けた。
「痛……ッ!?」
男が小さく声を漏らす。明梨は構うことなく、二打目。男の頭に振り下ろす。三代、四打、五打。男が地面に倒れる。明梨はスコップを男の腹に突き刺した。
「ああああああッ!?」
男の叫び声。明梨は懐からハンカチを取り出して、男の口の中に詰めた。
「あっはははは! 死ね屑! 結城! ようやくお前の為に!!」
明梨は甲高い声で笑う。その声は少しだけいつもより冴えていて、まだ彼女が合唱部だった頃の昔の声に戻ったようにも聞こえた。
「お前、何突っ立ってんだ! 来いよ!」
明梨が僕の方を振り向いて叫ぶ。僕はその声に従い、明梨のもとへ近づく。明梨の顔が紅潮していた。僕が美咲さんの首を絞めた後に息を漏らす時と同じくらいに。
「ほら」
明梨は僕に向けてスコップを掲げた。
「殺したかったんだろ?」
「……ああ」
僕はスコップを受け取る。
男は頭から流れる血を抑えながら立ちあがろうとしている。
「さあ!」
明梨の声と共に、僕は男の頭にスコップを振り下ろした。
「この糞野郎! がッ! 死ねッ!」
明梨に倣い、二打目、三打目を打ち付ける。男は涙を流していた。
「やめ、やめて」
「うるせえよ!」
僕は男を踏みつける。血と涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔が僕を見つめる。僕はそれを見て、ドキリとする。
「やれ」
後ろから明梨が小さく声をかけた。
僕は明梨の声に頷き、男の顔にスコップを振り下ろした。
🧼
「美咲さん、いますか?」
僕は美咲さんの部屋に来ていた。美咲さんからの呼び出しはない。もうここ数日、彼女からの連絡はなかった。
僕から美咲さんに連絡しても、既読にはなるものの返事はない。僕は彼女に「今から行きます」と連絡した。同じように既読にはなるが返事はなかった。僕はそれを肯定の意味に受け取って、彼女のアパートまで車を走らせた。
「美咲さーん?」
インターホンを鳴らしても返事はない。僕は扉のノブに手をかけた。
ガチャリ、と扉が開く。鍵が掛かっていない。僕は玄関に入り、中に入った。
美咲さんが、布団を被っていた。死んでいたわけではなかったことにホッとする。最悪の想像はしていたけれど、そうはならなかったようだ。
「あの人が……」
美咲さんの目から、ポロポロと涙が流れる。
男の死は、彼女のもとにも届いていた。僕と明梨は共に男の死体をいつもの浴室に運んだ後、明梨はいつもとは違い、男の頭だけは解体せず残してくれた。僕が男の頭を山道に捨ててから三ヶ月経って、男の頭が警察にも見つかり身元が特定された。
「大丈夫です」
僕は美咲さんの涙を、懐から取り出したハンカチで拭う。僕はしゃがんで彼女の背中を一度だけ撫でて、立ち上がる。
「僕がいます。ひとまず……元気そうで安心しました」
僕はにっこりと彼女に笑顔を向けた。彼女に泣き顔は似合わない。けれど、悼む時間は誰にでも必要だろう。
「待って」
美咲さんが、後ろを向いた僕を呼び止めた。僕は彼女を振り向く。
「行かないで。まだここにいて」
美咲さんが僕に向けて、両手を伸ばした。僕は彼女の元へ駆け寄って、その手を取る。そのまま彼女の背中に手を回し、ゆっくりと抱きしめる。
彼女の口から続け様に泣き声が漏れた。僕は流れる涙をまた拭おうと、美咲さんの顔を見つめる。
彼女の唇が、僕に近づいた。
僕はそれに真っ直ぐに応える。彼女の舌先が、僕の口の中に入って来る。その甘美な感覚に合わせて、僕の心臓が高鳴り始める。僕は強く彼女を抱き締める。彼女もそれに呼応するように僕の背中を強く抱き締めて、口の中で舌を絡めた。
僕は幸せを噛み締める。
血と肉と幸福 宮塚恵一 @miyaduka3rd
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