第36話 鬼神ノ王・破
稀代の鬼神との決戦を前にして、あやめは重々と芙蓉に云い残す。
「全身全霊、鬼が秘術の全てを以て挑まん……芙蓉も心せよ」
芙蓉はその言葉に頷いて、すっかり覚悟を決めた様子である。
あやめはその姿を見届けると、もう振り向く事はなく前を向いた。
居合の構えでゆっくりと腰を落とし――機を見計りて叫ぶ。
「いざ、悪路王……鬼術・
あやめの云う、鬼の口伝に伝わりし秘術・縮地――先日、妖狐の仕掛けし罠より脱する際に披露せし鬼の術である。漲る鬼気を脚に籠め一気に解き放つと、地の尺を縮めるが如き疾さで走り跳ぶ。極めれば一日に千里をも駆けると伝わるこの鬼術、小娘の身体にすっかり慣れしあやめは、晴れて使い熟せる様なったようだ。
「鬼術・
相対して鬼神の唱えしは、文字通り
目にも留まらぬ神速で迫るあやめに対し、ふわり優雅に宙へ浮かぶ姿はまるで羽の如し。巨躯を重さを露とも感じさせず、あやめの猛撃をひらりと躱す。
「逃がさんぞ……
宙に浮かんだ鬼神を追って、あやめは地を蹴って飛翔する。
「イィ、ヤァ!」
気合の掛け声と共に空気を蹴り突け、中空へと駆け上がる。その姿、田を跳ね廻る
「ハァッ!!」
掛け声高らかに斬り掛からば、悪路も何やら呪を呟いた。
「
続けざまに鬼神の唱えし術は、壇ノ浦の戦いに於ける義経が八艘飛びを模したか。寧ろ、その逆か。空中を三歩駆け抜けたあやめの更に上をゆく、八歩上空へと優に駆け上がる。
「ぬぐぐっ……そりゃ鞍馬の
その身の熟しは、優雅にして縦横無尽。耽美に憂うる悪路の目線は、悔しげに歯軋りするあやめに呉れる事は無し。じつと無言を貫きて、音を立てず抜身の大太刀を構えたる。
悪路の手にする大太刀は、ぬらり妖しく輝く六尺五寸の刀身に、柄には貼り合わせた紫檀。腰にする鞘尻には竹の輪違いの紋をあしらい、唐草模様に籐を巻く。
誰に告げるという事もなく、悪路はその大太刀の名を呟いた。
「奥州・
「なぁっ、なんだそりゃ! 実在するのかよ!?」
「ほう……知っているか」
「知らいでか! 我弖為とは
あやめはこの刀剣の銘を知っていたのか。鬼神に応じて刀匠の名を叫ぶ。
かの云う
「やはり京より奥州へ渡って居ったか!」
「否、これは元より奥州の作よ」
三条小鍛冶宗近と奥州・舞草鍛冶が一人である我里馬を、同一人物とする説がある。
山城国(京都府・南部)に住まうとされる宗近であるが、実は東北の地とは縁が深い。天子の勅命にて御佩刀の鍛刀に、名水を求め諸国を遍歴の折に訪れたと云う金蛇水神社は、陸奥国(宮城県岩沼市)に鎮座する。また三条山は紫雲峡(宮城県大崎市)に七年籠りて、小狐丸など数々の宝剱を鍛えたと云われている。
「我が同胞の忘れ形見、
「宗近の手で作刀された二口の内、一口は
「成程、
今剣とは、世に失われし幻の短刀。義経が
目の前で悪路が手にして振う大太刀は六尺五寸。今剣は、同等の長剣であったとする説もある。成程、
「奥州に生まれ、奥州に散るたぁでき過ぎじゃろ!」
「それが、
「伝説が伝説を持つなんぞ……
「これぞ奥州に心を残す、鎮魂の刀剣ぞ!」
悪鬼と鬼神、対話と刀剣を激しく斬り合わせ、火花散らすこと早数十合。
悪路の切っ先鋭い斬撃を、躱しに躱し続けたあやめであったが、終に重い一刀を喰ろうてしもうた。辛うじて刃の腹で受け切ったが、軽量のあやめは易々と吹き飛ばされた。
「くっ……まだじゃ!!」
軽業師の如く身を操りて「くるり」と洞穴の岩肌へ張り付き、剣を構える。だが反応迅速たる鬼神の狙い澄ました追撃に、あやめはとうとう黒岩の大地へ叩きつけられた。
「かっふ……!」
これでもかと背を打ち付けて、肺腑の底より全ての息を吐き出した。
だがこれで足を止めては死の影を踏む。鬼気を振り絞りて縮地の脚で地を蹴らば、元居た場所には、悪路の大太刀がどうと振り下ろされていた。
漲る鬼神の鬼気とその手にした天下名剣に、溶岩石の大地が真っ二つに割れた。
死とは隣り合わせ、いやさ紙一重の『死合い』は、死闘の様相を演ず。鬼神の全て鬼気迫る一刀に、百戦錬磨の悪鬼とて冷や汗で背を凍らせずには居られぬ。
「チィッ……それでもまだ余裕かよ」
全力の鬼術を駆使するあやめを相手に回しながら、悪路の気配は常に貴之へ向いていた。これ程の力量差を見せつけようと鬼神には、慢心による隙が一切ない。だがそれは、貴之を術者と信じる証左でもある。奥の手を持つとは云えど、貴之は只の高校生に過ぎぬ。この讀み合い騙し合いが、果たしてどちらの方へ、吉と出るか、凶と出るか。
貴之とて泰然自若を決め込んで腕を組み見守っていたが、閉じ籠った亀の如く必然と手も足も出ぬ。今迄とは次元の異なる闘いを、まざまざと見せ付けられるばかり。
顔には出さぬ、顔には出さぬが、ただ茫然と見守る他に
貴之の胸に宿りし光る珠――与えられた力は残りひとつ。決して失敗は赦されぬ。そう思えば思う程、ますます以て強烈な重圧が心の臓へと圧し掛かる。
「くふふぅ……妾が何一つ手出しできぬとは……」
そう悔しげに呟いた芙蓉の声に、はたと気付いてその姿を見やる。すると貴之を護る様に立っていた狐娘の衣服はそこここが裂け、珠の様な皮膚からは血が滲んでいた。
「護法の結界術――我が
そう呟いた芙蓉の制服は袖口が唐突に、紙でも引き裂いたかの如く飛び散った。
「ふぐっ……こりゃ例え八尾の姿であろうと、きっと手も足も出ん……」
鬼神と悪鬼、二人より放たれし目に見えぬ猛烈な鬼気と、交わす剣戟により生じた衝撃波による斬撃。芙蓉はそれ等幾多の障害から、貴之を護って立って居たのだ。
それは以前、芙蓉があやめとの決戦を語りし時。
嘗てこう云っていたのを、思い出す――
「あの悪鬼は、妾と互角……いや、きっとそれ以上じゃ」
「何故そう思う」
「術者さまを護りつつ、妾と闘っておったからじゃ」
――芙蓉は、あやめが秘めたる実力に気付いていた。
気付いていたからこそ、あやめの「芙蓉も心せよ」の言葉に、直ぐさま頷いたのだ。
今迄のあやめは、ずっと貴之を護りつつ闘っていた。
今やその役目は、芙蓉に引き継がれた。
死を賭した決戦に挑みし当初、あやめと交わした会話の意味はここに在った。芙蓉があやめに託されし覚悟は、貴之が護衛。それは自らに課した役目であると云わんばかりに。
そしてあやめは――護衛の全てを芙蓉に任せ、全力で剣を振っているのだ。貴之がそうと知った時、もう一つの真実も知る事になった。
「ぐぬぬ……ぬぐ……ッ!」
悪路が鍔迫り合いに競り勝って、あやめを再び洞内の岩壁へと吹き飛ばす。したたかに背を打ち付けたあやめががっくりと膝を突くと、悪路とあやめの距離が大きく開いた。
千軍万馬の猛者である鬼神が、あやめの隙を見逃す筈はなし。虎視眈々と狙い澄ましていた悪路は、遂に貴之へ向けて牙を剥く。
ギロリ――と、ひと睨みすると、地を蹴って尋常為らざる速さで迫る。
「おのれッ、やらいでかッ!!」
対する芙蓉とて負けては居られぬ。目にも留まらぬとはこの事ぞ。人の身為らざる野獣の速度で素早く回り込めば、鬼神の前へと立ちはだかると自らが人壁と相成った。
二人が交わる瞬間、眩き閃光と衝撃波が弾ける。
貴之が目を細めて眺めやれば、呪の描かれし緑光の結界が暗闇の洞窟内に弾けて浮かぶ。富士の龍脈が霊気を利した芙蓉の結界術が、ようやっと人の目に可視化されたのだ。
「くっ……く、くふっ!」
「フン……脆いな」
緑光の結界が
「あああ、あああああっ!」
激痛に堪える妖狐に、鬼神は冷厳な眼差しを向ける。
「どうした……この程度か」
気が付けば、鬼神の
悪路は恐るべき神速を以てして、刹那に死角へと移動していた。
「がっかりさせるな」
悪路が
「「させるかよッ!!」」
あやめの愛刀が、芙蓉の双爪が、悪路の居た空間を斬り裂いた。
悪鬼と妖狐、互いに手負い為れど、全身全霊を以て貴之を護る。
「ほう……少年よ。汝はこの粗末な式に、相当の信頼を置くか」
「黙れッ! 貴様如きが儂らの関係を軽々しく語るなッ!」
あやめが、轟と吠えた。
だが鬼神が身に纏う、威風堂々たる神格は、そよと揺らがず。
その理由、貴之どころか、あやめも身に染みて分かっていた。
強い。無類に強い――
鬼神にとって我等は、まるで赤子の手を捻るが如く。
歯が立たぬ――知りたくはなかった、もう一つの真実である。
「もうよい……相分かった」
悪路王が、浅黒く逞しい右腕を水平に翳した。
するとその腕を、瞬く間に金に輝くの龍の姿が
「嗚呼っ、あれは……!」
芙蓉が、声を上げて戦慄いた。
「九頭龍が
悪路が唱えれば、黒岩の裂け目より幾筋もの
地獄の業火に匹敵する富嶽の火焔は、何もかもを飲み込みて焼き尽くさんとす。
「あれは母上の封印せし術じゃ……母上を侮辱する真似は赦さぬ!!」
我を忘れた芙蓉が、鬼神へ飛び掛かろうと身構えた。
だがその時、芙蓉の細い肩を掴む者ありけり。
「待て……芙蓉……」
「あっ、あるじ様っ!?」
止めた貴之が、堪え切れずに芙蓉の肩へと凭れ掛かった。
貴之は普通の人間である。溶岩より発する熱に、肉体が耐え切れずに倒れたのだ。
その出来事を前にして、芙蓉は冷水を浴びたが如く、一瞬にして我に返った。
「すまぬ……すまぬ、あるじ様……妾が未熟で至らぬばかりに……!」
「ええい、何を愚図愚図しておるか、二人とも!」
真っ赤な顔をして荒々しく息を吐く貴之の、額と云わず身体中から大粒の汗が、ぽたりぽたりと零れ落つ。芙蓉は小さな身体で貴之の身体を必死に支え、それを見たあやめは堪え切れず、思わず慌てて二人の元へと駆け付ける。
「くそっ、万事休すか……!?」
そうこうしている内に、真っ赫に焼けつく
「全て妾の……未熟が招いた結果じゃ……」
青褪めて震えていた芙蓉の、身体の震えがぴたりと止んだ。それは、熱に浮かされ苦しむ貴之の、額をそっと撫でた後であった。
そうして、げに儚げな――そして優しげな笑顔で、芙蓉はあやめに告げた。
「あやめは、必ずや悪路を倒すんじゃえぇ……」
「何だと!? 貴様は、
「妾は……こうする……」
芙蓉はその胸中に、貴之をそっと抱き締めた。
それは貴之を護る為。命を賭した護身の結界術であった。
雪の様に冷たい感触を得て、貴之がふと目を覚ます。
「あるじ様、覚えておいてくりゃれ……狐は義理堅い生き物じゃと」
「あの時、お前が言っていた『ごんぎつね』か……」
芙蓉、こくりと頷きて曰く、
「あやめ……そして、あるじ様……」
そっと微笑み、小さな声で囁く。
死を覚悟した様に立ち上がると、貴之をあやめへ預けた。
「妾に代わりて必ずや、我ら母子の無念を晴らしてくりゃれ」
「お、おい……何のつもりじゃ、芙蓉!」
妖狐・芙蓉は、朗々と涼やかに詠唱す。
悪路の、炮烙火遁の術に対抗できる、唯一の手段。
それは冷たい
我が身に宿る魂を隈なく全てを凍らせて、貴之とあやめの身を護る。
芙蓉ができる、最大にして最期の術であった。
「ええい、させん! させんぞ!!」
あやめは唐突にそう叫んで、立ち上がった。
「堪えてくれよ……貴之よ」
そして貴之を岩壁に預けると、芙蓉の前に壁となって立ち塞がる。
「止めい、あやめ! 妾の前に立ちはだかって何とする!」
「ええい、知るか! なんとなくじゃ!」
「お前さんまで、死に急ぐ真似をするでない!」
「五月蠅い! そんなの赦さん、気に入らん!」
最期まで云い争いし、悪鬼と妖狐。
その二人へ向けて、悪路の詠唱が遂に整った。
「さらばだ……奇妙な
邪魔が入ったか、妖狐最期の詠唱はもう間に合わぬ。
だが――盟約に従い、必ずや術者の命は全力全霊で護り抜く。
あやめと芙蓉は、目を固く瞑りて、覚悟を決めた。
「鬼神術・
龍の口より吐き出された火焔が、悪鬼と妖狐へ襲い掛かる寸前の事である。
二人の間を縫う様に、背後からすうっと何者かの腕が伸びた。
閉じた眼が眩む程、激しい閃光が迸った。
轟音と爆風が巻き起こり、吹き飛ばされそうになるを耐えた。
耳を
真白い光に包まれて、遂には色も消え失せた。
仕舞いには、天地の上下が分からない様なった。
二人を包む閃光が収まって、視力と聴力が徐々に戻りし頃。
悪鬼と妖狐は、恐る恐る目を開けた。
すると二人は目を疑って、信じられぬ光景がそこにはあった。
「……無傷だと?」
「まさか……無事じゃ!」
心当たりなど、一つしかなかった。
「貴之の術か!」
数々の、奇跡を起こしてきた、貴之の術。
二人の間を縫って背後から伸びたそれは、貴之の腕であった。
老人から貰いうけた「三つの力」――その最後のひとつを使ったのだ。
「さっすが貴之じゃ!」
喜び勇んだあやめが振り向くと……
貴之の腕が、ある筈の場所には、何もない。
在る筈の右腕が、そこには、何もなかった。
「いやぁ、まいった……」
貴之の右腕は、肘から先がすっかり失われていた。
悪路の放った熾烈な轟焔の術により、肘から先が吹き飛んでいたのだ。
「これは……酷いな……」
自嘲気味に、貴之が呟く。
しくじった――直ぐにそうと、気が付いた。
貴之は『三つの掟』を破り、二人に『情け』を掛けた。
悪鬼と妖狐に『
こうして貴之は、自らの右腕を
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