第13話【終の句】アレイからすこじま

 波の上を揺蕩う様に、ゆらゆらと微睡の中に身を浸す。つい先程まで見ていた夢は、泡沫となって消える。ああ目覚めるのですねと、若葉が意識するとともに、思考は鮮明さを取り戻す。


(ぱちり)


 薄暗い部屋、カーテンが朝を遮りうっすらと窓枠を浮かび上がらせていた。そこで気がつく、ここは一週間を過ごした父の部屋ではなく新たに借りたホテルの部屋だと。枕元のコントロールパネルを手探りで押す。天井灯とフットライトが点ると、若葉は眩しさに目を細めつつベッドサイドに置いた眼鏡をかけた。部屋の大半がベッドというシングルの部屋。同じく枕元に置いたセルフォンを手繰り寄せた。目覚まし時計として設定した時刻より、十分ほど早い目覚め、それでも…。


「よく眠れました。」


 ゆっくりと身を起こし背筋を伸ばした。カーテンが処分された父の部屋では、常に夜の街が差し込み、気付かぬうちに睡眠の質が落ちていたと理解した。腰まで伸びる、少し乱れた烏の濡れ羽色の御簾と、丸眼鏡が少し幼く見えさせる。天宮若葉現在二十歳、いわゆる女子大生。女性と呼ぶには身体の線が細く、少女と呼ぶには所作が折目正しい。東京西部の大学、経済学部に通う身。疎遠だった父が遠く呉と言う地で亡くなり、葬儀と納骨のために一週間滞在した。納骨後の昨日帰るはずだったが、呉氏からの今日会えるかとの誘いに乗り、ただいま延長戦の真っ只中。


(十一時に、アレイからすこじま…。)


 事前にルートは調べていた。駅前からバスで約十分、歩きでも三十分程歩けば辿り着ける。どちらでもいい、ただこの一週間共に呉を駆けた原付が、もう手元にないことが少し寂しく感じた。とりあえず準備しよう、若葉はスリッパに足を通しユニットバスに向かう。身支度を整えよう、そして…。


「朝食バイキング、楽しみです。」


 若葉は口角を上げた。チェックアウトまでまだ時間は充分ある。シャワーは、食事の後でいいだろうと、朝のスケジュールを組み立てていた。


「これは。」


 想像しているものと若干異なった。専用の食堂があるかと思ったら、会場は受付ロビー奥の小休憩空間。しかし所狭しと並べられた食達が、若葉の心を沸き立たせた。香りたつパンの焼けた匂い、煮込まれたであろう肉料理や、ボイルされたソーセージ、柔らかなスクランブルエッグにサラダと乳製品。軍用の食事トレイのような凹凸の付いたワンプレートを手に取ると、若葉は何を食べようかとメニューを脳内で組み立て始める。サラダとヨーグルトは外せない、パン…も良いがそうなるとおかずとの組み合わせが絞られてくる。ではご飯で、合わせるおかずは…。


「あら?」


 料理の横に添えられたポップが目を引いた。見た感じ一口サイズにカットされた揚げ物のよう、ご飯に乗せてタルタルソースをかけるととても美味しいらしい。「がんす」この地方の郷土料理だろうか。興味を惹かれた若葉は隣のお櫃からご飯を盛り、その「がんす」なる物を乗せてみた。ちょっと控えめに…カロリーが気になるのだ…タルタルソースを乗せて、レモンで作ったというチリソースを添えた。

 サラダと味噌汁を加えて、若葉の「初、ひとりバイキング」の朝食は完成した。


「いただきます。」


 窓際の席を確保して、と言っても見えるのは隣の建物だが、若葉は手を合わせた。早速お薦めというがんす丼を一口、なるほど魚の練り物を薄く伸ばしてフライにしたもの…なのだが味付けが特殊なのか、若葉が知るどの練り物ともフライとも異なる味わい。


(これ、美味しいです!)


 揚げたてでは無いがトースターで温められたのだろう、揚げ物の香ばしさにタルタルソースの濃厚な味わいが乗り、レモンの酸味がとても合う。一筋の辛さがまた後を引いて良い。若葉は呉に来て「食」をほとんど楽しまなかったことを少し悔いていた。眉間に小さな皺が寄りそうになるのを、次の一口で押し留める。


(…♪)


 頬が緩む。皿の白さを取り戻しながら、若葉はもうちょっとだけ食べましょうか、とおかわりの誘惑と綱引きをするのだった。


  *


 自動精算機にカードキーを差し込む、チェックアウトはそれだけだった。ホテル従業員の送り出しの声を背に、街へ一歩を踏み出す。昨日ホテルへ向かったのとは逆、駅に向かって跨線橋を渡る。まずは駅のコインロッカーにトランクを預ける、昨日ホテルに向かうときに見つけていた。

 セルフォンで時間と乗換案内を確認する。まだ充分時間はあった。若葉は改札前を過ぎると隣の売店でしばらく時間を潰すことにした。行きの時は気付かなかったが、呉氏グッズが多く並び、若葉は己の物欲と戦う羽目に会うのだった。

 バスに乗り呉の街を行く。見慣れた…とは言い過ぎだが、見知った景色を一段高いところから観るのは少し新鮮だった。一人席で肩を壁に預けながら、若葉は早速買ったばかりの呉氏キーホルダーをキャンバスリュックに取り付けた。指で弾くとアクリルの呉氏がくるくると踊る。その呉氏の向こう、道は急坂へと変わり、傾斜が若葉の身をシートに押し付けた。工業区画に入った。若葉は反対側の窓を見る。小さな窓の向こうに巨大なクレーンが並ぶ、あちら側に座れば良かったか、あの建物の何処かで父が働いていた、そのはず。


(え?あの大きさ??)


 原付に乗っていたときには注視できなかった、故に気づかなかった。巨大なクレーン、その操舵室、良く見ると二階建てのプレハブ小屋くらいのサイズがあった。つまり、若葉が知るどんなクレーンよりも、大きいということになる。周りには比較するものがない、いや超巨大クレーンしかないがための誤認。若葉は小さく感嘆の息を吐いた。

 バスはジェットコースターのように坂を下る、工業区画は終わりを告げ、防衛関連の区画に入る。目的の停留所はそこ、名前もそのまま「潜水隊前」。車内アナウンスがその名を告げた、若葉は降車に備えてキャンバスリュックを軽く抱きしめ、停車ボタンを押した。


 先を行くバスの背が小さくなっていく。降り立ってみると、道を挟んで片や海、片や防衛関連の施設。若葉は市の観光案内で得た情報に従い、バスが消えた方へ歩く。横断歩道で道を渡れば、そこは海沿いの堤防公園。


(ヴェルニー公園に、少し似ていますね。)


 ふるさと横須賀の光景に照らし合わせてみる、その公園よりは少し小規模なようだが、海はこちらの方が綺麗だと感じた。


(キィー、キィー)


 くじらの鳴き声が聞こえた。若葉はそんなまさかと音の方に目を向けてみる。そこには漆黒を纏ったてつのくじらが並んでいた。てつのくじらだ、一昨日見た物と同じような物が何隻も並び、キィキィと声を立てていた。ソナーの類だろうか?若葉は小首を傾げながら歩む。


(あ!)


 理解が追いついた、来るものを拒む厳格な柵扉、その向こうで桟橋が揺れる。その動きに合わせて、くじらの声は響いていた。つまり、浮上式桟橋が波に揺れて軋む音、それがくじら声の正体。煉瓦敷の公園を歩きながら、青を探す。眼下の海は横須賀とは異なり、街と隣接しているにも関わらず透き通り、白砂と魚達の姿を見せていた。視線を戻す、その先には小さな東屋。若葉はそこに、探していた青い姿を見つけた。


(呉氏さん…。)


 東屋の中で手が振られているのが見えた、呉氏も若葉に気付いたようだ。ぱたぱたとペンギンのように両腕を振りながら駆けてきた。若葉の正面に対峙して、ぺこりと会釈。若葉も、一拍遅れて頭を下げた。何かを言いかけて、若葉は思わず口を噤んでしまう。どう切り出して良いのか、分からなかった。


(くいくい)


 呉氏が招き手を作りくるりと背を見せた、どうやら少し歩くらしい。若葉は少し歩調を早め、その青に並ぶ。てくてく、てくてく、呉氏は独特な、モデル歩きのような「魅せる歩き方」で歩を刻む。くるり、面舵いっぱい。ちょっとした広場、その奥には展示物なのかとても古そうな、小さなクレーンが建っていた。呉氏百八十度回頭。また、呉氏と相対する形になる。


(ぽんっ)


 呉氏が跳ねた、若葉は名を知らないが、何かのダンスステップを刻み、フィニッシュポーズを極めると共に、若葉の方を指差した。


(ぽこん)


 若葉の桜色のスプリングコートが、そのポケットが鳴った、若葉のセルフォンが鳴った。若葉は呉氏と自身のポケットを交互に見比べる、指したまま呉氏は頷いた。見ろ、と言う事らしい。若葉はセルフォンを取り出すと、その表面にタッチした。ツイッチャーからの通知、呉氏からのダイレクトメッセージ。


『ぼくは、君のお父さんに会ったことがある。最後の旅の途中、景色を追いかけるお父さんに。』


 若葉はまた自分の手元と呉氏を交互に見た、何故メッセージが届くのか、何が起きたのか分からなかった。最後の旅、恐らくそれは父が入院する前に行った、エンディングノートに歌を刻む旅。呉氏はまた踊り出す、先程とは異なるステップを八拍。そしてまた若葉に向けて指を向けポーズを極めた。


(ぽこん)


『もし歌を…自分の景色を追いかけてくれたなら、伝えたい事があるって言ってた。だからぼくは絶対に連れて行くから、言葉をちゃんと残してクレって言ったんだ。』


 若葉はセルフォンを持ったままキャンバスリュックを下ろし、エンディングノートを取り出した。片膝を付き、歌のページを開く。端からなぞり自身の記憶と照らし合わせる、ここは行った、ここも行った、では…。


「どれ?どの歌です?言葉って?」


 若葉は指を歌に這わせた。呉氏は軽く首を振ると、また踊り始めた。空の青に溶けるほど大きく跳び、激しく足を地に刻み、十六ステップを描くと広場を一周して若葉の元に戻る。そして二本指を突き出しポーズを極めた。その伸ばした指先には一枚の紙が挟まれていた。エンディングノートの歌のページと、同じ紙。


(ぽこん)


『この歌、ぼくがずっと預かっていた。』


 若葉は差し込まれた紙とノートの境目を凝視した。言われなければ気付かなかった。製本糸ギリギリのところで一頁切り取られていた、符丁のように差し出された紙はあるべき場所に戻る。復元された最後の頁の、本当に「最後の歌」。


【くじら声背に受け進む若葉船 行く末見れず命惜しけれ】


 呉氏は紙を離し、指し指を作ったまま大きく回転する。くるりくるり、バレエのダンサーのようにステップを交えて古いクレーンの方を、いやその向こうに居る灰色のふねを指し示した。また、セルフォンが鳴る。


(ぽこん)


『そして試験運転を終えて、今日からここに停泊しているあの船が、お父さんが作っていたふねだよ。』


 若葉は状況が理解できずに、そっと最後の歌を撫でた。指先で歌を読むように、ゆっくりと。そして不意に、理解が追い付く。その代わりに感情がぐちゃぐちゃに荒れていく。もう一度、歌を指でなぞる。


【くじら声背に受け進む若葉船 行く末見れず命惜しけれ】


 くじらの声が響くアレイからすこじまで、自身が製造に携わった、完成したばかりの船の行く末が見られなくて残念だと。でもその事に「若葉」の言葉をはめたダブルミーニング、自分の事も「娘の若葉」の事も気にかけていた。「若葉」の行く末が見られなくて、命が惜しいと言った。母の後を追って緩やかな自死を選んだ父の、若葉への悔い。思っていてくれていた、でも今更そんな、若葉の胸中で感情が渦巻く。自身を客観視する後ろの若葉は必死に、溢れそうになる感情を抑えなさいと叫ぶ、「若葉はそんなことをしません!」「若葉はいい子だから耐えられます!」でも、当の若葉は自身の殻に亀裂が入っていくのを感じていた、駄目だ…割れる。きゅ、胸元で拳を握りしめる。もう指先の文字も、見えない。


「パパの、バカぁ!!」


 怒声と同時に涙が溢れてきた。ずっとずっと押さえつけていた、実家を失った二年前から、母を失って父が呉に去った五年前から。駄目だ、子供に戻ってしまう。かさり、手からノートが滑り落ち、抑えていた感情が溢れて、その思いは姿勢の維持を放棄し、若葉はぺたりと座り込んでしまう。


「酷いよ、私だって辛かったんだから、逃げるんなら一緒に連れてって欲しかった。傍にいて乗り越えさせて欲しかった!ずっと一人で、何でもないふりして、でも横須賀の家もなくなっちゃって、私もっともっと独りで!」


 諦めていた、母の死が辛くてこっちを見ていないと思っていた。そう思っていれば、辛さを誤魔化せたから。でもそうじゃなかった、父は若葉を気にかけていた。でも、その気持ちを返す相手は、父はもういない。本当にもう届かない事が、実感として胸に宿ってしまった。

 パパのバカ…パパ酷いよ、と溢れ出る悔いが止まらない。呉氏がタオルハンカチを若葉の胸元に差し出した。若草色の、片隅に呉氏の刺繍が施されたもの。若葉は受け取るも、ただ掌に広げるのみ。ただただ、子供のように嗚咽を漏らし泣きじゃくる。若草が、春の大雨を受けて濃い緑へと染まっていく。呉氏は若葉の肩に手を乗せて、ずっとずっと若葉が落ち着くのを待つのだった。


  *


 潜水隊バス停、呉駅方面行の前に、若葉と呉氏が並んで立っていた。先程と異なるのは、若葉のメイクがナチュラルメイクからフルメイクに変わった事。泣きはらした目を隠すために、強めのメイクに変えた。若葉はセルフォンを取り出して時間を確認した。次のバスが来るまで、あと三分ほど。


「その…ありがとうございました。」


 若葉は深々と頭を下げた。この優しい妖精は、ただ歌を届けるのではなく、歌に込められた父の気持ちがちゃんと伝わるよう、場所を選んで一緒に歩んでくれた。ただ歌を読んだだけでは、自分の中に閉じ込めていた想いにはたどり着けなかっただろう。父が追った母との思い出を、父が抱えていた哀しみを、父が残した無念を、その「場所」で感じることが出来た。まだ気持ちの整理がついたわけではないが、一通り感情のまま言葉を吐いたら、少し落ち着いた。

 こくこく、呉氏は変わらぬ笑顔のまま無言で頷いた。


(ぷしゅー)


 視界をバスの側面が埋め、扉が開かれた。若葉はステップへ一歩を踏み出す。ちらと後ろを見ると、呉氏は手を振っていた。ここでお別れするつもりのようだ。若葉も、窓越しに手を振り返す。呉氏はぱちりと指を鳴らすと、若葉の方を指さした。


(ぽこん)


 若葉のセルフォンが鳴った。バスが奔り出す、青い姿が横に流れていく。若葉はバスの中を後ろへ歩き、小さくなっていく呉氏に向けて手を振り続けた。カーブを曲がりその姿が見えなくなると、若葉はセルフォンを取り出した。思った通り、呉氏からのダイレクトメッセージ。


『また呉にきてクレ。』


 くす、若葉は口元を手で隠して小さく笑うと、気を引き締め直して決意の表情に変えた。東京に戻って、元の生活に戻らなければ。そしてまた、呉に来よう。複製したアルバムに眠る、まだ見ぬ呉の景色を追うために。


(また、来ます)


 若葉を乗せたバスは防衛関係区画を抜け坂を上り、呉中心部へと向かう数多の乗用車の中に埋もれていくのだった。


(♪だんどん、だんどん、だんどん、だんどん、だんどん、だんどん、だだどんどん♪)


♪スピードあげ坂道を下る、眼の前に広がる蒼い海♪

♪あの時君と見た紅に、染まる水面を想い出すでしょう?♪

♪来れば、来れば、来れば、来ればいいのに…♪


 呉駅のエスカレーターを上り、若葉はコインロッカーからトランクを取り出す。ぴぴ、改札を抜けてホームへと階段を下りる。程なく遠くから、がたごとと地を響かせて呉線の列車がホームに入ってくる。


♪振り向いてくれComeback to Comeback to me♪

♪もう一度Gimme your Gimme your heart ♪

♪来れば、来れば、来れば、来ればいいのに…♪


 広島駅のお土産コーナーでもみじ饅頭の箱詰めを幾つか包んでもらう。対面のお土産コーナーに回頭し、ラーメンやカレーのお土産を前に思案顔。せんじがらのパックを手に取り、これは何の肉?と若葉は首を傾げていた。


♪暮れゆく街は今も君の胸に♪

♪あれば、あれば、あれば、あればいいのに♪


 新幹線の車窓に映る、山と山に挟まれた狭い田園地帯。若葉はその道に自身と原付を置いてみた。田畑の中の風を纏い奔る、それはとても楽しそうに思えた。


♪ふっと香りの記憶がよぎる癒しだった君くれたレモン♪

♪都会で忘れかけてたずっと暖かな潮風そよぐから♪

♪来れば、来れば、来れば、来ればいいのに…♪


 新幹線はトンネルに入っては抜け、トンネルに入っては抜ける。その度に風圧で車体が軋みを上げるが、若葉は気にしない。いや、若葉はシートに頭を預け、こくりこくりとふねを漕いでいた。何度目かのトンネルの衝撃で目を覚まし、少し赤面しながらずれた眼鏡の位置を整えた。


♪気付いておくれWaiting for Waiting for you♪

♪狂おしいCrazy for Crazy for you♪

♪来れば、来れば、来れば、来ればいいのに…♪


 窓の向こうに聳える富士山が、微かに茜を宿す。進行方向前から、横に並び、やがて後ろに消えていく。若葉は「帰ってきた実感」を前に、寂しさの混じった笑みを浮かべていた。


♪呉という街が今君の場所に♪

♪なれば、なれば、なれば、なればいいのに…♪


 混雑する東京駅の中を、流れを乱さないようにと腐心しながら若葉は歩く。新幹線の改札から在来線通路に入れば、慣れ親しんだ光景。中央線に続く長い長い上りのエスカレーターに乗り、若葉は安堵の息を吐いた。少し、混雑への耐性が鈍っていたかもしれない。


♪来れば、来れば、来れば、来ればいいのに♪

♪来れば、来れば、来ればいいのに…♪

♪来れば、来れば、来ればいいのに♪

♪来れば、来れば、来れば、来れば分かる…♪


 すっかり黒が支配する住宅街、漏れる微かな光に桜色のスプリングコートが薄っすらと浮かび上がる。街灯に近づくと、若葉の鴉の濡れ羽色が輝く。歩道のない狭い生活道路を足早に進み、アパートの敷地に入る。自室の前に積まれた三つの段ボールを前に、若葉は安堵の息を吐いた。荷物が少ないが故、置き配達をお願いしていた。引っ越しなのに置き配とは初めてです、と苦笑いしていた業者の顔が思い出された。若葉は部屋の鍵を開けて段ボールを玄関に運び入れると、新聞受けに入っていた長い鍵を拾い上げた。部屋には入らず、アパートの駐輪場へ向かった。そこに停められていたのは、呉ナンバーの黒い原付だった。


「おかえりなさい、お父さん。」


 ぽんぽん、若葉は原付のシートを撫でるように軽く叩く。これからはここで、東京で走ってもらう、そしていつかまた…。


  *


 灰が峰が陽炎に揺らぐ、蝉しぐれが響き渡り緑の濃さは最盛期を迎える。

 灰が峰に涼風が吹く、峰には茶が混じり山頂の向こうには筋雲が浮かぶ。

 灰が峰が藍と少しの緑に染まる、山頂付近には白化粧が乗る。

 灰が峰に桃色が混じる、染井吉野と山桜。薄緑が山肌に増え、季節の一巡を知らせる。


 呉駅の階段を下りる一人の女性の姿があった。リクルートスーツに身を包み、腰まで伸びた鴉の濡れ羽色は、駅の照明に淡く虹色を返す。こつこつと、ローヒールの靴は煉瓦敷の歩道に音を刻み、巨大なスクリウ前を横切る。女性の名は若葉、天宮若葉現在二十一歳。少女の面影は極僅か、むしろ自信に満ちた笑みは実年齢より上かと見紛う面貌。

 若葉は歩きながら、肩にかけたビジネストートから大きな封筒を取り出した。封筒は複数、トランプのカードを切るように入れ替えていくと封筒表面には異なる会社名が並び、どの封筒にも0823から始まる電話番号が記されていた。家を出てから何度も確認した、今日面接を受ける会社の数々。


「さあ、行きましょう。」


 呉の街を行く乗用車やひとの潮流の中に、一つの紺色が混じり、溶け込んで行く。父と母、「君」の眠る呉、多くの美しい島を抱える呉、その呉で歌を追った結果、若葉は新たな故郷を得た。いや呉が真なる故郷だと知った。

 若葉はまた呉を旅する、その足掛かりたる一歩が今、始まるのだった。


  *


 終の句、了

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君呉、多島美、歌追(きみくれ、たとうび、うたのおい)〜女子大生が、呉の景色を追いかけるお話 白狐びゃっこ @byakko-shirokitune

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