第37話 鬼神ノ王・急
意識が、朦朧とする。
ここがこの世なのか、あの世なのか――まるで判然とせぬ。
貴之の視界は、歪な形にぐにゃりとへし曲り、まるでダリの名画の様であった。ただ不思議と思考は明晰である。先程までこの身に宿っていた光の珠の
それ故に貴之は薄れゆく意識の中で、答案の答え合わせをするように、最善の策は如何な手管あったかを、ぼんやりと思考し始めた。
はてさて……今や当方の陣容は、如何なものか。
翻って自分と云えば、どうだ。迷いを心に置いたまま闘いに挑み、持ち得る全てを尽くしたところで――最後の力までをも使い果たし、腕をもがれて死に掛けているではないか。余力などひと欠片も残されておらぬ。
もしも――もしも、だ。
悪鬼と妖狐、彼女たちを盾にして貴之ひとり生き残らば、勝機はあったであろうか。
見れば鬼神は今も尚、強大な術を操って使い果たした神通力を取り戻す為、龍脈より霊力を吸い出して、鬼気を取り戻している最中だ。この最大の隙を突き、三つの力を打ち放てば、勝てたやも知れぬ。
ではこの勝機、悪路に最後の術を向けるが、最善の手管であったでなかろうか。
否、それは、否。
彼の鬼神は、悪鬼や妖狐と相対した時と勝手が違う。軽々に術が通じる相手ではなかった。例え漫然と手を翳しても、とても通用すまい。天下の大妖を相手に回し、二つの
彼の男に油断や慢心はない。十分に力を削ぐも叶わずでは、己の術が通用したかどうか。それ程迄に、彼の者の全身から放たれる魂魄は、本物であった。
そして何よりも、貴之には――
最早、あやめと芙蓉に犠牲を強いるなど、毛頭ない手段であった。
そう自らを省みて、さも当然の報いであろうと諦めた。
貴之は、老人と交わした「三つの掟」を守れなかった。
一つ「情けをかけてはならぬ――温情は
さもなくば、魂を貪り食われるであろう。
貴之は、悪鬼と妖狐に「情」を掛けた。つまり「情け」を掛けたのだ。
だから腕を一本持って行かれるは、当然の事なのであろう。
「やれやれ、だ」
成る程、自分は彼女たちに魂を貪り食われた証左か。
そう考えれば、つい笑みが零れそうになった。
「ぐ……うぶっ……」
そう分析を終えたところで酷い眩暈がした。
痙攣した内臓が胃液を逆流させ、吐き出そうとす。だが何も出ない。痙攣した肺腑が気管を塞がぬよう、あやめは気道確保のために指を貴之の口の中へ突っ込んだ。
「嗚呼……嗚呼っ……あるじ様……!」
「すまぬ……貴之、すまぬ。堪えてくれ……!」
あやめは急ぎて髪留めを解き、翠に光るガラス玉を割る。
すると中から、黒い丸薬が転げ出た。
「これを呑め。鬼の胆で作った仙丹じゃ!」
そう云って貴之の口を開くも、すぐに力なく閉じた。
故にあやめは仙丹を自らの口に含むと、口移しで貴之に呑ませる。
「呆けるな、芙蓉! 気を入れよ!!」
「く、ふっ……はっ!」
芙蓉は茫然自失と相成って、傍らに棒立ちに突っ立っていた。
あやめはそんな芙蓉に喝を入れ、気を取り戻させる。
「芙蓉、炎を!」
「お、応っ!」
芙蓉は小さく、そして素早く呪を唱えた。
そして口からぷうと炎を吐くと、あやめの刀剣を真っ赤に焼く。
「すまぬ……すまぬ、貴之……!!」
あやめは心底唱えるように謝罪すると――芙蓉の炎で赤く焼けた刀身を、貴之の傷口へと押し当てた。切断されて失いし右腕の傷口を焼いて、消毒、止血としたのである。
「あああ、ああああ……っ!!」
悲痛なる声、悲壮な表情。そして人の焼ける臭い。
だが悲鳴を上げたのは、身体の感覚を失いつつある貴之ではない。
無念の想いで嗚咽を漏らす、あやめと芙蓉であった。
「……泣くな、二人とも」
「た、貴之っ!」
貴之が、薄らと目を開けた。
「儂らは……どうすればいい」
「そう云われても、敵わん」
老人から授かった「三つの力」は、全て使い果たした。
貴之が打てる策など、もう何一つ残されていない。
「よくも……よくも……」
戦慄く芙蓉には、烈火の如き怒りがあった。
術に騙されて、策に踊らされし、鬼神への怒り。
それは自らへの不甲斐なさによる怒りでもであった。
「よくも、我があるじ様を……ッ!!」
だが、戦慄く程の怒りには、また新たな感情が加わっていた。
母への想いと、仄かに芽生えし我が主への――敬愛の想い。
「オオオ、オオオオオ…………ンッ!」
芙蓉は、絶叫とも嘶きともつかぬ声を上げると――
その身を次第に、八尾の狐へと姿を変化させていった。
「なんと……自力で封印を解いたか、芙蓉……!」
貴之の術が解けし芙蓉の姿を前にして、あやめは目を見開いて驚いた。
一方の悪路は落ち着いて「ほぅ」と声を漏らし、物珍しげにその姿を眺めた。
そして、貴之は――
「聞け、芙蓉よ……」
「まだ気が持つか、貴之!」
そして、貴之は「三つの掟」を再び思い出していた――
一つ「恐怖に呑まれてはならぬ――常に平静を保つべし」
さもなくば、肉を貪り食われるであろう。
一つ「情けをかけてはならぬ――温情は
さもなくば、魂を貪り食われるであろう。
一つ「
さすれば、未踏の境地へと辿り着くであろう。
――まだだ。ならば、まだだ。
「俺が仕掛けた呪など、何時でも解ける」
情けは掛けたが、不思議と心に恐怖はない。ならばこれが本当に最期の最期だ。せめてもう一つの掟ぐらいは、最期の最期まで貫き通してやろう。
「芙蓉よ、己の姿を篤と見よ」
「妾の……姿を?」
「そうだ、芙蓉よ。
貴之は、最期の力を振り絞ると顔を上げ――
この期に及んで、大嘘を
「わ、妾が、金色白面……それはもしや、
「そうだ、瑞獣……お前こそは、瑞獣・九尾の狐」
貴之がそう告げると、芙蓉が再び嘶きを上げた。
すると金色の美獣がより一層、眩い光を放ち始めたではないか。
「芙蓉よ、真の力を解放せよ」
貴之が告げ、目を見張り驚いた顔のあやめが、尾の数を数え上げる。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ――その尾の数は、
「なんと! なんと芙蓉よ……まさかまさか!」
恐れ入ったか、あやめは心の底から
芙蓉はその身を、九尾の狐と変えて、そこに居た。
眩いまでの黄金色に輝きを増し、天高く響くは
「我が主の大恩、今こそ還さん!」
大喝する尊き
金色の疾風と身を変えて、悪路王へと躍り掛かった。
「ヌウゥッ……これが
九尾の狐と相成った、芙蓉の力は今迄と同様どころではない。
尋常ではない霊力を身に纏い、今や鬼神をも圧倒せんとす。
紫雲と嵐と雷鳴を呼ぶと周囲に侍らす。その神通力は如来の如く。
火花を散らして相対するは、鬼神と妖狐……否、瑞獣・芙蓉。
洞窟内を天井高く舞い上がると、鬼神と互角の大激戦を繰り広げ始めた。
「なんと……なんと……!」
「さて……あやめよ、お前もだ……」
芙蓉の姿に驚いて、茫然と宙を見上げていたあやめに、貴之は声を掛けた。
激痛と失血で目が霞む……いや、貴之は目はもう何も見えなくなっていた。
「たか、ゆき……?」
「お前も、元の姿へと戻るがいい」
「な、何を云っている……?」
「封印は、いつでも解けると言った」
「やめて、くれ……貴之よ……」
「お前は、伝説の鬼神なのだろう?」
「今更……やめて、くれ……」
ふふ、と笑って顔を作るあやめの表情は、明らかに無理をしている。
頬には土埃に汚れた涙の痕が、幾筋も、幾筋も残っていた。
「お主ほどの術者ならば、疾うに気付いていようと思うたが……な」
あやめが形見と持つ、名刀『髭切』に
得意な髪結い、髪結いに育てられた鬼――
真偽はともあれ、歴史を齧れば誰でも知る程の伝説である。
「儂の正体なんぞ最早、何の役にも立たんのだ」
だがこれは術でも何でもない。もっと単純な話だ。あやめと長らく生活を共にして、よくよく観察し、その話をよくよく聞き入れば――薄らと気付いていた事だ。
「だがな、俺はもう駄目だ……」
「もう云うな、貴之」
「指一本すら動かす力は、残されていない」
「云うな、貴之よ!」
「だから……万が一となれば、お前たちだけでも逃げ延びてくれ」
「逃げ切れるものか、背を向ければ死ぬだけだ……」
三つ目の術を外し、貴之に助かる術などないと悟っている。
激痛に加えて薄れゆく意識の中、貴之は一つの提案をした。
「ならば、俺を喰え」
元の姿と力を戻せば、きっと逃げ切る事ができるだろう。
胸の内からあやめらに「逃げよ」と更なる情けを掛けた。
一つ掛けた情けならば、もう一つ重ねたところで今更だろう。
嘘を吐き続けたこの口は、何時の間にやら紛れもない真実を語っている。
「俺が約束通り、千人目の餌食となる」
「なっ……なんだ、と……」
「俺の肝を喰い、念願の千人殺しの悪鬼となれ」
老人との約束は、果たせそうにない。ならばこの身の上と暫しの生活と苦楽を共にした仲間を、自らの運命と巻き添えにする気など――貴之には、微塵もなかった。
「それは、命令か……貴之よ……」
「そうだ……命令だ……」
そう云って貴之は、静かに目を閉じた。
「もうお前を束縛するものは……何も、ない……」
「嗚呼……嗚呼、嗚呼……っ!!」
その突き放すような言葉に耐え切れなくなり、あやめはポロポロと涙を零す。然うして貴之の頬に、幾つもの涙が落ちた。
だがあやめが幾ら呼びかけても――貴之が返事をすることは、終ぞなかった。
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