第12話【十一の句】大空山霊園(安芸阿賀)

 呉中心部、本通りから休山方面に少し入った小道、引越し業者の軽トラックが走り去る。それを見送るリクルートスーツ姿の女性、天宮若葉現在二十歳。女性というには身体の線が細く、少女と呼ぶにはスーツと共に纏った気迫の色が強い。軽トラックが本通りを曲がっていったのを確認すると、若葉は一週間使わせてもらっていた部屋に戻る。部屋の真ん中には若葉のトランクが鎮座していた。それ以外の数少なかった家具も全て処分されて部屋の中も押し入れの中も空。いや、トランクの傍に銀布に包まれた父の遺骨だけがあった。

 納骨の日、今日近くの墓地に遺骨を納め、そのまま東京に帰る。若葉、呉滞在最終日。若葉はトランクと遺骨の傍に正座で腰掛けると、セルフォンの表示を確認した。アプリでタクシーを呼んだ、キャンバスリュックを背負い、中身の増えたトランクを保持しながら遺骨を抱えて移動するのは無理がある。セルフォンの地図の中、乗用車のアイコンが徐々に近づいてくる、あと三分と字幕が教えてくれた。引越し業者が来る前に掃除を済ませた、水道の元栓を閉じた、ブレーカーは今から切る。若葉はタイトスカートの裾を払いながら立ちあがり、数日を過ごした、父が数年過ごした部屋に頭を下げた。


(行きましょう)


 到着、そのメッセージに従い表に出た若葉は運転手に「荷物があるので、ちょっと待ってください。」と告げ、まずトランクを積んだ。一往復、次に父の遺骨を。二往復、部屋の鍵を締めキーケースから外し、集合ポストの「管理人」のテプラが貼られた箱に納めた。カラカララン、銀の笏が音を奏でた、これでこのアパートとは縁が切れた。若葉は「お待たせしました。」とキャンバスリュックを隣に置くと、後部座席に腰掛けて遺骨を膝に乗せた。

 タクシーは本通りを山に向けて走る。ほんの微かな登り坂に変わったところで右折レーンに入る。視界が暗転する。休山トンネル、結局使いませんでしたと若葉は窓の外の黒を眺めていた。長い直線片側二車線、トンネルにしては広い方だろうが、その場に原付で走る自身を置くと、途端に落ち着かなくなる。それでも…


(一度くらいチャレンジしておいても、良かったかも知れません。)


 若葉はその後悔に近い後ろ髪への牽引を感じながら、やがてタクシーは光の中に戻り、若葉にとっての記憶にある道へと繋がった。

 トンネルを抜けてすぐ、タクシーは茜を灯して山に向かった。走り慣れた…いや走り慣れてはいないが、見慣れた細いコンクリート道。乗用車がすれ違うのも困難な細く急な道を、タクシーは慣れた足取りでシフトを落として登っていく。民家はまばらとなり、森の中を進む道となる。幾つ九十九を折っただろうか、不意に視界が開けた。道の両端が切り開かれて、灰と黒が出迎えた。目的地の墓地、その小規模な駐車場にタクシーは頭入れしてくれた。隣にはおそらく僧侶が乗ってきたであろう軽自動車と、石屋が乗ってきたであろう軽トラックが停められていた。


 墓の場所までは細かく聞いていなかったが、他に人がいないので「そこ」だと分かった。簡易な祭壇の傍に僧侶の姿と、作業服姿は石屋だろう。タクシーの運転手は気を利かせてトランクを持ってくれた。


「ありがとうございました。」


 頭を下げるとタクシーは去っていく。若葉は骨壷を祭壇に置き、トランクから遺影と仮位牌、そして黒壇木の本位牌を取り出した。石工が深々と頭を下げ、専用の器具で墓石を動かした、上蓋を取ると先達の遺骨…二年前に父が持っていった、母の遺骨。何度所在を尋ねても教えてくれなかった、母の遺骨。そこまでして…少し黒い思いが胸に宿ろうとすると、背後の客観視する自分が「駄目です、落ち着きなさい。」と制動を掛けた。

 僧侶の念仏が墓地に響き、微かに潮の香りが混じる風に香が混じる。参列するものは自分しかいない、十五分程でまとめられた読経が森の樹々に吸い込まれ消えると、僧侶は頭を下げ繰り上げ四十九日法要が終わったことを告げた。父は仏になるべく七日一組の修行を積み、母がそれを導く、今後は各周期毎に仏に近づいていくと。


(自分だけ先に、ですか。)


 背後の自身がまた、咎める声をあげた。

 僧侶に謝礼のお布施を渡し、石屋に作業完了を示す書類に記名すると、墓地には若葉一人が遺された。若葉は「順序が逆ですね。」と苦笑を浮かべながら水を汲み墓石を磨いた。新しくまだ白い父の名と、それよりも少し時を積んでいるが、それでもまだ綺麗な母の名が並ぶ。


「これで望み通りですか?」


 若葉の問いに答えるものは居なかった。振り返り山の下を見ると、木々の向こうに海が見えた。若葉は地に置いたキャンバスリュックに手を伸ばすと、エンディングノートを取り出した。ぱらぱらり、身体がもう覚えていた、巻末の歌の頁。まだ読んでいない、いや読まないようにしていた最後の句を指で追った。


【君眠る海を見下ろす森の園 指折り数え並ぶのを待ち】


 やっぱり、若葉は目を伏せ微かに眉間へ皺を寄せた。予想通りだった、どこまでも自分勝手だけど、母のことを大切に思っていることは分かった。海が見える墓地に母を移し、ゆっくりと…いやひとの人生においては急いた方だろう、自身の死を待った父。残念…そう、哀しいと言うより残念。でもこれで一区切り、もう帰るしかない。若葉はエンディングノートと入れ替わりにアルバムを取り出してパラパラと捲ってみた。過去の窓に映る母は、なるほど海を背にしていることが多かった。おそらく、こうして自分が海を見ていたように、ここで父を待っていたのだろう。優しくも厳しい母だった、早逝を選んだ父を叱っている、叱っていることを願うしかない。それで溜飲を下げよう、後ろで客観視する自分が、大きく頷いた。

 若葉はトランクを手に墓地を後にした。呉氏が居てくれれば、何か暖かさを与えてくれただろう。若葉はこの場にいない青を求めて視線を彷徨わせていた。


  *


 コンクリ敷きの道をゆっくりと歩く。車にとっての急坂は、ひとにとっても急だと言うこと、無理せずに歩く。それに、昨日の二百階段による筋肉痛も残っている、下りの足を着くたびに、痛みが糸のように太腿を伝い、断裂の跡を浮かび上がらせるのを感じた。だからゆっくりと、ゆっくりと歩みを進める。下るにつれて緑が少しずつ薄まり民家が増え、幽世から現世へと変わって行く。最後の緩いカーブ、そこを曲がれば国道に繋がる、若葉は山の方を見上げた。住宅で墓地の方は見えない、一区切りついた父は…母に寄り添ってこの山に居続けるのだろう。

 横断歩道を渡る、国道を横切る。若葉はその真ん中で一度立ち止まり東の方を見た、その向こうには初めて原付で行った野呂山や、とびしま海道へと繋がる。原付で走っていた自身を思い出す、楽しかった、また走りたい、そう思えた。点滅する信号に急かされて、若葉は歩調を早める。太腿が「まだ無理だ」と悲鳴をあげた。


(最後、済ませないと。)


 安芸阿賀駅の階段を上り、改札を通る。呉からたった一駅で、街の発展に反して駅規模は小さく、この辺りは経済的に鉄道重要度が低いことが伺えた。トランクを両手で保持してしばらく待つ、十分程かホームに列車の到着を告げるアナウンスが流れた。呉駅に向かって走る、この列車に乗っていく。席は空いていたが、若葉は扉の横を停泊位置として手摺に寄りかかった。列車が動き出すとすぐにトンネルに入る。窓に自身の顔、その半分が写し出された。徹夜明けの様な疲れた顔をしていた、背後の自身が「若葉はそんな表情は作らない」と叱責してくる。ふうと長く息を吐き、感情を収める。笑う、事は出来ないが凪にまで表情を作ることが出来た、トンネルを抜けると見覚えのある景色が、見覚えのない角度で広がる。


『まもなく、呉。』


 その声に、若葉は腰で壁を押して反動で身を起こした。さらり、烏の濡羽色が波打つ。呉での遣り残し、本当は墓地に行く前に片付けたがったが、時間的に間に合わなかった。その上、遺骨にトランクにと大荷物を抱えて遂行出来るかと問われれば、無理だと答えただろう。改札を出て、階段を下りる。初めて呉に来た時と同じ、しかし最初とは違うのはタクシー乗り場ではなく駅横の小道を行く。ラーメン屋の前、若葉は空を見上げた。


「トランクルーム」


 今日は一人でエレベーターに乗り三階へ、カードキーで保管庫へ。迷うことなく父が借りているロッカーへ鍵を差し込む。遣り残し、それはアルバムを戻すこと。ありし日の母の姿を収めた数々の写真、今回の旅で追っていた父と母の思い出、その地。遠くない先、燃やされて失われる景色、それを複製した。


(これくらいの我儘は、許してくださいね。)


 誰に対してか、おそらくは父へ詫びを入れ、若葉はキャンバスリュックから取り出したアルバムを段ボールに入れ直し、粘着力の殆ど残っていないガムテープで抑えるのだった。

 呉駅のエスカレーターに乗る、セルフォンを取り出して乗換案内を実行する。大丈夫、次の呉線に乗れば、乗る予定の新幹線の三十分以上前に広島駅に着く。駅構内でお土産を買おう、一週間の不在の間を埋めるため、友人からノートを借りるお願いをしておいた、その礼に見合う物を探そう。若葉は眼鏡の弦を押し上げて気持ちを切り替えた。


(ぴろん)


 仕舞おうとしたセルフォンが鳴動した。指先がくすぐったい。戻りしなだったので表示をちゃんと見ていなかったが、何かしらのメッセージが届いたようだった。若葉はエスカレーターを降りて数歩歩き、周りに注意しながら立ち止まりセルフォンの表示を確認した。

 ツイッチャーのダイレクトメッセージ着信通知、送り主は…呉氏。


(呉氏さん!?)


 どくん、若葉の胸が一拍大きく跳ねた。もう会えないと思っていた、今日会いたかったひとからのメッセージ。若葉は深呼吸を二度繰り返してから、通知を指でなぞる。ツイッチャーに切り替わりダイレクトメッセージのコーナーに呉氏のアイコンが表示され、くるくると読み込み中の歯車が回り、やがて声を届けてくる。


『明日の十一時、ここに来てクレ。→(URL)』


 ただ一言、自身を呼ぶ声と、複雑な文字列。読み解ける内容からそれは地図アプリに連携するURLだと理解できた。


(どう言うことですか?呉氏さん。)


 若葉は恐る恐る地図のURLを踏んだ。ツイッチャーからぐるりと地図アプリに切り替わり、呉駅上空の航空写真が表示された。一度ズームアウトしてまたズームインする。遠くない、呉市内だ。海沿いの一点にマーカーが打ち込まれた。港…の様に見える、二本指で縮尺を変えてみた、覚えのあるルートだった。一昨日音戸を目指した時、本来行くはずだった海沿いの場所、手前で道を間違えたので山側を行ってしまい、帰りはフェリーを使ったため結局使わなかった道。防衛関係の港の様だった。


「アレイ…からすこじま?」


 見慣れぬ言い慣れぬ単語を見て、思わず声に出してしまった。でも、今日はこれから新幹線がと、若葉の胸中はぐるぐると渦を巻く。背後にいる客観視する自分は「予定通り帰りなさい、真面目な若葉ならそうします。」と叱責を投げかけてくる。


(でも…これは…!)


 若葉はセルフォンを握り直し、グループチャットで大学の友達との連絡用の部屋を表示した。すばやく、決意が揺るがないうちに、声を刻み送信。


『滞在が一日伸びてしまったので、すみませんがもう一日分ノートをお願いします。』


 次に新幹線の予約アプリに切り替えた、帰りの便を選択…変更、明日の同じ位の時間帯。背後の客観視する若葉は何か口煩く騒いでいる様だが、現実の若葉はその言葉を無視した。きょろきょろ、周りを見渡してみる、あった…若葉は改札前の一角へと足を向けた。それは、観光案内所。


「すみません、今日急に呉に泊まることになったのですが、ホテルを紹介していただけないでしょうか。」


 二、三言葉を交え、何箇所かホテルの連絡先と場所を教わった。若葉はそのメモを手に歩き出す、改札前を横切って呉線を越える跨線橋へ。その道の途中、呉線の真上で若葉は街を見渡した。灰が峰、休山越しの野呂山や海道、見えないけど音戸、桂浜、江田島、二百階段、病院…この一週間でいろんなものをみた、感じた。父の気持ちに触れられた。でも若葉はまだ足りない気がしていた、その最後の欠片が、おそらく呉氏。


(いきましょう!)


 若葉はトランクを両手で強く握り直し、跨線橋を足早に駆けていくのだった。


  *


 十一の句、了

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