第38話 悪鬼転生

「それが最期の、主としての命令か……」


 飲み込まれそうな漆黒の闇の底、貴之は黒く固い岩盤に横たわる。ちろちろと赫く燃ゆる溶岩の光に照らされて浮かぶ顔色は、すっかり青白く生気を失った様に見えた。


「それがお前の、最期の望みか!!」


 あやめが吠えた。滂沱の涙が溢れ慟哭に近い叫びであった。

 だが幾ら問おうが貴之からの返事は、ない。


「今更、お前の血肉を喰えなど……悪い冗談じゃ」


 死ぬな、貴之よ、死ぬな――そう願いて跪けど、彼の身体からは、みるみる内に体温が失われゆく。歯痒さに、口惜しさに只管涙ばかりが流れ、自らの女々しさを噛み締める。


「なぁ、これもお前の機略の一つなのじゃろう?」


 貴之は、何時もそうだ。飄々と真面目な顔で嘘をつく。

 大言壮語かと思いきや、易々と難透難解を解いてゆく。

 詰まらぬ冗談を云ったかと思えば、途轍とてつもない真実まことに変えてきた。


「のう、貴之よ……何時もの様に、嘘だと云うてくれ……」


 そうだ。貴之には今まで、悉く騙されてきた。

 騙しては、茶化し。茶化しては、揶揄かわれ――


「そうして何時も、儂を面白半分にたぶらかす」


 だから、お前の云う事は何もかも、全て嘘じゃ!

 元の姿に戻れと云うも! 逃げろと云うも!!


「そうじゃ! お前の死すらも、全部嘘じゃ!!」


 己の血肉を、臓腑を喰らえ。然うして、嘗ての悪鬼へ戻れ。

 貴之は、あやめにそう命じた、その言葉さえも、全て――嘘。


「貴之よ、最期の命令は――幾らお前とのちぎりとて聴けぬ!」


 その台詞は、あやめ自らの言ノ葉コトノハとは思えなかった。

 あやめは身の内に巣食う術の効力に、ずっと恐れを為していた。

 主の命に反逆し、術に己の血肉を貪り喰われまいとの思いだった。


 だがこれは、はてさて一体、どうしたことか。


 今や胸の内はすっかりと晴れ、速やかに言ノ葉がまろび出た。

 さては貴之の云う通り、しゅ産魂むすひから解放されたか。

 否、ならばこの身体はあやめの姿より、嶄九郎へと戻るはずだ。


 そうだ、この摩訶不思議な術は、自らの心ひとつ。

 仇為せば身を滅ぼし、功為せば味方する。

 なんら恐るることなかれ。決心は我が身の内にあったのだ。


「そうか貴之よ……相分かった!!」


 貴之の意志を継ぐは、我が心の内ひとつ。

 今、この時こそ為さねば成らぬ。あやめは叫んで立ち上がる。

 絶体絶命の艱難辛苦を。日の本を揺るがす大災厄を――


「主がついた嘘方便を、真実まことに変えるが下僕しもべの役ぞ!」


 第一の下僕、悪鬼・あやめが、見事解決して御覧じようぞ。

 我が主、貴之よ。暫しそこで瞋目張胆しんもくちょうたんして待たれい。


 あやめは流した涙を袖口でぐしぐしと拭うと、手にした愛刀に語り掛けた。


「だがそれには、お前の力が必要じゃ……妖刀・髭切よ」


 朝露に濡れたが如し二尺七寸の、刀身を指先で撫でる。

 小娘の小さき身の上は、貴之らと生活を重ねる内に小熟れて慣れた。

 ただ一つ、この刀剣のみが、この身に合わぬ。


「のう、綱よ……お前さんは、今の儂をわらうだろうか。人の世に憧れ、父母に焦がれ、宿敵ともの太刀を形見と縋る、この惨めな鬼の子を……」


 あやめはじっと目を閉じて、貴之と交わした今までの会話を思い出す。

 貴之は、只では死なぬ男。そう信じるに値する、偉大な仙術使いである。


 長い様で、短し。短い様で、長し。

 貴之と共に過ごした日々の中――頂戴せし沢山の言ノ葉コトノハを――


 ――――――――


 ――――


 ――儂がいっとう最初に些細な差異を感じたのは、何時からであったか。


 そうだ――狐の罠に誘い出され、工事現場でやり合った時ぞ。金砕棒、通称・鬼の金棒へ愛刀を変化させた時であろう。


「おっととっと……この身体にこの金棒は、ちと鈍いな」


 巨大な金砕棒を堂々と構えたるつもりも、よろりよろけたものだった。

 困惑した表情で「大丈夫か?」と問う貴之に「なぁに、こういうものはブン廻しゃそれでいいんじゃ!」と、強がったを思い出す。

 あの時はただ単に、身の丈に合わぬだけだと思っていたもんだ。


 だがそれが間違いではないかと気付き始めたのは……

 そう、まさに禍々しき焔を噴く悪獣妖狐・芙蓉との合戦時だ。


「くっ……この身体にして、この太刀よ……」


 百戦錬磨の儂とて、只一つ手に負えぬ厄介こそが、この太刀だった。


「どうにも我がこの身にこの太刀が、しっくりと来んのだ」

「まだ自分の身体に合わんのか」

「ううむ、まだ何方どちらも上手く使いこなせておらん」


 巨漢の大男から小柄な女の身に転生し、まだ間もない。二尺七寸を超える太刀を振り回すに尺が合わぬのか。それとも他に理由があるのか。

 そんなもの儂に分かる筈がない。何せ今まで斯様かような目に遭った事がないのだ。


「もう少し修練すれば或いは……!」


 そんな心掛かりを覚えつつ、つい先ほども――

 幽世へ踏み入れた洞窟内で、餓鬼どもとやり合うた時に同じ様な目に遭った。


「ううーむ、しっかし上手く使いこなせんな……」

「まだ自分の身体に馴染めないのか」


 愛刀を自在に操れぬ、自らの技量を大いに悔やんだもんだった。

 元より刀身は自在に変化を成す。だが身の丈にこの太刀が、如何せんしっくりと来ぬ。それは妖狐と一戦を交えし折から、ずっとその身体に覚えたる違和感。


 容貌魁偉の大男から小柄な美少女へ身を転じ、早数ヶ月。


「いや……身体は馴染んだ。要は使い方じゃ」

「もっと相応しい形があるんじゃないか?」


 貴之にそう問われ、あやめははたと納刀の手を止めた。

 然うして霊験に輝く抜身の刀身を、構えてじつと眺めやる。


「確かにこの太刀は、心を映すが如く変幻自在に姿を変える……」


 貴之が云った、相応しい形――この太刀の真の形とは。

 もしや真価を掴みきれずにいるは、我が心次第ではあるまいか――


 ――――――――


 ――――


「はは、そうであった……儂は、何処どこまでも愚か者じゃった」


 そうだ。気付いていた筈なのに、ずっと気付かぬ振りをしていた。

 貴之に問われ、本当は気付いていた筈なのに。


「儂は……この太刀の真の姿を、頑なに認めようとせなんだ」


 自らの軌跡を顧みて、虚ろな瞳で悲しげに嗤う。

 男である事に、鬼の身である事に。ずっと未練を残していたのだ。

 女々しかったのは、嶄九郎とあやめ――何方いずちであろうか。


「そして儂は……自らの真の姿すら、頑なに認めていなかったのだ」


 覚悟が――まだ、覚悟が足りなかった。

 だが今は、今は、その覚悟を決め申した。


 然うしてあやめは改めて、我が愛刀に問う。


「為らば今こそ我が問いに答えよ――『鬼を断つ者』よ!」


 すると、あれやあれや、如何したことか。

 あやめの声に応える様に、太刀は音を立てて震え、共鳴するではないか。


「そうか……儂の千年の問い掛けに、お前達・・・は漸く応えてくれるか!」


 少女の身の上に変化した所為せいか、つい涙腺が弱くなる。

 だが、まだだ――まだ、泣いてはいけない。

 そう己を叱咤して、心の奥底から湧き起こる感情を押し込んだ。


何処どこじゃ、芙蓉――そして、悪路王よ!!」


 凛と声を張り、キッと彼方かなたに見やると、鬼気を漲らせる。

 すると洞窟の更に奥深くに、悪路と芙蓉の姿があった。

 鬼神と大妖、双方激戦の行方は決着を見ず。


 ズ、ズズ……ゴゴ、ゴ……


 黒々とした大地は地鳴りを起こし、溶岩マグマの沸き立つを感ず。

 鬼神・悪路は朗々と、悪鬼と妖狐に相告げて云う。


「我が千年の大術が、いざ此処ここに相成らん」


 悪路が仕掛けた最大の術が、愈々いよいよしゅを結ぼうとしていた。

 中央地溝帯フォッサマグナより、日ノ本を東西に分断せんとす。北から新潟焼山、妙高、黒姫、飯綱、八ヶ岳から富士へ繋がる火山帯が、刻々と鳴動を開始し始めたのだ。


此処ここは儂に任せろ、芙蓉!」


 叫ぶあやめに応えるが如く、芙蓉は火花散らして跳び寄った。

 鬼神と妖狐、大太刀と双爪を打ち合えど、互いに相譲らず。

 恐らくは三日三晩打ち合えど、決着を見る事はないだろう。


「芙蓉よ、お前はこの術を、見事止めて見せよ!!」


 このままでは悪路の術が奔り、手遅れと相成る。

 悪路王の仕掛けた術を――日本分断の術を解くは、今。

 それは妖狐の母娘こそが、為すべきぞ。


「どうした鬼娘……なんじの主は、疾うに滅したぞ」

「黙れ、悪路! 此処ここから先は、儂の意志で動く!!」


 芙蓉は、あやめの瞳を見た。

 その奥底に凛と輝く、光が蘇ったあやめの瞳を。


 妖狐はひとつ「こーん」と哭くと、迷いなく岩漿マグマの中へと飛び込んだ。

 飛び込む前に、声高く一つ鳴いたのは、ここをあやめに託すという意味だろう。


 悪路王の術式を施錠し、中央地溝帯フォッサマグナに地鎮の楔を打ち込む――


 九尾の狐と成りて妖力を極めし芙蓉に、煮え滾る岩漿の火焔など物の数ではない。

 総身金毛にして白面、瑞獣・九尾の狐と為ればこそ可能な、神獣の御業である。


「訊け、悪路よ――我が覚悟は、此処ここに極まれり……」

おう、我が召還に応じる気に相成ったか」

いな、全ての鬼に、反旗を翻申ひるがえもうす!!」


 伝説の悪鬼――嘗ての嶄九郎は、明瞭に鬼界へ戻るを拒絶す。


「嘗ての巨魁は、斯様な姿に成りさらばえた……だが」


 漲る鬼気が、霊験あらたかな霊気へ転ず。

 清澄なる気を纏いし姿、まるで鏡と化した湖面の如し。

 さては明鏡止水とは、斯様な姿を指すか。


「儂はもう、嘗ての姿には戻らぬ」

「もしやなんじは、嶄九郎――いやさ……」

「悪鬼・嶄九郎は、疾うに滅んだ!」


 ゆっくりと見開きしは、黄金色の瞳。

 そこには凛と、煌びやかな光が燈る。


「儂はあやめ……貴島あやめじゃ!!」


 岩漿煮え立ち、大地鳴動す。大災厄の真っ只中で。

 益々以て純情可憐な立ち姿。名乗りを上げらば威風堂々。

 麗しの黒髪を棚引かせて、菖蒲色の髪飾りも凛と立つ。

 今ここに新たなる転生を覚悟す、一人の少女の姿があった。


「九百九十九人殺しの悪鬼は死んだ――これより護国の鬼神と相成ろう」


 懐に抱く愛刀を、すらり抜き放ちて天高く。

 空に掲げて輝くは、刀身・二尺七寸の。

 研鑽千年、鍛えに鍛えし、いにしえの太刀。


「人の身を借りた鬼神となりて、悪鬼羅刹を斬る!」

「それが答えか、嶄九郎……否さ、茨木・・のッ!!」


 鬼こそは、我が眷属。同族殺しの鬼殺し。それは絶対の禁忌。

 魂の繋がりは決して破られぬ、真理にして絶対の理。

 だがあやめは、迷うことなくこう叫んだ。


「この一刀は、鬼断おにたちの太刀と心せよッ!」


 手にする太刀は、より一層に煌めきて、あやめの呼び声に応ず。


「力を貸せい! 妖刀・鬚切……いやさ、霊刀・鬼切よ!」

ようよう我が名を呼びましたね、茨木の――」


 鬼界の綾絶あやたつは、鬼ちの太刀たち

 為らば名ぞ、妖刀・髭切を改め、霊刀・鬼切とせん。


「では応えて神出かみいずる御神太刀ごしんのたちと相成りましょう也」


 鬼の力など、永遠の命など、もう要らぬ。

 我が角、我が爪、我が鬼の牙……全てをお前にくれてやる。

 全てを以て、この一刀に変え、絶対無敵の一撃とせよ。


「おおおッ、おおおおお……ッ!!」


 鬼神と相成りし鬼娘は、雄叫び上げて斬り込んだ。

 大上段より応戦せし悪路の大太刀を、事も無げにち上げる。


「な、に……?」

「悪路王、覚悟ッ!!」


 続けざま、胸元目掛けて、真一文字に薙ぎ入れた。

 神鳴るが如き神速の、稲光を纏いて閃くは、鬼切の太刀。

 空いた悪路の懐へと、吸い込まれゆく。


「我が一撃は――、鎧袖一触がいしゅういっしょく!!」


 あやめの打ち込みし切っ先は、最速最短。全てに最上。

 昨夜と同様、避けた悪路の胸先を掠め、上着がはらりと斬られた。

 またも悪路の胸元を掠めたのみ――否、掠めたのみに、見えた。

 だが真一文字に疾らせた刃は、今度こそ悪路の胸板を捕えていた。


「鬼神の王は、貴様じゃない……我が主、貴之様じゃ」


 あやめが得た覚悟が、紙一重で勝負の行方を決した。

 斬り裂かれた悪路の胸元は、真っ赤に咲いた牡丹の如く。

 飛び散った花弁の如き鮮血の、溢れる胸元へ間髪入れず。


「伝説よ、眠れ――」


 流れる様に太刀を疾らせると、悪路の心の臓へ切っ先を突き立てた。

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