第40話 冥府の旅路・後
◆ ◆ ◆
意識を失った貴之は、夢の中へ沈みゆく己を感じていた。
夢の中へ沈むとは、失神とも
そうか、ここがあの世の入り口か――きっと俺は、死んだのだろう。
根拠はない。根拠などないが、貴之は勝手にそう思った。何しろ最期の最期は際の際に、犯してしまった大きな過ち。諦めと弱音を口にして、あやめには「逃げろ」と告げた。
死への恐怖を見せ、情けを掛けた。情けを掛けた上、真実を口にしたのだ。よって血肉と魂魄を貪り食われたに相違ない。
ふわり、ふわ、ふわり――
足元より宙へ向け水の泡が浮かぶ。自分という存在の殻が壊れ、徐々に分解してゆく様であった。大小様々な水泡と相成りて、虹色の光彩を放ちつつ空へ消えゆく。
ぼんやりと眺めやる貴之は、朦朧とした意識の中で「綺麗だな」と思った。
もしやその水泡が、自らの命の
思えば短い生涯であった。後悔がないと云えば嘘になる。
その中でも、気懸りと云えば、ただひとつ。
あやめと芙蓉は、無事息災であろうか――心の片隅に念が残る。
だが壊れゆく自我の殻には抗い難し。力なく瞼を閉じん――その間際である。
消え逝きそうな意識の向こう側で、会話する男女の声が聞こえてきた。
「あら、
「ぬ、相変わらずとは何事ぞ、疑ひなき君よ」
「くふふぅ、然るにこの仕業は、如何して?」
「なぁに、ちょっとした悪戯……否、演出じゃよ」
聞き覚えのあるその声に、貴之の意識は覚醒し、再び瞼を開く。
すると紫色の煙棚引く深い霧の向こう側より、何時ぞやか出逢った老人と共に、幻燈に浮かぶ影の如く妖艶で妙齢な美女の姿が、ゆうらり、ゆらりと現れた。
真っ先に現れたは紛れもなく、あの日に立ち逢った「黒足」と名乗る老人である。
その隣には、彼の老人と寄り添う様に立つ妖艶な美女だが、貴之は見覚えがない。
見覚えはないが、真白き
「ほっほほ、ようやったのぅ、若者よ」
何故か老人より労を労われた。だが貴之には、言葉の意味がとんと解らぬ。自分は確か、死出の旅路の途上ではなかったか。
そう思い出した貴之は、久しぶりに素直な心持ちを口にした。
「いや……己の力及ばず『三つの力』を使い果たし、万策尽きました……それどころか『三つの掟』を破り、恐怖を晒し、情けを掛け、真実を告げてしまったのです」
その結果が、この無残な姿だろう……貴之は、そう考えた。
すると妖艶なる美女が、優美に
「くふふぅ、何を云いますかぇ……歳若き術者さま」
美女は芙蓉の様な口癖で笑うと、貴之の言をやんわりと否定す。
大輪の芍薬が如き艶やかな色香を帯びて、愛おしそうに微笑んだ。
「実に見事な知略縦横な仙術の数々、恐れ入り申しますぇ……」
「うむ、よもや千年悪鬼を少女へ転ずるとは、この儂とて思わなんだ」
「八尾の千年妖力を得た大妖を、仔狐に変じた手腕も、げに見事」
「いやっははは! これは笑わずには居れぬ、さても愉快、愉快!」
などと、老人は大声で
だが事態が掴めぬ当の本人は、まるで置いてけ堀である。
「何よりも見事は、八尾の悪獣を九尾の瑞獣へと変え――」
「千年悪鬼を、鬼断ちの鬼神へと変じた術じゃ」
その言葉をしかと耳にせど、貴之はつい聞き返した。
「あやめが……鬼断ちの鬼神へ?」
「おう、実に見事な転生であったぞ」
だが貴之は、それが
何故ならば、老人から借り受けた『三つの力』は、全て使い果たしてしもうた。
確かに第三の大災厄とやり合ったか。だが意識は朦朧としたし、記憶も薄れて曖昧に。しかも老人より頂いた仙術の力など、最早すっからかんに何一つ持ち得ぬ筈だ。
ただただ勘に頼って『三つの力』を願わくば、結局こんなチンケなものであった。
一つ、悪鬼の姿が、
二つ、妖狐の姿が、如何許りか小さく幼ければ、と願うた。
三つ、その二人を、煉獄の焔より助けたい、と願うた。
最後の真実はともあれ、これで三つ、たかが三つ――されど三つ。
大災厄の現場に立ち会い、とんでもない憂き目に遭ったが、ただ単に「これだったらまだマシかなぁ」と、迷うことなく頭の中に浮かんでしまっただけである。
実のところ、そうやって借り受けた『三つの力』を勝手気ままに遺憾なく発揮して、全て諸とも使い果たした。それについてはもう
だが――
「いやいや、口先八丁、手八丁で『三つの掟』に従いて、練りに練られたおヌシの仙術は、知らず知らずの内に実を結び、疾っくの疾うに熟しとったわい」
老人曰く、『三つの力』を使った時に、全ての術が完成していたと講釈す。
そう云われても知らず知らずでは、貴之に何一つ心当たりがない。
「まさか誰一人殺そうと願わぬとは――いやはや予想だにせなんだ!」
「術者さまの仙術は、殺さず生かして、『情』を成す……」
仙術の肝は、その妙技とは如何に。嘘か
例えば、真昼の現世と深夜の幽世が境界線――其は黄昏時の様な境界を指す。
「だがおヌシは、黄昏の境界を跨いで悠々と真ん中に居る」
「双方を他愛無く行き来しては、人と
口元を隠して雅に微笑む美女に、老人は素っ頓狂な顔で問う。
「これが現代っ子と云うモンかのぅ?」
「いいえ、術者さまの素養で御座んしょう」
「ふぅむ、然もあらんや」
老人と美女は、いと愉しげに談笑す。
だが貴之は、未だに理解が追いつかぬ。故に最も気になる疑問を問うた。
「あの……俺は、死んだんじゃないのですか?」
そうと問えば、老人は答えて曰く、
「そうじゃ、確かにおヌシは死んだ……と、
「……はぁ?」
間の抜けた返事をする貴之に、老人はやれやれと大仰な身振りを見せた。
「よいか、よく聴け」
「はい」
「要するにおヌシは、二人の為に嘘をつき、平然と死を
「俺が、死を……偽った?」
「そうじゃ。死を賜ったと
「死を、見せ掛けた……!」
つまり老人は、いけしゃあしゃあと「貴之が死すら偽ってみせた」と抜かす。
では貴之は「自分は死んだものだ」と、すっかり思い込んでいた事になる。
「よって鬼娘は、わんわん泣いて
「あやめが、騙された……それは俺が、騙したの……ですか?」
「そうじゃ。そして見事、悪鬼と妖狐を騙くらかして
と云う事は、死んだものだと思い込んですら無い事に成る。
老人曰く、貴之は
「どうだ、おヌシは心底で生を望んでいただろう」
――確かに。
「あやめに芙蓉――彼女たちと末永く生きたいと、心から望んだじゃろう?」
――云うに及ばず。
「自らの命を顧みず『逃げろ』とは、恐れ知らずと云わずして何と云う」
「なのに、泣いて縋る乙女の気持ちを反故にするとは、何と情無き事や」
「挙句、死すら偽って演じて見せるとは、何と云う大嘘吐きか!」
老人と美女は、手前勝手に結論付けると、声を立ててかんらかんらと哂い始めた。
二人からきっぱりそうと云われれば、段々とそんな気持ちになる。
要するに、もう
即ち貴之は――恐れず、情けを掛けず、真実を偽り通した。
よって見事『三つの掟』を守り抜いた。そう云う事に相成った。
「結果、悪鬼と妖狐の二人がより高みへと化身し、ひとつの刃となった。おヌシと共に生きたいと願う自分らの為に……そして何よりも、おヌシの為に、のぅ」
「俺の為に、あやめと芙蓉が……」
三つの掟により三つの魂が睦み逢い、三つの力を使い切った時に、最後の最後でひとつの大きな術と成る。大輪の花が咲き誇るが如く、貴之の術が完成していたのだと云う。
「俺の術……ですか?」
「おう、悪鬼大妖の心すら揺り動かす、これぞ
「言ノ葉の術……」
「最後の最後に身に着けた、おヌシ自身の『四つ目の術』じゃよ」
天下無双の悪鬼大妖すら魅了する、言ノ葉で紡ぎし大風呂敷。
これぞ三つの災厄を乗り越えて得た、貴之が育みし四つ目の術。
「おヌシは『言ノ葉を自在に操り真実とする仙術』を身に付けた」
仙丹が一つ、
「どうやら未曽有の大災厄は――」
「稀代の術士を産み、天賦の才を育んだ様じゃ」
恐怖に挫けず、情けを掛けず、嘘を貫き通した。
艱難辛苦の大災厄を乗り越えた者だけが手にす、唯一無二の大仙術。
「その、俺の仙術とは一体……うっ」
そう聞き掛けて、思わぬ刺激に貴之は顔を
「うう、右腕が……熱い?」
「ホレ、お迎えが来よったぞい」
右腕に不意な熱を感じ、今まで背けていた目を思わず向けた。
失った筈のその場所には、腕があり、眩い光が迸る。やがて龍の如く奔りだした光は、全身に広がりて貴之の冷えた体を温めた。
そうして耳を澄ませば聴こえてくるは、あやめの泣き声。
「ふぎぎ、たかゆきぃ……お願いじゃ、帰って来てぇ……っ!」
みっともなく泣きじゃくり、えぐえぐと鼻を啜る顔が目に浮かんで苦笑する。
今頃は可憐でちっちゃな少女となって、くしゃくしゃな泣きっ面を晒しているのだ。きっと早いとこ帰ってやらねば。長引けば長引くほど名残が惜しかろう。
貴之がそう思い始めると、身体がふわりと自然に宙へと浮かびける。
「さらばだ、若者よ。達者で暮らせい」
貴之の魂魄は、光溢るる現世へと帰ろうとしていた。
然すれば老人と美女、かの二人との距離が自然と離れゆく。
「ではいずれまた、術者さま……否や、
「ほ? ほっほぅ、婿殿とな?」
「ええ、ええ……我が娘に、ほんに
「いやぁっは! これは爽快、実に愉快、あないみじけれ!」
またも手前勝手に話を進めると、美女と老人は大哂いに哂い出す。
呆気に取られた貴之の表情は、鏡を覗けばさぞ間抜け顔であろう。
「ほっほほ、ワシャ不世出の術士を見出したかも知れぬのぅ!」
「くふふぅ……我が娘共々、暫し宜しくお願い致しましよ」
老人は黄ばんだ歯を見せて哂い、美女はにこりと微笑んだ。
「苦難と奇跡は表裏一体。因果は
「
老人と美女はそう云い残して、申し合せた様に霞の如く姿を消え失せにけり。
後には彼の老人の、響く
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