第十五話:麗しい彼女 その二 下



 終点の木ヶ暮神社駅で降りて、各々適当なタイミングを見て学校に休みの連絡を入れた。

 その後、手伝ってもらう立場で制服のまま探してもらうのは抵抗があったから、僕は持ってきていた体操服を漆茨さんに貸した。

 最初は深青里君も制服じゃないですか、と断られたけど、同じ制服でもスカートで山の中を歩くのは危ないでしょ、と言ったら納得して着替えてくれた。


「本当は靴も履き替えてほしいんだけどね」

「とはいえ、今から家に帰ったらお母さんに見つかって説明が大変ですし、学校に運動靴を取りに行く訳にもいきませんから。なにより靴を変えに戻っている時間が勿体ないでしょう。少しでも早く探し始めるべきです」

「そうかな……」


 ローファーで山道を歩くのは危ないし、悪路で靴擦れを起こしてしまうだろう。

 やっぱり着いてこなくていいよ、と言ったけど漆茨さんは頑なに行くと言って聞かなかった。

 僕が折れる事になって、お互いに長ズボンにコートと手袋をつけて万全の状態になったところで、荷物をロッカーに預けて山を登り始めた。


 まずは舗装されて歩きやすい参道の階段を上がっていく。

 キョロキョロと景色を見回しながら、感慨深そうに漆茨さんは呟いた。


「それにしても、まさか私が学校をずる休みしてしまうなんて思いませんでした」

「今からでもまだ遅刻で済むと思うよ?」

「いえ、戻りませんよ私は。深青里君を一人にしたくありませんから」

「そっか」


 嬉しいけど真っ直ぐ言われるとちょっとむず痒くなる。


「それに少しだけわくわくしているのです、学校をサボるのは初めてなので」

「……優等生で風紀委員の漆茨さんが?」

「はい、優等生で風紀委員の私が、です……ふふっ」

「あははっ」


 柔らかく目を細めた漆茨さんにつられて僕も笑ってしまった。

 小さいこととはいえ背徳感を味わうのも同じように初めてなのかもしれない。

 変に目覚めないといいけど。


「それにしても祠は一体どこにあるのでしょう?」

「僕もよく分からないんだ。木ヶ暮山のどこかにある事は分かっているんだけど」

「なるほど。パスケースよりも探すのは大変そうですね」

「ご、ごめん……」

「そういうつもりで言ったわけじゃありませんよ。探し甲斐がありそうで良かったです」


 クスクスと揶揄うような声の後に「ただ」と続いた。


「ある程度場所が絞れていないと何年かかるか分かりませんね」

「そうだね。絞れているって程でもないけど、参道からそんなに離れた場所ではないと思うんだ」


 小学生になる前の僕でも行けた程度の場所にあったからそこまで山奥ではないはずだ。

 あとはオタク茨さんの話の中で出てきた、子供がよりたくさん迷い込んで祠の中に吸い込まれたという話が本当なら、祠があるのは子供でも行きやすい場所にある可能性がより高くなる。

 子供の体力でどこまで深くまで行けるのかと考えると、やはり範囲はそこまで広くないはずだ。


 そう考えて僕は山頂から下りながら参道付近を探してきた。

 もし麓まで降りて見つからなかったらまた山頂から、もっと範囲を広げて探さなきゃいけなくなる。それは勘弁してほしい。


「この辺りからだったかな」


 ある程度参道を登ったところで僕は立ち止まった。

 元の世界にある色を塗った地図と昨日探した場所の記憶を重ね合わせて、今日探すべき場所を決めていた。

 茂みに入る前に周りを見回す。もし入ろうとしているところ誰かにを見られたら止められてしまうだろう。

 平日の朝早くだからか誰もいなかった。


「じゃあ、行こうか」

「……ここに入っていくのですよね?」


 安全を確認して呼びかけると漆茨さんは渋い顔になった。

 こんなところに踏み入る経験なんてないのだろう。


「止めてもいいんだよ?」

「……いえ、行きます。これくらい問題ありませんから」

「分かった」


 煽ったつもりはなかったけど結果的にそうなってしまったようで、漆茨さんは少しムスッとした顔で僕に着いてきた。

 入って少ししてから、漆茨さんが歩きやすいようにできるだけ草を踏んで平らにすることにした。あとは目の高さに伸びた枝があればそれも伝えながら歩いた。いつもより進むのに時間はかかってしまうけど優しさに甘えて着いてきてもらっているのだからそれくらいはしておこう。


 そうしながら進み始めると、突然後ろから手を握られた。

 何かあったのかと振り返ったら頬を少し赤くした漆茨さんが上目遣いを向けてきた。


「あ、あの、森の中を歩くのに慣れるまででいいので、手を繋いで貰ってもいいですか?」

「うん、もちろんいいよ」


 改めて繋ぎ直すと細い指が食い込んでくるくらい漆茨さんの手には力が入っていた。

 やっぱりこんな道を歩くのは怖いのかもしれない。付き合わせて申し訳なくなる。

 漆茨さんはパスケースの時のお返しだと言ってくれているけど、歩きにくさや探す労力を考えると天と地程の差がある。来る前の会話も含めるとお返しを超えて僕の方が何かを返さなきゃ釣り合わない。


 やっぱり着いてきてもらわない方がよかったんじゃないか。

 不安を抱えながら手を繋ぐ事で少しは返せていることを願いつつ、上下左右を見回して進んでいく。

 時々漆茨さんの様子を伺うと、その度に大丈夫ですよと笑顔が返ってきた。


 最初は強張っていた彼女の笑みは段々と慣れてきたのか少しずつ和やかになった。さらにそれも越えると途中からは冒険をしている小学生みたいに目を輝かせ始めた。

 それでも離すタイミングが分からず、僕らは優しく手を繋いだまま歩き続けた。




 十二時半を回ったところで僕らは昼食休憩に入ることにした。ちょうど倒れた木があったからそこに並んで腰掛けた。

 本当は折り返して参道に出てから休む予定だった。

 ただ、慣れないであろう山の中をローファーで歩き続けている漆茨さんの疲労を考えるとそろそろ休んだ方が良さそうだった。座るとすぐに足を摩り出したところを見るとやはり正解だったらしい。

 でもこんな森の中でちゃんと休めるのかな。


「久しぶりです、ピクニックみたいに自然の中でご飯を食べるのは。なんだか楽しいですね」

「……それなら良かった」


 僕の思考を読んだようなタイミングで心配を解消してくれた。杞憂に終わって苦笑する。

 最初茂みに入るのを怖がっていた割には慣れてしまうとなんともないらしい。漆茨さんは思っていたよりも逞しいみたいだ。


 安心しながらリュックからおにぎりを取り出す。

 漆茨さんはこんなところで食べる前提がなかったからか弁当箱だ。取り出したものを膝の上に乗せて、手を合わせてから食べ始めた。


「それにしても、深青里くんは毎日こんなことしていたのですか?」

「うん?」

「いえ、歩き慣れているようでしたのでそうなんじゃないかって思ったのですけど」

「あぁ……」


 なんて答えようかちょっと迷う。

 こっちの世界の深青里柊一郎はまず間違いなくこんなことはしていなかった。

 けど僕自身は歩いていたから慣れていたわけで。


「そう、だね。放課後とか休みの日とか登ってたよ」


 悩んだ末、僕はそう答えた。

 初めて登っているのだと言ったところで歩き慣れている説明が付かないし、今の漆茨さんには取り繕っていると勘違いされたくもなかった。


「やっぱりそうですか。でも登っていただなんて全然気が付きませんでした。もっと早く言ってくれていればその時からお手伝いしていたのに」

「それはなんというか……登ってたのは僕だけど僕じゃないというか」

「あぁ……そういえば先ほども言っていましたね、今日の深青里くんはいつもの深青里くんじゃないって」


 漆茨さんは僕の言ったことは理解できずとも一先ず正直に受け入れてくれているから安心してそういう言い方が出来る。

 それは嬉しいのだけど、なぜだか彼女は食べる手を止めてジーッと僕を見つめてきて困惑する。

 穴が開くほど見る、という表現のお手本として記録しておきたいくらいジーッと見つめられる。気のせいに違いないけど顔に穴が空きそうになっているみたいに痛くなってくる。


「ど、どうかした?」

「いえ、見た目の違いはなさそうだなと思いまして」

「あはは……」


 変わっているのが中身だけだと分かっている僕からすれば随分間抜けな行為に見える。でも本人は至って真面目にやっているようだ。しばらく僕の顔から視線を外してくれそうにない。

 おにぎりを食べながら、答えのない間違い探しに付き合うことにした。

 刺さってくる視線を我慢しながら話題を変えてみる。


「最近はどう?」

「どう、とは?」

「調子とか日常生活のこととか……あとは悩みとか、かな」


 曖昧な聞き方になってしまったけど最後に本命を加えた。

 僕がこの世界に来たということはこの漆茨さんは今、なんらかの悩みか悲しいことがあることになる。

 僕が一方的に助けられている今、話を聞くだけでもしておきたかった。

 漆茨さんは間違いの発見を諦めたのか「そうですね」と視線を僕の顔から膝上の弁当箱に戻した。


「学校生活は相変わらず楽しいですし、いつも通りですね。悩みと言われると……」

「言われると?」


 言葉を濁した漆茨さんはチラリと僕を見て、しかしすぐにどこか諦めたみたいに肩をすくめた。


「……今はやめておきます。深青里くん、大変みたいですから」

「それを承知で聞いたつもりなんだけど?」

「うふふっ、つまりは秘密ということです」


 ピンと立てた人差し指を口に当てて、漆茨さんは悪戯っぽく笑った。可愛らしさと妙な色っぽさが合わさった表情に見惚れて僕は何も言えなくなった。

 美しさは武器とはこういうことを言うらしい。

 一瞬生まれた思考の隙に差し込むように「それよりも」と漆茨さんが始める。


「私のことより今は深青里くんのことです。深青里くんにとって祠はどんなものなんですか?」

「そう、だね……」


 答えづらい質問が飛んできて面食らった。


「なんというか、僕にとって凄く必要なもので……」

「それは分かっています。でないとここまでして探すはずありませんから。そうじゃなくて、どう必要なのか聞いているのです」


 と言われてもどこまで言えばいいのだろうか。

 現状伝えられていて、かつ信じてもらえている範囲から慎重に言葉を選びながら答え直す。


「僕のせいで苦しんでいる子を助けるためにどうしても必要なんだ。それがあればその子に押しつけちゃった問題を根本から解決できる可能性があって、そうなったらもう傷つけずに済むはずだから。まぁ、でも今は色々あって余計に傷つけちゃったから、その贖罪を兼ねてっていうのもあるんだけどね」

「その子は女の子ですか?」

「えっ……? それ、重要?」


 思わぬ角度からの質問に聞き返してしまった。


「はい、とても重要です」

「……そうだね、女の子だよ」


 漆茨さんなんだから。


「その子は私よりも大切な子ですか?」

「…………」

「答えてください」


 あまりにも真剣に聞かれて息を呑んだ。

 漆茨さんの無表情顔が思い浮かぶ。

 彼女と今隣にいる漆茨さん、僕にとってどちらが大切かなんて申し訳ないけど決まっている。

 でもそれを伝えるのは酷な事なんじゃないか。


 ってバカか僕は。答えるのに躊躇している時点で答えたも同然じゃないか。

 それでも答えを待ってくれているという事は。

 漆茨さんを見ると、静かに僕を見つめ続けてきている。


 ……そっか、漆茨さんはきっと分かって聞いているんだ。

 僕の口から直接答えを聞くために。


「……うん。その子は僕にとって誰よりも大切だよ。漆茨さん……君よりも」

「……やっぱりそう、ですよね」


 漆茨さんは目を見開いてからため息を吐いて肩を落とした。


「薄々分かってはいたので覚悟はしていましたけど、いざ言われてしまうと思っていたよりもショックなんですね……」

「でもなんていうか、今の僕にとってはその子の方が大切だけど、漆茨さんの知っているこっちの僕はその子のことは知らないし、漆茨さんの事の方が、つまり君の方こそ大切に想っているのは間違いないよ」


 あまりにも悲しげな様子に、つい早口になりながらフォローすると「なんですか、それ」と苦笑された。


「私が理解していないのをいい事に、体よく言ってはぐらかそうとしていません?」

「そんなつもりはないよ。そう聞えちゃったなら申し訳ないけど、でも本当だから」

「……ふふっ、冗談です。信じていますからそんなに焦らないでください」

「……それならいいけど」


 なんだかとてもやられた気分になる。

 とはいえ上手く説明できない中、無償の信頼を寄せてくれているのだからするべきなのは溜め息じゃなくて感謝か。


 向けた視線の中で漆茨さんは「私の事を大切に想ってくれている、ですか」くすぐったそうに、照れるように、そして嬉しそうに噛み締めていた。

 なるほど呼ばれたのはそういうことなんだと僕は察した。同時に僕は幸せ者なんだな、と僕自身に言い聞かせる。彼女と同じように噛み締めるように。

 程なくして「そういえば」と漆茨さんが顔を上げた。


「その子とは今、喧嘩しているのですか?」

「どうして?」

「先ほど今は色々あって余計に傷つけてしまっている、と言っていたのでそうなのかな、と」

「鋭いね」


 隠したつもりはないけど分かりにくい言い方をした自覚もあったから、気付かれてなおかつ触れられた事に少し驚いた。


「でも喧嘩とはちょっと違う、かな。僕が一方的に酷い事を言ったりやったりして傷つけちゃっただけだから」

「あぁ、さっきみたいに」

「……ごめんって」


 思い出したように言われて罪悪感が再燃する。

 目の前の漆茨さんにも、元の世界にいる漆茨さんにもどっちにも本当に悪い事をしてしまった。


「ならそれは全面的に深青里くんが悪いですね」

「うん、自覚している」

「ならちゃんと謝りに行ってくださいね、その子のところに」

「……分かってる」

「祠が見つからなくても、ですよ? きっとその子は待っていますから、深青里君の事」

「…………」

「一人で行くのが怖いなら私も一緒に行きますから」


 どんな子か気になりますし、と揶揄うような笑顔を浮かべる漆茨さんの言葉には溢れる程の優しさが籠もっていた。

 胸にジンワリと染み入って温かくなる。

 何故だか急に泣きそうになった。でもいきなり泣くわけにはいかない。


 こらえて漆茨さんを見返す。

 今日来たのがこの世界で、この漆茨さんがいてくれて本当によかった。

 漆茨さんなりに今の僕を見て向き合ってくれて、支えようとしてくれている。

 そのおかげで僕は今救われているんだから。


「ありがとう、会えたのが漆茨さんでよかった。心の底からそう思うよ」


 想いをそのまま口にすると漆茨さんは少し頬を赤くして視線を逸らした。


「た、食べ終わりましたのでそろそろ再開しましょう。今からどうしますか?」

「そうだね……」


 探索を再開するのは分かりきっているからいつまで、もしくはどこまでやるのか、という問いだろう。

 少しだけ考えてから告げる。


「もう少しだけ先の方に行ってからちょっと下って参道まで引き返そう。そのうち暗くなってくるだろうから今日はそこまでかな」


 自分一人だったら参道に戻ってから休憩して、その後に道を挟んで反対側を探索して帰る予定だった。終わる頃には真っ暗になっているけど、僕だけならちょっと危なくてもなんとかなる。


 けど流石に漆茨さんがいる状態で夜の山を歩くわけにはいかない。完全に日が落ちる前には参道に戻っていたい。茂みに囲まれた山の中だと日が傾き始めた時には周囲はもう影ばかりになる。そこには心細くなる程の闇が広がってしまう。


「私に気を遣わなくて構いませんから」

「そういうわけじゃないよ。冬なんだし暗くなるのが早いから安全を取らなきゃいけないでしょ。学校を休んだ二人がいきなり行方不明になりました、なんてなったら洒落にならないし」

「それもそうですね」


 納得したように手を叩いた漆茨さんは「けれど」と付け足した。


「本当に私のことは気にせず進んで下さいね。でないと私が足を引っ張っているだけになってしまいますから」

「……うん、分かった」

 それだけ交わすと僕らは立ち上がった。

 日没までに、祠が見つかる事を祈って。




   *  *  *




 折り返し地点から山を少し下って参道に引き返す頃には懐中電灯を点灯させていた。

 思ったよりも暗くなるのが早かった。太陽が雲に隠れているのかもしれない。

 漆茨さんは行きよりもペースが落ちてふらふらし始めている。しきりに足を確認する素振りをしているのは靴擦れを起こしたからだろうか。やっぱり靴は変えてきてもらうべきだったと後悔する。


 一度止まって休むべきか。それとも日が落ちきる前に明るい参道に出るべきか。

 迷って漆茨さんを振り返ると「何しているんですか!」と怒られた。


「私じゃなくて周りを見てください。祠を見落としてしまいますよ」

「う、うん」


 強がってはいるものの息が切れている。確実に体力の限界は近づいている。

 とはいえ僕も人の事は言っていられない。

 この世界の僕の身体はまだ山登り二日目だ。体力はないし、足の筋肉も頼りなく悲鳴を上げている。

 どうしよう。判断を間違えるのが一番不味い。


 僕は漆茨さんが歩きやすくなるようにより一層強く草木を踏みならしながら周囲を確認した。

 祠やそれとセットになっている大木が見えないのはいいとしても、都合よく休めそうなものもないのは残念だ。昼に座った倒木ほど分かりやすいものがある方が珍しいのは分かっていても今はあって欲しかった。


 そう思っているという事は早く参道に出るよりも今は休みたい気持ちの方が強いのだろう。

 ならやっぱり一度休む事にしよう。

 まだ軽食はリュックの中に入っているし、食べながら十分くらい。

 それくらいなら日没までかからないはずだ。


 漆茨さんにもそう伝えようと、再び振り返ろうとした時だった。


「えっ――!?」


 草木の下にあると思っていた地面がなかった。さらに踏みならそうと強く踏み込もうとした事もあって、もう片方の足でバランスを取る事が出来なかった。


 一瞬浮遊感に襲われた直後、急に地面に叩き付けられて斜面を転がり落ちていく。めまぐるしく変わる景色が地面と空がどこにあるのかを分からなくさせていく。

 全方向から同時に感じる衝撃に肺中の空気が吐き出された。息も出来ないまま平衡感覚が有耶無耶になって為すすべもなく回転に身を任せるしかなかった。

 しかし無限に続いていると感じた落下運動はいつの間にか止まっていた。


 最低限頭と首を守っていた腕をほどきながらゆっくりと目を開ける。

 その時耳に飛び込んできた「深青里君!」悲鳴のおかげで上がどっちにあるのか分かった。

 どうやら木か何かに引っかかっているわけではなくて平面に横たわっているようだ。

 ゆっくりと慎重に息を吸い込む。肺に痛みは走らない。


「深青里君! 大丈夫ですか深青里君! 深青里君!」

「ぼ、僕はなんとか大丈夫! だから漆茨さんはそこから動かないで!」


 何度も続く悲痛な叫びに、声を絞り出して答えた。


「でもっ!」

「漆茨さんまで落ちたらどうしようもなくなるよ! すぐそっちに戻るから待っていて!」

「は、はいっ……!」


 叫ぶ事が出来ているという事は最悪の事態には至っていないはずだ。

 落ち着いて身体を起しながら状態を確認していく。

 出血はなさそうだ。全身満遍なく痛いけど、一際強く痛む場所もないから折れてもなさそうだし足を捻った感覚はない。頭も強く打ったわけではないから無事だろう。


 問題なく立ち上がる事も出来たところで安堵の息を吐く。

 滑落しながら大した怪我がなさそうなのは本当に運がいいとしかいいようがない。

 もし落下している途中に木が立っていたら無事じゃ済まなかっただろう。頭を打っても腰を打っても立ち上がる事が出来なくなっていたかもしれない。


 漆茨さんを探して見上げると、彼女のライトの光は思っていたよりも近くで揺らめいていた。

 体感よりも落下していなかったみたいだ。改めて運の良さに感謝する。

 僕は辺りを見回して、落下中に手放してしまった自分の懐中電灯を探した。暗い中輝く光は嫌でも目立ってすぐに場所が分かった。


 拾って漆茨さんの元へとどうやって戻ろうかと考えようとした時だった。


 ドクン、ドクンと心臓が高鳴り始める。

 自然と目が見開いていく。

 偶然懐中電灯を向けた先に大きな木があった。変わった形の木だなと思ってよく見ると、それは三本が絡み合ってできていた。


 まさか、これは。


 ぞわぞわとした感覚が足元から身体の内側を伝って這い上がってきた。

 促されるように木の近くを光で照らす。

 もしこれそうなら、あるはずだ。

 すぐ近くに、祠が――。


「……あった」


 おそらく人生で一番大きく、強く跳ねて鼓動が止まった。

 鼓動だけじゃない。

 呼吸が、音が、時間が、この世の全てが止まった気がした。


 丸い光の中に、僕の目の前に小さな木で出来た祠があった。

 切妻屋根があって両端から紙垂のついた注連縄が下がり、その奥に閉じられた観音開きの扉がある。手入れされているわけではなさそうでボロボロになって汚れている木祠だった。

 僕の記憶の中にある祠とは状態が少し違うけど、探していたものだと間違いなく言える。

 これが、この祠が


「深青里君? どうかしましたか?」


 ボンヤリと聞えてきた声が時間を動かし始めたようだった。

 呼吸と鼓動が戻り一気に加速していく。

 全身を這っていたぞわぞわとした感覚が熱を帯びて強くなり、身体が震え始める。

 膨れ上がった興奮が叫びとなって口から飛び出した。


「あった、あったんだよ、漆茨さん!」

「あったって、もしかして――」

「祠が!」

「ほ、本当ですか!? わ、私も行きます!」


 本当は止めなきゃいけなかったかもしれないけどあまりに興奮していてそれどころじゃなかった。

 震えた心の真ん中から安堵が広がり体温と融け合っていく。

 それはどんどん身体から力を奪っていき、ヨロヨロと祠の前まで歩み寄ったところで僕はその場に崩れ落ちた。

 両手をついてその場にうずくまる。


「はぁ、はぁ、はっ、あはっ、あははぁっ! あはっ! あははっ! やった! はぁ、やったんだ、見つけたんだ! 僕は、僕はっっっ!」


 呼吸が整えられないまま叫んでいた。

 やっとだ。

 やっとこれで、全部。

 全部、全部、全部。

 これで全部終わらせる事が出来るかもしれないんだ。

 漆茨さんの苦しみを。

 彼女の表情も口調も、僕の世界を移動してしまう現象も。


 何もかもが元通り、本来の形に戻せるかもしれないんだ。

 やっと、やっと……!


「これが祠……」


 すぐ後ろで感嘆の声がした。


「うん、ずっと探していたものなんだ、これが」


 振り返って目が合うと、漆茨さんは何かに気付いたようにハッとして駆け寄ってきた。

 そして「よく頑張りましたね、深青里君」慈愛に満ちた笑みを浮かべて僕を抱きしめると頭を撫でてきた。


 同時に視界が滲んで目から涙が溢れた。

 温かくて柔らかい手が頭を撫でる動きに合わせるように、鼻の奥の熱が増して涙が止めどなくこぼれていく。

 止め方が分からないまま溢れていく涙と感情に揺さぶられながら、それを全て受け止めようとするみたいに包み込む漆茨さんの体温を感じながら、僕は消化しきれない程の安堵を浴び続けた。




   *  *  *




 スマホと紙の地図でそれぞれ祠の位置を絞って記録した後、僕らは下山した。

 その頃には完全に太陽は沈んでいて、濃い影が出来るくらいの月明かりが世界を照らしていた。

 青白い光に包まれた静かな世界を、漆茨さんと二人して足を引きずりながら並んで家に向かった。

 その間、気恥ずかしさを含めて色んな感情が体内でのたうち回っていたため、何も喋れなかった。それでも一番ハッキリと心を包む安堵感が、その沈黙を肯定してくれていた。


 気まずさの介在しない、心地よさすら感じる静寂を過ごして僕らは漆茨さんの自宅の前にたどり着いた。彼女の母親はすでに帰宅したのか駐車場には車が停まっていた。

 漆茨さんは門の前で立ち止まって僕の方を向いた。


「送っていただきありがとうございます」

「ううん。それよりごめん、こんな暗くなるまで付き合わせちゃって。靴擦れも酷いよね。足、大丈夫?」

「これくらいへっちゃらです。深青里君の方こそ大丈夫ですか? 私よりよっぽど痛むでしょう?」

「まぁ、なんとか大丈夫そうだよ」


 転げ落ちた時に打ち付けて生まれた痛みは未だに全身に残っている。

 けど時間が経った今も耐えられないくらい激しく痛む場所はないから大丈夫だろう。


「今日は本当にありがとう。漆茨さんがいなかったら見つけられなかっただろうし、きっと僕はダメになってた」


 祠を見つけられたのはもちろん、八つ当たりを許してくれた事、僕を僕として受け入れてくれた事、支えてくれた事、受け止めてくれた事。

 感謝したい事が多すぎて言葉だけじゃ伝えられない。伝えられるだけの時間もない。

 それは分かっていたけど、それでも僕はもう一度「本当にありがとう」と口にした。

 すると漆茨さんはくすぐったそうに笑った。


「ふふっ、何回も言わなくてもいいですよ。それに私も嬉しかったのです、深青里君の弱音が聞けた事。そして頼ってくれた事。ようやく少しは力になれたんじゃないかって思えて」

「少しなんてことないよ。全部だよ。漆茨さんが僕を導いてくれたんだ」

「……そう、ですか」


 真っ直ぐ目を見て伝えると漆茨さんは驚いたように丸くした目を伏せた。

 しばらく地面を見つめて動かなくなる。次第にその頬と耳は赤くなっていった。

 そして漆茨さんが顔を上げて、僕たちは見つめ合った。

 しばらく重なった視線はブレる事なくお互いを移し続ける。漆茨さんのわずかな振る舞いも僕の目には全て映った。

 とうとうその艶っぽい唇がゆっくりと動いてその間から言葉が紡がれる。


「あの、このタイミングで言うのは卑怯だって分かっていますが……」

「待って」


 僕はそれを阻止した。

 けど今日は耳の奥から乾いた嫌な音は聞こえなかった。

 僕が逃げるためじゃなくて、お互いが納得するためだったからだろう。


「それは明日聞かせてほしい」

「……今は、私の知る深青里君じゃないから、ですか?」

「うん。漆茨さんが伝えなきゃいけない相手は明日の僕なんだ」


 僕の言葉に漆茨さんは諦めるように小さく溜め息を吐いた。


「それなら仕方ありませんね。じゃあ明日こそ言わせてもらいますから」

「……場合によっては明後日になるかもしれない。その時はまた止めちゃうかも」


 明日はここに来て三日目だ。大丈夫だとは思うけど、もし明日もこの意識がこっちに残っていたら、僕は漆茨さんの気持ちを受け取るわけにはいかない。

 だからそうなったら申し訳ないけどもう一日は延期してもらわなきゃいけなくなる。


「……深青里君って案外平気で酷い事言いますよね。私の決意と覚悟をなんだと思っているのですか?」

「ご、ごめん……」


 それに関しては本当にごめん。

 僕には謝る事しかできない。


「……ふふっ、もうそういう人なのだと諦めます」


 漆茨さんは呆れたような、でもどこか楽しそうな微苦笑を浮かべた。


「その代わり、ちゃんとあなたの大切な子に謝りに行くんですよ。許してもらわなきゃダメなんですからね」

「うん、ありがとう」


 笑い合うと、漆茨さんは門を開けて入った。

 しかし玄関ドアの前で立ち止まり、もう一度こちらを向くと笑って手を振ってきた。


「いってらっしゃい、深青里君」

「……うん、いってきます、漆茨さん」


 別れの言葉はまたね、ではなかった。じゃあね、でもなかった。

 その挨拶に、僕も手を振り返した。どちらからともなく振り終えると、今度こそ漆茨さんは玄関ドアから家の中に入っていった。


 その際、一瞬寂しそうな顔をしたように見えたのは気のせいじゃないと思う。

 僕が世界移動をしている事を理解は出来ていなくても、もう今の僕とは会えない事を感じ取ったのかもしれない。

 だからこうして元の世界にいる漆茨さんのところに行って、ちゃんと気持ちを言って想いを伝えるための勇気をくれた。最後の最後まで背中を押してくれた。そんな気がする。


 この計り知れない力を、僕は無駄にする事は出来ない。

 また明日、きっと戻っているはずの元の世界で僕は漆茨さんと向い合おう。

 そして全てを終わらせて、その時はちゃんと気持ちを伝えよう。




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