第十六話:笑顔が可愛い彼女




 校門のすぐ傍で息を整えていると、校舎の方から予鈴が聞えてきた。

 どうやら今日の全ての授業が終わったらしい。

 あとは漆茨さんが出てくるのを待つだけだ。

 そして一緒に祠に行ければ全てを終わらせられる……はず。

 リュックに入れた日本酒の重みを感じながらそうなる事を祈った。

 もちろん酒は自分で買ったわけじゃない。家にあったものを適当に拝借してきたものだ。善し悪しは分からないまま持ってきたから神様が気に入ってくれるか分からない。酒なら何でも好きであることに賭けるしかない。


 いや、それ以前に漆茨さんが僕と一緒に来てくれるかどうかの方が問題か。

 緊張と不安に震える呼吸を押し殺すようにして息を吐いた。



 朝起きると全身を蝕んでいた痛みは消えていて、代わりに足首と膝に集中していた。まるで身体の至る所にあった痛みが血流に乗って運ばれて関節に堆積したみたいだ。

 ベッドから身体を起こすと、胸に残っていた一抹の寂しさは僕の動きに着いて来られずに背中から空中へと逃げていった。

 それを置き去りにして僕は木ヶ暮山に向かって祠までの道を確認しに行った。


 世界を跨いだとしても昨日見つけた場所と同じ場所にあるという確信はあった。

 何らかの目的を持って作られたものの場所は世界を移動しても変わらない。それは学校や家などの建造物から分かる。加えて平行世界を繋げるための基点となる座標が転々と位置を変えるとは思えなかった。

 実際に祠の場所は昨日の世界で見つけた場所と変わらなかったはずだ。


 とはいえ、祠の場所は記憶の中にしか無かったし、草木に囲まれた山の中で正確な緯度経度を測っていたわけじゃなかったからもう一度見つけるまでに思ったよりも時間がかかってしまった。

 その後引き返しながら、参道の手前まで草木を踏みならして道を作ってきたこともあって余計に戻るのが遅くなった。


 学校に着いたのもつい数分前、危うく下校時間に間に合わないところだった。

 漆茨さんは教室を出るのが早いからなおさら危なかった。

 そう思いながら、気持ちも呼吸も落ち着かないまま待っているとすぐに彼女が現れた。


「漆茨さん」

「み、深青里君……」


 すぐ横を通り過ぎようとした漆茨さんに声をかけると、彼女は目を見開いて一歩二歩と後退った。

 今の漆茨さんに許された数少ない反応だけでも驚かれたんじゃなくて怯えられているんだなと分かった。

 だとしても無理はない。ここ三ヶ月距離を置き始めて、一ヶ月前になって突き放しさえした相手からいきなり声をかけられたら身構えてしまうのは当然だ。関わりたくないとさえ思われているかもしれない。

 自分で招いたこととはいえ、未だに漆茨さんと向き合うのは怖い。


 けど僕は向き合うためにここに来た。漆茨さんの前に立った。

 だから、あの子から貰った勇気を胸に感じながら、僕は頭を下げた。


「漆茨さん、今まで本当にごめん。ろくに何も言わないくせに、一方的に信じろとか言ったくせに突き放して傷つけた。自分勝手に待つことを押しつけて独りにさせた。本当にごめんなさい」


 息を呑む音に続いて「深青里君……」うっかり漏れてしまったような声が頭の上から聞えた。


「……私の事、嫌いになったんじゃないの」


 抑揚のない問いかけに僕は顔を上げて漆茨さんを見た。

 漆茨さんは無表情のまま聞いてきた。


「嫌いになったから、避けていたんじゃないの」

「そんなことない。僕が漆茨さんの事を嫌いになるわけない。むしろ今漆茨さんから嫌われたんじゃないかって不安なくらいだよ」

「……そう。なら、よかった」


 肩を大きく上下させてから漆茨さんはそうボソッと言った。


「私はずっと心配だった。怖かった。それに、寂しかった。深青里君は信じてとか待っていてとしか言ってくれないし、あんまり顔を合わせてくれなくなったし。だから、とても辛かった」

「……ごめん」


 漆茨さんは謝罪に答える代わりに静かに首を横に振った。


「深青里君はずっと何をしていたの」

「ずっと探していたんだ。漆茨さんと行かなきゃいけない場所を」

「行かなきゃいけない場所……。それは見つかったの」

「うん、やっと昨日、見つかったんだ。だから急で悪いけど、今から一緒に来てほしい」


 漆茨さんは目をパチパチと開閉させて、最後に開いた目でジッと見つめてきた。


「そこは、今まで私をずっと一人にしてまで探して、行く価値のあるところ」

「うん、絶対に。約束するよ」


 大きく力を込めて頷くと、漆茨さんは僕の方に歩み寄って見上げてきた。


「そう。なら今までの事、全部許す。だから連れて行って、そこに」

「……ありがとう、漆茨さん」


 許してもらえた喜びに頬が緩んだ。


「でも行く前に運動靴取ってきて。あと体操服があれば着替えてほしい。山に登る事になるから、ローファーじゃ酷い靴擦れを起こしちゃうし、スカート姿じゃ足を怪我しちゃうよ」

「分かった。待っていて」


 漆茨さんは小走りで再び校舎に戻ると、すぐに制服姿のままシューズ袋を持って走ってきた。


「体操服はなかったの?」

「鞄の中にズボンが入っているから。向こうに着いたら下に履くわ」

「そっか。じゃあこのまま行こうか」


 歩き出そうとしたら、漆茨さんが僕の服の袖を掴んできた。


「待って。その前に私も謝らなきゃいけない事がある」

「えっ?」


 そんなことあるのだろうか。

 僕ばかりが漆茨さんを傷つけたにせよ、その逆は何もなかった。

 悪い意味でされた事はないし、良い意味でされなかったこともない。

 漆茨さんは目を伏せて言った。


「私、深青里君がずっと苦しんでいるのは分かっていた。けれど、どう聞いていいのか、踏み込んでいいのか分からなくて何も言えなかった。普段は思っている事全て口にするようにしていたつもりなのに、いつの間にか深青里君には上手く出来なくなっていて、今回は避けられているような気がしてもっと出来なくなって……。嫌われたんじゃないかって怖くて、申し訳なくて、どんどん何も言えなくなって。今更になったけど、言わなきゃいけないから。本当にごめんなさい」


 さっきの僕と同じように漆茨さんは頭を下げた。

 その後頭部を見て苦笑してしまった。

 やっぱり漆茨さんは何も悪くない。

 謝る必要なんてないのに、僕は漆茨さんにこんなことをさせてしまっている。

 僕は本当に情けないな。


「……頭を上げて」


 言うと、漆茨さんは「ん」と小さく呻いて頭を起こした。


「僕はさ、もし漆茨さんに何か聞かれても絶対何も答えなかったし、漆茨さんの手だけは何があっても借りるつもりはなかったんだ。だから漆茨さんは何一つ悪くない。悪いのは僕だけだよ。何もかも、僕たちの全てにおいて、僕が悪かったんだ」

「……全てにおいて」


 首を傾げてオウム返しした漆茨さんに笑って告げる。


「とりあえず歩きながら話そうか」


 促して歩き始めると、漆茨さんは隣に並んで歩調を合わせてくれた。


「今から行くのは祠なんだ」

「祠……そういえば前聞かれた気がする。木ヶ暮山の祠」

「そうだね、文化祭の日だったかな」

「……えぇ、そうね」


 もしかしたら嫌な事を思い出させたかもしれない。

 文化祭の間、僕はずっと上の空だったはずだ。楽しみにしていた漆茨さんには本当に悪い事をした。


「その祠に何があるの」

「……まずは結論から話すね」

「えぇ、お願い」


 横から見つめてくる漆茨さんに、僕は一つ大きく息を吸って言った。


「今日、漆茨さんの表情を取り戻せるんだ」


 同時に漆茨さんが数歩後ろに下がって視界から消えた。

 違うか。

 立ち止まった事に気付くのが遅れて僕が先に進んでしまったんだ。

 振り返ると、漆茨さんは無表情ながら明らかに呆然としたような顔をしていた。


「どういう、こと」

「ここからは順番に話すよ。突拍子もない話だけど信じてほしい」


 ぎこちなく首を縦に振って歩みを再開した彼女と並んで歩き出す。


「漆茨さんは白い世界を覚えている?」

「白い世界」

「うん。木で出来た観音開きの扉がたくさんあって、巨大な輝く石英が立ってる、真っ白い世界」

「そこ……」


 漆茨さんは目と口を開いて固まった。


「私が時々夢で見るところ。どうして深青里君が知っているの」

「僕も時々夢で見るんだ。でも一度目は夢じゃなかった。そこは木ヶ暮山にある祠の中で、僕らは小学生になる前、そこで会っていたんだよ。遠足のイベントで迷子になった時にね」

「…………」


 あまりに現実離れした話のせいだろう、無表情が固まっていた。


「覚えているか分からないけど、その時僕は漆茨さんに言ったんだ。悲しい事は笑顔で塗り潰せるって事と、漆茨さんが悲しくなったら駆けつけるって事を」

「……確かに、男の子とそんな話をしたかもしれない」

「二人だけの話だったはずなんだけどさ、そこに祀られていた神様も聞いていたみたいで、歪んだ形で叶えちゃったんだよ。それで漆茨さんは表情をつけられなくなった。悲しい顔を笑顔で、嬉しい顔を悲しい顔で塗り潰し合って、無表情だけしか浮かべられなくなったんだ」

「…………」


 漆茨さんは口を半分開いたまま瞬きを繰り返している。

 仕方ない事だけど話を上手く飲み込めていそうにない。

 瞬きが落ち着くまで待っていると、開きっぱなしだった口から声が漏れてきた。


「……深青里君は」

「うん?」

「深青里君には何もなかったの。私みたいに、辛い事は起こっていないの」

「…………」


 ここに来て心配してくれているらしい。

 優しさがくすぐったくて笑いながら答えた。


「あの後から僕は時々、平行世界に跳ばされるようになった」

「……平行世界」

「うん。平行世界に行ってその世界にいる漆茨さんと話さなきゃいけなくなったんだ。それが漆茨さんの元に駆けつけるっていう約束が叶った結果だったみたいだから。といっても、話をする必要がある事ことに気付いたのは少し前なんだけどね」

「そうだったの……」


 漆茨さんは一度目を伏せて、すぐに顔を上げた。


「でも、だから時々変だったのね」

「変?」

「えぇ。前日の事を覚えていなかったりちょっと話が噛合わなかったり。健忘症みたいになっていた」

「そうだったね」


 何度か漆茨さんから健忘症を疑われた事があった。無表情だったこともあって結構本気で言ってそうだったのがまた面白かった。

 そんな事を思い出しながら告げる。


「僕らは今からその二つを、無表情と世界移動っていう意図せず叶えられちゃった二つの願いを解きに行くんだ」

「……できるの、そんなこと」

「多分……いや、きっと。歪んだ形だろうが願いを叶えてくれる神様なら、話くらい聞いてくれるはずだよ。だから頼んでみようと思うんだ」

「そう……」

「一応これが話の全部なんだけど、飲み込めそう?」

「ごめんなさい。流石に難しい」

「だよね。僕だっていきなり聞かされたって信じられないよ、こんなこと」

「……とりあえず頭の中を整理させてほしい」


 そう言って漆茨さんは静かになった。

 ここまでの話を反芻しているのか、数歩先の地面をジッと見つめながら歩き続ける。

 僕はその整理が終わるまで待つ事にした。




   *  *  *




 木ヶ暮神社駅で降りると、まず靴を替えてズボンを履いてもらった。

 それから準備が完了した漆茨さんと並んでゆっくり参道の階段を登った。

 その間も漆茨さんは口を閉じたまま、さっきの話を考え続けているみたいだった。

 僕はその思考が落ち着いて彼女から口を開くのを待つつもりだった。

 けど、数十分登ったところで僕は立ち止まって聞いた。


「そろそろ大丈夫そう?」


 ここからは参道から逸れて茂みの中に入らなきゃいけない。

 祠に行くにはここからが一番近く、僕が作った道もこの茂みのすぐ向こうにある。

 漆茨さんは黙ったまま顔を上げて、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「……正直、まだ整理し切れていないし理解も追いついていない」

「信じられない?」

「祠があったら信じるしかなくなる。だから信じさせて」

「…………」

「…………」


 パッチリとした目がジッと僕を見据えてくる。

 しばらく僕は同じくらいジッと見つめ返して「分かった」と真剣に、でも笑って頷いた。


「ここからは手を繋いでいいかな。ちゃんとした道がないから危ないんだ」

「えぇ」


 コクリと首肯した漆茨さんの手を取って、一度周囲を確認して草木の中に踏み入った。

 すぐに僕が作っておいた小道が現れて多少は歩きやすくなった。

 緊張や不安、怯え、期待。

 一歩一歩進む度に色んな感情がない交ぜになってこみ上げてくる。

 でもそれが僕の気持ちなのか、それとも手を介して流れ込んでくる漆茨さんの気持ちなのか分からなかった。


 だから、その全てを受け入れるように僕は漆茨さんの手に指を絡めた。

 一瞬ビクッと震えた彼女の手は抵抗なく握り返してきた。

 その柔らかくて温かい感触を手に進んだ。

 程なくしてそれは現れた。


 三本が絡み合って出来た一本の大木が視界に入ると、そのすぐ近くに木祠が建てられていた。

 午前中に見た、そして小さい頃彷徨ってたどり着いた時に見た物と同じだった。

 手入れされた形跡のない汚れた祠。観音開きの扉のうち片方は中途半端に開いたまま外れかかっていて、紙垂のついた注連縄に至っては完全に片側が外れて垂れ下がってしまっている。


 ただ、中にある鏡だけは異様に綺麗で木漏れ日を反射して眩しいくらいに白く輝いている。

 それを前にして、漆茨さんはポツリと呟いた。


「本当にあった……」

「思い出した?」

「なんとなく。でもここからどうするの。この中に入る……のよね」

「うん」


 自分たちより小さい祠に入るだなんて非現実的だけど、実際にこの中に白い世界が広がっていて入ることができるのだ。

 さっき一人で来た時、試してみたから分かる。

 直感に任せてやった方法で入る事が出来たし、出方もちゃんと覚えている。


 それに、すでに非現実的なことに巻き込まれている最中なのだから、今更一つ超常現象が目の前に現れたところで僕はそんなに驚かない。

 でも案外漆茨さんはそうじゃないらしい。

 世界移動と表情を変えられないというのでは、非現実的なタイプが違うからだろうか。

 僕と祠を交互に見やって何か言いたそうにしている。

 僕はしっかり手を握りながら笑ってみせた。


「入る時、ちょっと怖いかもしれないけど僕と一緒だから大丈夫だって信じて」

「……分かった。深青里君を信じる」

「ありがとう。じゃあ、行くよ」


 漆茨さんが頷くのを待って、僕は祠に、祠の中に置かれた鏡に手を伸ばした。


 そして指先が鏡の表面に触れた瞬間、視界いっぱいに白い光が広がって重力が消えた。

 あまりの眩しさに目を閉じながら、浮遊感に包まれて何かに吸い込まれていく感覚に襲われる。その間もずっと漆茨さんの手は離さなかった。


 数秒後、気付けば重力が戻り足が地面に着いていて浮遊感も吸い込まれるような感覚も無くなっていた。


 目を開けるとそこは白い世界だった。

 音はなく、気温は暑くも寒くもない、でも丁度いいとも違うような不思議な感覚が身体を包んでいる。

 空気は澄んでいる、というより存在しているようには感じられなかった。音がないのも空気の振動自体がないからなんじゃないかと思ってしまう。

 けど呼吸が出来ている以上、揺らぐ事がないだけで空気はちゃんとあるはずだ。


 視界の中には数え切れない程の木の扉が至る所にあって、崖を切り取ったような巨大な石英が真っ白い天に向かってそびえ立っている。

 僕らのすぐ後ろにはぼやけた緑色の平面があった。これが現実世界とここを繋いでいる入り口で、祠の中に置かれた鏡の裏側なんだろう。

 隣を見ると、まだ漆茨さんは目を瞑ったままだった。


「もう目を開けても大丈夫だよ」

「ん……」


 声をかけると漆茨さんは目を開いて「ここ……」声を漏らした。

 限界まで見開いた目でこの世界を見渡している。


「覚えてる。そう、ここ。迷い込んで、男の子が来てくれて。それが深青里君」

「うん、そういうこと。そして僕らが祈ってしまったのが」


 正面にある石英を見上げた。


「この御神体だ」


 世界そのものの白い光を反射して赤、青、緑、紫、様々な色に輝いている。

 キラキラと綺麗な光を反射するだけのそれはまるで意志があるようには見えなかった。

 けど押さえつけられるような荘厳な力は伝わってくる。それは拒絶的なものではなく、ただいるだけで無意識に発してしまっているだけのようで嫌な感覚はない。


「ちょっとだけ手、離すね」


 僕は一度漆茨さんと絡めていた指をほどいて、リュックの中から日本酒の瓶を取り出した。

 置き方に作法があるのかは分からなかったからできるだけ丁寧に、恭しく見えるように膝を着いて置いた。あと一応ラベルは御神体に向けておいた。


「深青里君、それ……」

「もちろん自分で買ったわけじゃないよ。適当に家にあるやつをもらってきたんだ。うちの親、二人とも飲む人で良かった」

「そう」


 言葉を交わしてもう一度手を繋ぎ直した。

 後は御神体に願いを取り消すように祈ればいいはず。

 と思っていたら、漆茨さんが「そういえば」と聞いてきた。


「他の世界の私は笑えていたの」

「そうだね。笑ったり泣いたり驚いたり、色んな漆茨さんがいたよ……って、なんでその目?」


 どうしてか漆茨さんは途中から半目になっていた。


「ずるい」

「何が?」

「他の世界の私は普通に笑えていた事と、その私の知らない私の笑顔を深青里君が見ていた事」

「あぁ、なるほど」


 確かに同じ自分なのに他のみんなは当り前の様に表情を変えられて自分の苦しみを味わっていないとなると、不公平な気がしてしまうのかもしれない。

 他人に対する嫉妬よりも強く感じられそうだ。


「でも一番ずるいのは、深青里君に笑った顔を見てもらえたこと」


 その言葉にはドキッとさせられた。

 仕返しのつもりで握る手に力を込めて笑った。


「……その分、これからはたくさん見せてね、漆茨さんの笑顔」

「……うん」


 漆茨さんも同じようにギュッと手に力を込めてきた。

 それから顔を見合わせて頷いて、二人して視線を御神体に向けた。


 そして祈った。

 強く祈った。

 僕らはもう、大丈夫だと。

 神の加護はもう必要ないのだと。

 これからは自分たちの力で生きていくのだと。

 報告するように、祈った。


 その直後、御神体そのものが輝きだした。

 世界の白色よりも強く明るく、虹色に輝きで世界を満たしていく。

 そして。








 そして気付けば僕らは森の中にいた。

 冷たい風が頬を撫でて、その度に葉擦れで満たされる。

 目の前には入っていたはずの祠があった。

 ここが祠の外の、現実の世界である事を示している。


「も、戻って、きた……」

「みたいだね……」


 呆けたような掠れた声に僕も呆然としながら返した。


「全部終わった……ってことなのかな?」

「どうかしら……」


 いまいち身に起きた事に頭がついていっていない。

 祈った結果として、僕らは祠の外に吐き出されたみたいだけど、祈りがどうなったのかは分からない。

 果たして祈りの効果はあったのだろうか。


 唖然としながら僕らは顔を見合わせた。

 そしてすぐに気付いて思わず漆茨さんの両肩を掴んだ。


「う、漆茨さん! 顔、顔! 眉、眉が!」

「えっ……」


 漆茨さんは何を言われているのか分からなさそうに瞬きをしている。

 自分では見えないから仕方ないかもしれない。

 けど、確かに漆茨さんの眉が震えながら寄っていた。


「表情がつけられるようになったんだよ!」

「…………」


 僕の言葉に大きく目を見張った漆茨さんは、口を開いたまま無言で恐る恐るという風に自分の頬に触れた。

 そして口元をヒクヒクと上げ下げして、ハッとした。


「あ、あぁぁ、ああ……!」


 自分の意志で口角を上げられる事に気付いたみたいだ。

 ピクリピクリと頬を震わせて「はっ、ははっ」と吐息混じりに笑い声の様な音を出した。

 そして。




「わ、私、可愛い?」




 それは引きつったようなぎこちない笑顔だった。

 でも。


「うん、とっても可愛く笑えているよ」


 不気味な谷に落ちたようだった顔に笑みが咲き、その声には、語尾には間違いなく『?』が感じられた。

 今まで見たどんな笑顔より不格好で、美しく見えた。

 笑い返すと、漆茨さんの両方の目から涙が溢れ、緩んだ頬を伝ってこぼれていった。


「……他の世界の私よりも?」

「うん、君の笑顔が一番だよ。他の誰よりも、他の漆茨さんの笑顔よりも一番好きだよ」

「……うん、良かった。良かったっ……!」


 鼻声で頷いた漆茨さんはその場に崩れ落ちそうになった。

 僕は倒れないように受け止めて、その身体を強く抱きしめた。

 泣き方が分からないみたいな不器用に引きつった嗚咽を、そのむき出しの感情を僕は大事に受け止めた。


 やっと、受け止める事が出来た。

 だから告げなきゃいけない。


「漆茨さん、遅くなってごめんね」

「ん……」


 僕の胸に顔を擦り付けるようにして頷いた漆茨さんを、もっと強く抱きしめた。


「大好きだよ」

「うん、私も。私も大好き」


 湿った声で告げられたその気持ちを、僕は真正面から受け止めて噛み締めた。

 熱くなっていくその身体を、僕は支えて抱きしめ続けた。

 漆茨さんの震えと嗚咽が治まるまで、強く、優しく抱きしめ続けた。




   *  *  *




 気付いたら辺りは薄暗くなってきていた。

 それでもまだ辛うじて傾いた太陽の光は僕らの元に届いている。


「大丈夫そう?」


 鼻と目が赤いままの漆茨さんに問いかけると、彼女は「うん、おかげさまで」と恥ずかしそうに笑った。

 あまりにも自然な笑顔だったから、ついさっきまで表情を変えられなかったことなんて忘れてしまいそうだ。


「そろそろ帰ろうか。すぐに日が沈んで周りが見えなくなっちゃうから」

「うん、そうね」


 ニコニコと頷いて漆茨さんは手を差し出してきた。

 僕はその手を取ろうとして、


「あっ、でもその前に」


 ある事を思いだして手を引っ込めた。

 不満そうな顔を浮かべた漆茨さんには申し訳ないけど、やっておいた方がいい事がある。

 僕は祠に向き合うとその扉の中を覗き込んだ。


「だ、大丈夫なの?」


 すぐ後ろから心配そうな声がかけられた。


「うんきっともう、何も起こらなさそうだよ」

「えっ……あ、あれっ?」


 僕の返答で気付いたのか漆茨さんは驚いたような声を上げた。

 来た時は眩しいくらい白く光っていた鏡が、気付いたらさび付いていて何も映さなくなっていた。祠そのものと同じくらい汚れて廃れている。


「どうしていきなりこんな錆びているの? 来た時は綺麗だったはず」

「さぁ、僕にも分からない」


 もしかしたら役目を終えて本来の姿になったのかもしれない。

 歪んだ形とはいえこれまでずっと僕らの願いを叶え続けていたけど、それが取り消された今神の力みたいなものがこの祠から消えたのかもしれない。


 逆に、もしまた誰かがここに迷い込んできて何らかの願いを持ち合わせていたのなら再び鏡は光を取り戻してその人を祠の中へと誘ってしまう可能性がある。

 そう思って、僕は外れかけていた扉を閉めて注連縄も付け直した。

 これで鏡が白い光を取り戻しても、誤って白い世界に入ってしまう事は防げるだろう。


「……じゃあ、改めて帰ろうか」


 今度は僕から手を差し伸べると、漆茨さんは「そうね」と嬉しそうに頷いて指を絡ませてきた。

 そうして並んで参道へと歩き始める。


「それにしても、今日はお祭りだろうね」

「えっ?」

「漆茨さんの家。表情復活祭とかかな?」


 言うと、漆茨さんは小さく吹き出した。


「ならまた今度深青里君大感謝祭もやってもらうわね」

「あはは、それは楽しみだね」

「でも今度は料理作りすぎないようにお母さんに言わなきゃいけないわ」

「残り物祭、そんなに大変だった?」

「それもあるけど、後日に持ち越す残り物なんて、今の私達には縁起が悪い気がしない?」

「確かに」


 そう笑みを交わしながら僕らは歩いた。

 手を繋いだまま、咲いたばかりの笑みと『?』を交わし合って、僕らは明るい道へと歩き始めた。





   終


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不気味の谷に『?』が咲く 秋波司 @YuKi48

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