第39話 冥府の旅路・前
悪路の左胸より溢れた朱き雫が、髭切、いやさ鬼切の刃を伝う。
あやめの手の甲を通り、柄の先より、ぽたりぽたりと滴り落つる。
「見事だ、鬼の小娘……否、茨木の……」
「や、それこそ否ぞ、
「フフフ、そうか……今や『貴島あやめ』であったな」
今更おかしなところを指摘したものだと、あやめ自身もそう思う。
だが最早、過去を振り向く暇はない。未来を見据えて前を向く。然すればあやめ以外の名を名乗ろうなど、胸の内からとうに消え失せていた。
「ぐ……かふっ……ッ」
阿弖流為が吐血すると共に、胸の刀傷から膨大な鬼気が音を立てて漏れ出ずる。
千年の時を蓄えた、鬼気の量や如何許りか。憎悪と怨念を帯びた夥しい鬼気が、虚しく宙へと霧散して消えゆく。最早、新たに丹を練り術を放つは適うまい。
勝敗は、一刀による一閃にして一瞬。
見事、あやめの勝利にて――今ここに雌雄を決した。
「地鳴りが……止んだ」
決着の付いた洞内は何時の間にやら、しんと静まり返っていた。ずっと鳴り響いていた地鳴りと岩漿沸き立つ音が止み、再び静寂を取り戻していたのだ。
どうやら九尾の姿と相成った
全てが――三つ全ての大災厄が、漸くここに終結を迎えた。
「やれ
「……阿弖流為よ、儂は鬼娘ではないぞ」
「そうか。我も可憐な見目に騙されたやも知れぬな……フフッ」
復讐の鬼神・悪路王が――否、阿弖流為が初めて笑みを見せた。
悍ましき宿怨の権化と打って変わり、実に穏やかな表情であった。
「よもや汝が千年の大悪党とは……これは笑わずに居られぬ」
「おう、そうじゃ。じゃから儂から先輩に、ちぃとばかり説教させて貰う」
そう云うあやめが阿弖流為へ向けた瞳は、決して厳しいものではなかった。
どこか郷愁の色を帯び、切なく、そして――優しい。
「本当は……お前さんにゃもう、この世に恨みなどなかろうて」
鬼神の
今こそ問わん――と、あやめは心に感ずるまま、率直な思いを口にした。
「もしやお前さん、元よりこの戦で死ぬ気じゃったのだろう?」
「
阿弖流為は、この期に及んで胸中を語るを是としなかった。だが民を失いし東北の英雄は、千年もの宿怨の重みを背負って、死に場所を求めていたに違いない。
「――只、惜しむらくは、我が同胞の怨念を晴らせぬ事よ」
「しかし、人の世は移ろう……それが
悠久の宿敵・田村麻呂との不思議な友情で、奇なる
「知って尚、宿命に逆らい、怨敵を死すべし」
「阿弖流為よ、徒然なるが刻の流れじゃ……」
「それでもだ。我は無念に散った同胞の、王なのだ」
悪路王――否、阿弖流為は、王としての職務を全うしようとした。
一族の怨念を一身に背負い、生き恥を忍び、屍を野に晒そうとも。
最期の独りで鬩ぎ合い、生き残った王として、王たらんと欲したのだ。
「なぁ……宿命に従い、世を笑って過ごすは叶わんか?」
「なに、一介の復讐鬼が死んだのだと、笑って呉れればそれで良い」
「お前さんは、ほんに愚直で不器用な、偉大なる鬼神よ」
「フッ……千年の時を掛け、我が全力を以て敗れたのだ」
千年の時を掛けて術を磨き、策を練り、そして綿密に事を運んだ。
然うして尽くして終ぞ、鬼国建国の夢は叶わなんだ。
「
「然もありなん」
あやめの言葉に、真の鬼神は益々相好を崩す。
復讐の憑きが落ちた様な、本来の好い漢の笑顔であった。
「愚直に一族の
翻ってあやめは、生を貪り、闇雲に力を欲するのみであった。
そして今も尚、欲に括られ続ける自らの素直な心情を吐露した。
「のう阿弖流為よ……お前さんは、死が怖くはないのか」
「云うに及ばず。疾うに捨てた命ぞ」
「儂は……怖ろしい。死ぬのが、こわい……」
死を求め続けた悪路王・阿弖流為と、生に拘り続けた悪鬼・貴島あやめ。
双方ともに対照的な生き方が、あやめの胸に突き刺さる。
「儂には……そんな生き方ができなんだ」
苦しげに呟いたあやめに、阿弖流為は声を立てて笑う。
「フッフフ……成る程な……」
「むむ、何が可笑しい?」
「これで
悪路はあやめの細い肩を、両の手で優しく包むようにやんわりと掴む。
然かして二尺七寸の鬼切の太刀を、自らの胸より引き抜いた。
「どうやら我は汝と違い、転生に失敗したようだ」
「何を云うか、儂のこの姿を見てみぃ!」
阿弖流為の思わぬ言葉に、あやめはすっかり困惑していた。
両の手を広げて、縮んだ身体にまんまるく膨らんだ自らの胸元を見せる。
「転生に失敗したのは儂の方じゃ……げに惨めな鬼の末路じゃ!」
「何を云う。汝は、まっこと見事な転生を果たしたのだ」
「儂が……? 何故じゃ?」
解せぬ顔をするあやめに、ニヤリと哂うて阿弖流為は問うた。
「では、
「儂は、貴島……あやめ……」
ハッとした顔を見せたあやめに、阿弖流為はニヤリと口角を上げる。
「汝の様な転生が叶わば、また異なる
阿弖流為の胸より引き抜いたばかりの、手にした鬼切をじっと見つめる。
そうして息を呑み、未だ静かに横たわる貴之へと振り向いた。
「まさか……まさか……」
あやめは――醜悪奸邪な悪鬼の姿より、純情可憐な乙女へと姿を変えた。そして今まさに悪逆非道の悪鬼より、鬼断ちの鬼神へ転生を遂げんとす。
「もしや貴之は、この為に……斯様な術を施したのか……!」
まるで
げに忌まわしき貴之の術は、何時の間にやら『嶄九郎』とは、まるで異なる『あやめ』と云う別の生命へ、人生へ、見事な転生を完成させ成さんとす。
もしや一切の殺生を禁じたは、生まれ変わった清い身に、咎の枷を着せぬが故か!
「おお、おおおお……っ!」
そうと気付いてしまっては、胸の内の慟哭を抑え切れるものではない。
あやめはよろよろと貴之に近づくと、ガックリと膝を突きて号泣した。
「おお、貴之様の深い御心……この小鬼の身には、到底計り知れん……!!」
悪鬼として生まれ出でし邪なる者に、まるで違う生を歩ませるが為に――完全な生まれ変わりと成す為に、我が身を斯様な異形へ転生させ給うたと云うのか!!
「嗚呼、貴之よ……儂は、鬼であろうが、神であろうが……純真であろうが、野望であろうが、英雄であろうが、伝説であろうが――、全てこの手で叩き斬ってやる!」
金剛の如く輝く美しい両の瞳より、流れ出る滂沱の涙が終ぞ止まることはなかった。
腰が砕けてぺたりと尻餅を突かば、長い黒髪が地に着くも気にせず、貴之の隣に寄り添うようにして泣いた。
「だが駄目じゃ……儂はもう人の『情』だけは、『情』だけは斬れぬ!」
あやめは顔をくちゃくちゃにして、幼子の様にわんわんと泣いた。
人目を憚ることなく、みっともないくらいに、泣きに泣いた。
「お前の
幼児の様に泣き腫らすあやめの背後に、阿弖流為はゆらりと立ちて曰く、
「少年よ……年若き稀代の道師よ。まだ死ぬには早かろう」
そう云うと阿弖流為は、自らの右腕を大太刀ですぱりと斬り落とす。
然うして自ら斬り落とした右腕を、あやめの方へと差し出した。
「我が右腕をくれてやろう。汝なら腕を接ぐのは容易かろう」
「ふぃ、ふぐ、ぐすんっ……おう、任せておけ」
嘗てあやめは、斬り落とされた自らの腕を繋いだことがある。
それは指先が非常に器用な、あやめならではの鬼の術が一つだった。
「くすん、たかゆきぃ……お願いじゃ、必ずや生きて……っ」
あやめは悪路から右腕を受け取ると、小さくなった両の手で、猫の様にぐじぐじと涙を拭いた。一頻りそうすると、自らの髪を一本引き抜きて鬼気を当てると針と糸と化す。
心の底からの祈りと願いと想いを込め、必死になって貴之の右腕に鬼神の腕を継いだ。
するとどうだ。貴之の右腕に継いだ阿弖流為の腕に、金龍の入れ墨が再び浮かび上がったではないか。浅黒い肌に光り輝き色を成す金龍が、命を得たが如く肌の上を奔ると、見る間に貴之の顔へ血色が戻りゆく。鬼気と霊気の宿る右腕と富嶽の龍脈が繋がりて、生命の根源が貴之の元へと迸ったのだ。
「後は、その少年の精神力次第だ……心が生きれば、身体も自ずと生き返ろう」
「ま、待たれよ、悪路……いや、陸奧王・阿弖流為殿」
そう云い残して立ち去ろうとする阿弖流為を、あやめはつい呼び止めた。
足を止め、肩越しに見やる大恩人に対して、あやめは耳まで真っ赤に恥じ入って、
「あの……ありがと……」
と、童女然の体裁で心の底から礼を述べた。
「おう、茨木の……汝は大概にして、然しも純情だな」
「ううっ……千年に及ぶ大望を思い返せば、貴様こそ純情じゃ!」
「フッフフ、違いない……」
阿弖流為の表情からは怨の鬼気が失せ、穏やかな笑みが浮かぶ。
その横顔は切れ長の瞳、げに色香漂う好い漢であった。
「確かに汝ならば、違った
「貴様に……いや、貴殿に幸あらん事を祈り奉る」
鬼気と気力のみで立つ阿弖流為の、心の臓は既に停止して久しい。
左胸と右腕からの夥しい出血により、命はもう永く持つまい。
「では、さらばだ……」
「あっ!」
煮え滾る
護身の術を解いた身体は、煉獄の中で一瞬にして灰燼と滅す。
蛍の最期の灯が如く、鬼の王は光の粒と相成って散り逝かば――
「
茫然と伝説の末期を見送って、あやめがぽつりと呟いた。
「或いは、彼奴こそ儂の、別の姿……」
緋色を帯びて舞い上がる灰を最期まで眺め――あやめは、顔色悪く呟いた。
「そして、もう一つの末路であった」
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