Epilogue
Epilogue-1 鬼神と瑞獣
明くる朝――貴之が目覚めるとそこは、自室のベッドの上であった。
鈍痛に見舞われ、重い頭を無理して擡げると、すぐ傍らにはあやめと芙蓉の並んだ顔。寄り添う様に覗き込む丸い目を二人して真っ赤にしていた。もしや大いに泣き腫らしたか。
「お帰り……貴之……」
あやめにしては珍しく、感極まった表情を隠さぬ。上気した頬に震える口唇、潤んだ瞳、そして指先の表情に至るまで、その様子は全身より窺われた。
「ほんに、ほんによう……くふぅ」
芙蓉までもが頬を紅潮させ、瞳は
然して鬼娘と狐娘の二人とも、貴之を見る瞳の色が明らかに違う。その様子から察するに「自分は相当危険な状態だったのだろう」と貴之は、
しかし二人の胸中はそればかりではなかったが、まだ貴之は知る由もない。
貴之が摩訶不思議な夢を見ていた間、如何にして自宅の部屋まで運ばれたか。
これは後で聞いた話だが――九尾の狐と相成りし芙蓉の背に運ばれて、貴之は空を飛んだのだそうだ。静岡から自宅まで小一時間。その間あやめはずっと、貴之を護る様にしてたわわな胸に強く深く抱きしめて、離す事は決してなかったと云う。
「儂は……分厚き曇天の雲間から、光を視た想いじゃ……」
富士の人穴を出でし折、あやめは産まれ変わった気持ちになったとそう語る。
悪鬼から鬼神へと今まさに転生せし我が身が、産道を模したが如き洞内より外界へと抜けるは、まさに奇遇。若しくは天佑。嗚呼、これは神の思召しではなかろうか――と、恍惚と視線定まらず「ぽわわん」とした様子は、如何にも夢心地の乙女が如き表情である。
「お、おう……そうか」
今までにないあやめの神妙な空気に、圧倒されそうな貴之であった。
その間、童女のような眼差しの芙蓉はと云えば、じっと黙して大人しく、まるで借りてきた猫……否、借りてきた狐。何に似ているかと問われれば、主人に敬愛の眼差しを送る忠犬。
そんな二人をさて置いて、貴之は失った筈の右腕をふと眺めてみた。
かの浅黒い悪路が右腕のまま、金に輝く龍の刺青が残る。だが徐々に貴之の身体に馴染み始めているのだろうか。刺青模様は薄らと、継いだ肌の色も貴之に馴染みつつあった。
やはりあの出来事は、夢ではなかったのだなぁと、他人事の様に思い返す。
「貴之……」
そう呼ぶ声に気付けば、何時の間にか美少女二人の顔がすぐ傍近くにあった。双方の漆黒と
お互い不安そうに手を取り寄り添うて、潤んだ大きな瞳でじっと貴之を見返した。犬猿の仲のこの二人、何時の間にそんなに仲良くなったものか。
「大丈夫……もう、大丈夫だ」
貴之はそう答えるが精一杯。まだ身体を起こせそうにない。
何とか動かす事ができた左手で、二人の頭を優しく撫でた。芙蓉は猫の様に目を細め、あやめは真っ赤な林檎の様に頬を赤らめ、貴之に大人しく撫でられた。
「あの、貴之よ……話したい事が沢山あるのだ」
「妾も……伝えたい事が、沢山ありんすぇ……」
込み上げた想いを絞り出す様にそう云うと、あやめだけが唐突に貴之のベッドへ突っ伏した。そのまま顔をぐじぐじと擦りつけたかと思えば、喜色満面に首を上げて宣言す。
「よし! ……よし、決めたぞ!」
「何をだ?」
「お主が動けぬ間は、儂が目一杯世話を焼いてやる!」
「ええっ、わ、妾も居るんだからねっ!」
突然何を想ったか。あやめが貴之の看病を宣言すると、芙蓉が慌てて追従す。
「よいな、貴之よ」
「いいわよね、貴之っ!」
「お、おう」
などと、二人してやけに甲斐甲斐しい事を云い出した。よもや揃って世話女房を買って出るとは、流石に思いも寄らなんだ。何時もは家事当番すら嫌厭する二人である。
神妙にして健気なことだ――と、貴之は思ったが、その理由まで今は頭が追いつかぬ。
「貴之よ。前に看病してくれた倍のお世話をしてやるぞ」
「な、何よそれ……
「ふふん! どうじゃ羨ましかろうぞ、
だが――猪口才なあやめに、むくれる芙蓉。二人の調子と共に、何時もの雰囲気が戻ってきた――貴之は、改めてそう実感す。
そうだ。大災厄を乗り越えて、三人は揃って日常へと帰ってきたのである。
「頼みがあれば、遠慮するな」
「そうよ! 妾が何でもしてあげる!」
「おい、何でもって……」
「べ、別に、甘えたって……いいんだからね?」
「ムッ……わ、儂かて……同様じゃし、うん」
妙に懐いてくる芙蓉に引っ張られる様に、今度はあやめが赤面しながらも追従す。
「俺は大丈夫だ。だからまずは二人とも休め」
漸く安堵の心持ちが着いた貴之は、そう告げて柔らかな笑顔を向ける。
実際に身体を張って闘ったのは、鬼神と妖狐――この二人なのだ。只の人間である貴之に従いて、よくぞここまで頑張ってくれたものだと感謝の気持ちしかない。
「はい……」
あやめと芙蓉は慎ましやかに声を揃え、貴之の言葉にいと素直に応ず。
「……どうした?」
どうしたもこうしたもないもんだ。貴之の不意な笑顔を見たせいか、悪鬼と妖狐は胸の鼓動がどうにも収まらぬ。純情可憐な悪鬼は真っ赤になって顔を伏せ、童心無垢な妖狐は胸のときめきが止まらぬよう相成った。
「ででで、では貴之も、今はゆっくりと休め!」
「あああ、あるじ様ぁ、何時でも妾を呼んでくりゃれ!」
貴之に促された二人は、慌てるように我先にと部屋を出た。
部屋を出た途端、今までの緊張の糸が解れたか。腰が抜けんばかりとなって、膝から崩れそうになるを二人してぐっと堪える。何せ、激闘に次ぐ激闘と死地を掻い潜り、貴之の生死に心細い一夜を明かしたのだ。
「な、何じゃ貴様、その体たらくは!」
「おお、お前さんかて同じじゃろ、だらしない!」
互いに軽口を叩き合いつつ、互いが互いに支え合う。
そうしないと最早、双方ともに立って歩くなど叶いそうにない。
「ふふっ……うふふふっ……」
「ははっ、あははははっ!」
鬼神と妖狐は、絆創膏だらけの顔を見合わせると、笑いが止まらぬように相成った。
千年の時を刻みし悪鬼と妖狐は、貴之の無事が何よりも嬉しかった。
それが何よりも、嬉しかったのだ。
◆ ◆ ◆
数日後――貴之はすっかり回復した。
右腕はまだ薄らと継ぎ目が残るものの、自らの腕の様に馴染んだ。それに伴い腕にあった金の刺繍を誂えた様な、龍の刺青模様も消えた。
但し、暫くの間はその鬼の腕に、絶大な鬼気を宿しているとあやめは云う。
「日常生活に支障ない様、儂らがしっかりと見守ろう」
そう云いてあやめと芙蓉は、いつも通り貴之にぴったりと寄り添う。
悪鬼と妖狐は、今ではすっかり学校に馴染んでしもうた。護衛の必要がなくなった今でも、欠かさず休まず登校する。その登校風景は、朝の名物になりつつあるようだ。
妖狐・芙蓉、こと、森咲さつきは、学園生活を満喫する様に嬉々として。
悪鬼・嶄九郎、こと、貴島あやめは――前よりもよく笑顔を見せるよう相成った。
それから更に、数日後の事である。
「な、なんじゃお前……そこで何をしている」
「お、お前さんこそなんじゃ、そんな
放課後の学校内は、部活棟へと続く人気のない渡り廊下。あやめとさつきは、そこで思い掛けずもばったりと出くわしてしもうた。
時を同じくして双方姿を現したは、云わずもがな。貴之を待ち伏せする為である。あやめとさつき、共に考えは同じであった様だ。
そう――二人には、胸の内に固い決意があった。
「そうじゃ……儂は密かに憧れておったんじゃ。心から敬愛する主君を仰ぎ、真っ直ぐに前を見て只管に付き従う――彼の英雄・頼光を主に持つ、綱の様に」
さつき、こと芙蓉も、あやめと同じ気持ちであった。
「嗚呼、憧れておった……瑞獣・妖狐のこの
二人の望み――それは、貴之の様な偉大な術者の
例えば、役小角が従えし前鬼・後鬼の如き式神として。偉大なる主に仕える事こそ眷属の誉れ。遥けき過去に望めども、現代の世では最早叶わぬ夢、と儚んだものだった。
だがそれが現実に、目の前にあると知った時、これ程胸躍る事はあらんや。
「あやめは待つのじゃ。妾はいっとう最初に「一所懸命に働きまする」とあるじ様にお誓い申し上げた。我が眷属の誓いは絶対じゃ。破れはせぬぇ」
「儂かて「主命に従い手柄を上げ、手助けをする」と誓った身じゃ。破れはせぬ」
互いに額を擦り合わせんばかりに顔を見合わせると「ぐぬぬ」と呻る。そこであやめは唐突に、何故か「ふふん」と鼻息荒く、偉そうにぶるんとたわわな胸を張った。
「では、貴之様の一番の子分は儂じゃ。お前は二番目じゃ」
「五月蠅いぞ鬼娘、そんなもの関係ないわ」
「な、何じゃと、この狐娘!」
「世は弱肉強食、下剋上。あるじ様の役に立った者が勝ちよ!」
「うにににぃ……!」
「くふふふぅ……!」
火花がバチバチと交差せし中、貴之は廊下を曲がってこちらへ来る――
――と思いきや、二人の様子を目の当たりにして、すぐに踵を返す。
「あーっ! 逃げたぞっ!!」
「ちょっと待ちなさいよ!!」
悪鬼と妖狐から、逃げられるべくもなし。
すぐさま追いかけた二人は、貴之をあっさりと捕まえた。
「うわぁ、な、なんだなんだ?」
事情を知らぬ貴之は、突然の悪鬼妖狐連合の襲来に慌てふためく。
「二人とも今更、
ふと気付くけば、はて、何かがおかしい。そうか。貴之が自らを『俺』ではなく『僕』と呼ぶ。だがそれは、大事の前の小事。大した話ではない。
「何か用かとは、余所余所しいぞ、貴之!」
「そうじゃぞ、妾とあるじ様の仲じゃろうに!」
「な、何じゃその、き、貴様との仲とは!?」
「まぁまぁ……」
宥める貴之に、あやめは早速本題に入る――前に、少々気になった事を訊ねてみた。
「むむ、貴之よ。今は職員室の方から来たか?」
「ああ、そうだけど」
「今日は確か、野球の部活ではなかったのか?」
「ああ、それはもう退部したよ」
春先に転部した野球部を辞めた――貴之は事もなげにあっさり云い放つ。
何しろそれは『全てを偽る』為の事。試しに普段の生活スタイルから入ってみただけである。よって貴之には、本当にやりたい部活があるのだ――と云い出した。
「まぁよい。それよりも儂の話を聞いてくれ」
「いや、待て。妾の話が先ぞ!」
などと先を争って睨み合うは、あやめとさつき。
貴之に宥められつつ、それぞれに思いの丈を打ち明ける。
「ちょ、ちょっと待って……もう終わったんだよ?」
あやめとさつきの話を聞いて、焦りに焦るは貴之である。
今や『三つの掟』は守り抜き、『三つの力』を以てして『三つの災厄』を無事に潜り抜けた。最早、嘘偽って立ち回る必要など、是非もない。
だがここまで共にやってきたのだ。彼女たちに隠し立てもないだろう。貴之はえいやと思い切って、今迄まんまと騙してきた事実を、何もかもすっかり打ち明ける事にした。
「……ってことで、今まで君らへ見せていた姿は、全部嘘だよ」
災厄に相対して、数々発したそれっぽい言ノ葉は、全部大嘘。
何の確証もなく、二人に合わせて尤もらしく云っていただけ。
「僕の一世一代の大博打――もとい、一世一代の大芝居さ」
そうと云われても、固く信じ込んだ偽りを覆せるものではない。
「は、はっは、ははっは……! 貴之よ、それは何の冗談だ?」
どうしてもあやめには、まだ事実を受け入れ難いらしい。
では益々覚悟を決めて、種明かしするとしようか。
「儂と相対した時の、睨め付ける眼力の凄味!」
「そ、そうよ! 堂々たる態度に朗々たる声色!」
「当然だけど、全部『演技』だよ」
その辺りは歌舞伎や能など、日本の伝統芸能を手本にしてみた。或いは昔の時代劇や任侠映画などを、ケーブルテレビやネット動画で参照して勉強したものだ。
「ではあの、正確無比な洞察は?」
「そうだ、あの深慮遠謀の数々は?」
「偶然だよ。だって口から出任せの出鱈目だもん」
「でっで、出鱈目!?」
そんな莫迦な。あいや、まだまだ。
ここまで来ておいそれと引き下がれぬと、悪鬼と妖狐は執拗に食い下がる。
「し、しかし、龍脈の殺生石事件の時の推理は……」
「推理して解決したのは、全部あやめじゃないか」
――云われてみれば、確かにそうだ。
「そう云えば、貴之のご両親や妹は?」
「当然健在さ。商社マンでね。両親と妹はカナダへ長期出張中」
「……へっ?!」
「妹は向こうの学校へ。僕は高校を退学したくないから残ったんだ」
――それでもまだまだ、最も解せぬ事がある。
「で、では、儂が鬼断ちの鬼神と成れたのは?」
「わ、妾が九尾の狐と成れたのは……?」
「そうだなぁ……プラシーボ効果じゃないかなぁ」
「プラシーボ効果ぁ!?」
プラシーボ効果とは、
そうは云いつつも貴之は「もしかしたらあの老人の言う『言ノ葉の術』即ち『言霊』ってやつかも知れないな」と、
「でででで、では、儂の屋敷で仁義を切った、あの口上は?」
「妾の演技を見抜くのが上手かったのは……?」
「ああ……だから僕はね、『演技』についてちょっとうるさいんだ」
そこで貴之は、その手に持ちたる部活動の『変更届』を二人に見せた。
部活動の変更届に書かれていた名称、それは――『演劇部』であった。
「え……」
「演劇部……」
春休み明けから、部活を急に変えて野球部へ入部した。
転部する前の、彼の部活こそ、何を隠そう『演劇部』であった。
当初より貴之の、全ての態度に通ずるは、一貫して『演技』である。
全てを偽れ――老人からそう云われた瞬間に、貴之は何もかもを完璧に演じ切ろうと心に決めた。偽りの人格作りから、時代劇めいた台詞まで。
よって何もかも全てが、この世に存在せぬ人物像。大災厄の解決するその時まで、徹底して架空の
「きゃ、きゃらくたぁ?」
「ええとホラ、これがキャラシー」
「きゃ、きゃらしー……とは?」
「キャラクターシートのことだよ」
そう云い退けて、鞄より取り出だしたる大学ノートを二人に見せる。
キャラクターシートとは、演技者が演技を行う際、その役に成り切る為、役の性格や主義主張、思考や行動原理、趣味、好物等々、その他様々な内容を記す帳面の事である。
貴之が書き出だしたる内容は、大学ノート丸ごと一冊にまで渡り、微に入り細を穿ちて、詳細にして実にみっちりと書き込まれていた。二人が目を通せばまさにそれは、今まで貴之が二人に見せた性格、態度、その他諸々が全て的確に記載してあった。
「こ……これは、一体……?」
「いやぁ、一度でいいからこういうの、
「や、やってみたかった、とは、いったい何をじゃ?」
「二十四時間、日常生活――全て『演技』ってやつ」
「な、ななな、なんと……!?」
「要するに、何から何まで全部ひっくるめて『演技』ってことさ」
貴之は事も無げに、白い歯を見せ「ハハハッ」と笑った。
「演技……?!」
「演じてた……」
「全て演技……」
「全て演技じゃとぉぉぉぉーっ!?!?」
現実世界を舞台にし、スリリングを飛び越えた演技に次ぐ演技。全てアドリブに次ぐアドリブの即興劇。それを一度でいいから演ってみたかった、と貴之は飄々と云い放つ。
彼はちょっと変わり者――
その性格は、その場、その時で、くるりくるりとよく変ず。
冒頭にあるが通り、この少年、手よりも先に口が早く動く
即ち貴之は『稀代の術士』ではなく、『稀代の演者』であった。
「な……何もかも全てが……?」
「そうだよ。全部『演技』だよ」
その天賦の才は、今の今まで誰にも知られず、誰にも見出されず。恐らくはこのまま。高校演劇の内に埋もれ、消えゆく稀有な才であった。
故にどこにでも居る普通の少年――そうだ、云われてみればその通り。しかしそれは貴之が、
だが貴之は『三つの災厄』と出遭ってしまった。やがて彼の演技力は『災厄』を経る度に、益々磨きを掛けてゆく。まるで実戦で鍛え上げられし、
高い精度で演ずる役は、まるで自分がまさしく『稀代の術者』であるかの如し。然かしてそれは、紛れもない『嘘から出た
「あ……あなやぁ……」
悪鬼と妖狐、二人揃って思いがけず同じ感動詞を唱えた。
あんぐりと口を開きて、開いた口が塞がらぬとはこの事ぞ。
貴之はニコリと笑うと「それじゃ」と手をひらひらと振って去る。
げに何事も無かったかの様なそれは、極自然な背中であった。
「な……なんと……」
「そんな莫迦な……」
黒き悪鬼は、口をあんぐりと開けたまま直立不動で身動ぎできず。
白き妖狐は、腰が抜けて力なく、へなへなとその場にヘタりこむ。
気力体力妖力胆力、全て揃いし悪鬼大妖らと云えど、身動き一つ叶わじ。
貴之の立ち去る背中を茫然と見送る他に、もう何もできなんだ。
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