Epilogue-2 鬼神と瑞獣
放課後――夕暮れの屋上。
塔屋の上で寝そべって、あやめは沈む夕日を眺めていた。
「ああ、ここに居たんだ」
搭屋の天辺へ続く梯子の上を、貴之はのんびりと登ってきた。
あやめが悪夢に魘される日々の間、何時もどこかで一眠りしてくると出掛けていたが。なるほど、人気のないこの屋上は盲点であった。
屋上へ続く階段の踊り場に、鍵が掛かった出入り口が三か所ある。実は一つだけドアの鍵が壊れて、出入り自由となっていたのだ。
霊力など気詠みが得意なあやめである。すぐに気付いたのであろう。嘗ては昼飯のコンビニおにぎりも、ここでひとり味もそっけもなく摂っていたに違いない。
「よくここが分かったな」
「まぁ……この右手が教えてくれたんだよ」
そう云うと、貴之の右手はあやめの心魂と共鳴していたかのようだ。
貴之の右腕は、悪路の右腕。悪路の腕は、鬼の腕である。俄かには信じがたいが、未だ残る膨大な鬼気は龍脈と繋がりて、あやめの居場所を敏感に感じ取ったのだろうか。
「チイッ、悪路よ……余計な真似を」
「なぁ、まだ怒っているのか?」
「……フン。もうそんなものは、疾うに通り越した」
困り顔の貴之に、拗ねた様子のあやめはそう云って口を尖らせる。
「じゃあ、どうしたのさ」
「どうしたも、こうしたも……」
怒りを通り越して、放心を通り越して、呆れるを通り越して――
「貴之の顔を見たら、また沸々と怒りが湧いてきた」
「おいおい、あやめ。勘弁してくれ。悪かったってば」
「……が、挙句の果ては、どうでも良くなった」
情けなさそうな、諦めがついたような。
複雑な感情が混ざり合う、よく分からぬ表情を見せる。
「貴之よ……儂ゃなぁ、お前さんに……」
「なんだ?」
「お前さんに、すっかり
悔しいが貴之は、無粋にも意味を理解していない顔をする。
傾くとは即ち……惚れてしまったと云う意味なのに。
「隣、いいか?」
「お、おう」
貴之が隣に腰を下ろすと、あやめは慌てて衣服を整えて正座する。
この鬼娘、思いの外に清楚を好む古風な所作がある。
はぁ……儂は一体、何をぐずぐずとやっているのだ。
男が男に惚れるっちゅーのは……まぁ分かる。
だって、儂は男だったし?
大昔にゃ『刎頚の友』と惚れ込む仲間もいたし?
だが――小娘の身体と相成った今や、もうひとつ分かるものがある。
心の内に沸々と湧き上がる、焼けた鉄の塊の様に熱い感情。
「女が男に惚れるとは、斯く云う気持ちやも知れぬ……」
「ん、何か言ったか?」
「ふっは……い、いや、その、な、なんでもないぞ」
うっかり呟いただけじゃ。音にゃ出せぬ独り言じゃ。
聞こえなければ、それでいい。
理解できなんだら、それでいい。
それでもいいから、傍に居たい。
それでもいいから、共に生きたい。
この気持ちは、嘘偽り無き、事実。
「お願いじゃ、貴之……儂を……」
この儂をずっと、お傍に置いて下さい。
それだけがこの身の、唯一の願いで御座います。
その言葉が、なかなか声にならぬ。
もしも貴之に拒絶されたなら――怖い。
怖くて声が震え、言葉にならぬ。
「喝ーッ! だらしないぞ、鬼娘!」
突然の一喝と共に、天より舞い降りる者ありけり。
音も無く現れて、あやめの背後にふわりと降り立つ。
その姿は、妖狐・芙蓉。九尾の狐。女子高生・森咲さつきと名を変えて、瞬く間に斯くや
「なっ、何じゃ貴様! 今まで一体、
「ぼんくら。ずっと居ったわ。お前の背後のその上じゃ」
焦るあやめに毒を吐き、塔屋のその上、高架水槽の
後で聞くに、どうやらそこで寝そべって放心状態になっていたらしい。
「卑怯だぞ、芙蓉! よもや聞いては居るまいな!?」
「浮ついた口上なら聞いて居ったが、矢も楯も堪らなくなった」
「う、浮ついてなど居らぬ!」
「存分に浮ついておったわ。愚か者の愚かはよう顔に出る」
「うにに、うに、浮ちゅいてなど居にゃにゅ!」
「ほれみぃ、焦りよって噛んでおるじゃろ、たわけが」
「う、うににに……!」
涙目で悔しがるあやめを捨て置き、急に矛先は貴之に向いた。
「そもそもあるじ様とて、あるじ様じゃ!」
「えっ、僕?」
「すっかり
「な、何だよ、それは?」
「妾の様な純情可憐な美少女と、ひとつ屋根の下で暮らして置きながら! 泰然自若と術者面して据え膳喰わぬとは! あるじ様は、それでも
「す、据え膳!?」
「そうじゃとも、この鈍感! このいけず!」
元より妖狐は、毒舌上手の口上手。その滑舌が回るは
そうして好き勝手に捲し上げた挙句……ひらりと貴之のすぐ近くまで舞い降りる。
「しかし、じゃ」
急にちょこんとしゃがんだ芙蓉は、縮こまるや上目使いに貴之を覗き込む。
「あるじ様は凄いなぁ。人を化かして
妖狐の
「ふっは……あっははは、違いない!」
だが貴之はそんな二人に対し、
「僕はもう何の取り柄もない、ただの高校生だよ」
老人から授かった『三つの力』は、全て綺麗に消え失せた。貴之が彼女らの云う『稀代の術者』と相成る事は、もう二度とないだろう。
だが――あやめと芙蓉は、揃ってすっくと立ち上がり、貴之に申し上げる。
「いいや、貴之は『稀代の術者』じゃ」
「そして、この日の本を『三つの災厄』より救った大英傑じゃ」
「だから堂々と誇っていいぞ」
暮れなずむ夕陽を背負うと、悪鬼と妖狐は真っ直ぐと誇らしげにそそり立つ。
「ああもう、儂は決めたぞ!」
吹っ切れたあやめは、もう我慢ならぬとそう叫ぶ。
「この黒き鬼神、天に誓おう――勇壮無比、豪傑無双なこの力、
そう告げると、掌を天へと突き立てる。
「ならば妾もじゃ」
それを見た芙蓉も、すぐさまあやめの後に続く。
「この白き瑞獣、天に誓いまする――権謀術数、陰謀詭計の限りを尽くし、あるじ様をお支え致しますわ」
しゃなりと膝を折り、嘗て王宮の宮廷女官が如く
それぞれがそれぞれ、思い思いに仰々しく振舞うと、貴之の前に
「おいおい、何言ってんだ二人とも。急にどうしたんだ?」
真摯で鹽らしい態度の二人を前にして、演技から解放され、虚勢を張る必要のなくなった貴之は、今までになく戸惑って焦る。だが二人は、お構いなしに口上を続けた。
「儂ら、鬼の眷属すら驚嘆す大胆不敵、その度胸」
「妾ら、狐の眷属すら欺いた舌先三寸、その機転」
「「まさに、我らが主君に相応しい」」
申し合わせたわけではないが、二人して声を揃えてこう云った。
「今日から貴之様は、我ら黒き鬼神と――」
「白き瑞獣の、
終にあやめは、真面目な顔で正座して三つ指を突いた。
「儂を……いや、どうか我らを導いてくれ」
頭を一度下げた後、再び顔を上げると、真正面から貴之を覗きこんだ。
真っ直ぐな瞳に、紅潮した頬。それは決して夕焼けの
「参ったな……そう言われても、やることなんかもうないよ」
そこで芙蓉はポンと手を打つと、名案の浮かんだ
「そうじゃな、では決めたぞな」
「へぇ……何をだ?」
その顔で、思いも寄らぬとんでもないことを口にした。
「妾が智謀の限りを尽くし、あるじ様を必ずやこの世の
「はぁ?!」
「くふふぅ……何せ『妾のあるじ様』じゃからのぅ……」
芙蓉は脳が蕩けそうな程に甘い声で囁きて、貴之に顔を寄せると――その頬をぺろりと舐めた。舐めたかと思えば間髪入れず、ぽかんとした貴之とあやめの隙を逃さず。貴之の顔を両手で包むように引き寄せると、奪うような
「ああああーっ!!?」
「くふっ、妖狐はな……惚れた相手には、とことん尽くして尽くして尽くすのじゃ!」
もじもじと小さな尻を振って腰をくねらせながら、芙蓉は貴之の腕に引っ付いた。
「のう、あるじ様……妾を蹂躙して構わぬぞ? 夜伽も毎日付き合うぞ?」
「お、おい……」
「放蕩も、淫蕩も、思いのままぞ……ねー、あゆじしゃま~ん」
甘える芙蓉の語尾からは、終にハートマークが見える程と相成りにけり。
その態度を眼の前にして、あやめはとうとう怒り出す。
「くわーっ!! ええいくっつくな、汚らわしい女狐め!!」
あやめは芙蓉の尻を、これでもかと思いっ切り蹴っ飛ばした。
芙蓉は『ぎゃいんと空中三回転』で宙をひっくり返って転げると、流石の瑞獣・九尾の狐も溜らず、貴之からぴょーんと飛び退いた。
「貴之よ……キツネだけ、ずるいぞ」
「う、うわっ!」
あやめは「ぷう」と頬を膨らませて貴之に飛び掛ると、馬乗りに伸し掛かる。だがその場の勢いだけでやってしまったものだから、この先まるで要領を得ない。
「た、貴之よ……」
「あやめ……」
もじもじと揺れた身体が、艶やかに輝く漆黒の髪が、貴之の頬に懸かった。
驚いて覗き込んでくる貴之の瞳は、すぐ目の前にある。あやめは負けじと見つめ返す。それは吸い込まれそうな程に深く、何よりも純真で真っ直ぐな瞳。
貴之もあやめの真剣な瞳に、吸い込まれてしまいそうだと同様の事を考えた。
「す……好きじゃ……」
小さき身体に似合わぬ程、大きな胸の膨らみを震わせて――あやめは意を決した様に、瞼を固くギュッと瞑ると、「えいや」と唇を交わしてしもうた。
不器用な口付けであった。だが誰よりも熱い気持ちを込めたつもりだ。
ゆっくりと
人と鬼、心と身体を繋ぐ橋渡し。儚くも美しき光明を結ぶ、銀の糸であった。
「何か、儂の中で決定的な
胸の高まりが止まらない。いまや貴之の何もかもが愛おしく感じられる。
骨の髄まで痺れるような、甘く切ない吐息零れるこの気持ち。
「重い錠前を下ろした様な、そんな呪が……掛かった気がする」
千年もの間、体験した事のない感情が、身体の隅々まで突き抜けていた。
「だがしかし、だ」
あやめは、にっこりと微笑んだ。迷いや後悔など
それは菖蒲の藍色か、突き抜ける空の蒼が如し。晴れやかな気持ち良き笑顔であった。
「その分、身も心も……だいぶ軽うなったわい」
斯うして――接吻により呪が掛かり、あやめの性は永遠に固定された。
東西東西――
悪鬼羅刹より転生し、護国の鬼神と相成った、純情可憐な恋心。
後世にその名を連ねし伝説は、また別の物語で御座候――
鬼神純情伝! めたるぞんび @METAZONE
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