第11話【十の句】呉街観光(呉中心部②)
呉中心部、海軍病院坂を下る影二つ。一人は桜色のスプリングコートにスリムデニム、山を目指す向かい風に烏の濡れ羽色の髪を靡かせる、天宮若葉現在二十歳。女性というには身体の線が細く、少女と呼ぶには眼鏡の向こうの決意の色が強い。一人は…ひとか、青く四角い身体から伸びるこれまた色合いの異なる青い四肢、呉の文字に目と口が付いたような姿、呉市のマスコット「呉氏」。二人は柔らかな卯月の陽の中、並んで坂を下る。
天宮若葉は東京某市の大学に通う所謂「女子大生」専攻は経済。遠く呉の地で、疎遠だった父が亡くなり、葬儀と納骨のためにおおよそ一週間の呉滞在中の身。父の残したエンディングノートの片隅に記された和歌、その詠まれた地と景色を求めて旅をする。残る歌は、二つ。
呉氏が歩速を上げて坂道を下る、目の前には防衛関係の区画が広がる。広大な芝生、運動場のよう。振り返り呉氏は若葉に手を振り先導する、取舵一杯めがね橋に背を向ける。その歩道は小さな山との境目、新芽を茂らせた樹々が陰を作り、時折煌めきが緑の天井を賑わせる。暫く歩くと丁字路が現れた、丁字路からの丁字路、その伸びる方角が違う。呉氏は横断歩道の前で立ち止まった、どうやら渡るつもりらしい。若葉はその隣に並ぶ。
行き交う乗用車の幕の向こうに、真っ直ぐ貫く道。信号が変わる、片側のみに歩道が存在し、両の脇をフェンスに囲まれた閉塞感のある道。その先にピンク色の看板と、昨日降り立ったフェリーターミナルの緑屋根が見えた。人の暮らしが遠い、そう感じた。
(トンネルのようです)
次の歌で父の意図が分かると言う、ならやはりこの道はトンネルにしてショートカットなのだろう。事実、フェリーターミナルへ繋がると言うことは、呉の市街地の半分を省略するのと同じこと。
進むに連れて生活感が大きくなっていく、このフェンスの長屋を抜けて川を渡れば、また人の暮らしが感じられる区画になる。初めから見えていたピンクの看板は関東にはない大手スーパー。昨日は気づかなかった、フェリーターミナルの隣はミュージアム。そして、これは何度も目を疑った、道の先緩いカーブのところに潜水艦が陸揚げされて居た。ミュージアム前を通り過ぎる、呉氏がテンション高めに小走りで先をいき、ミュージアム入り口横の顔抜き看板の元に着く。看板は呉氏を模った物。これぼくこれぼく、と何度も看板と自身を指差して呉氏が手を振る。
(なにか、良いですね。)
若葉はセルフォンを取り出し、自身の看板と戯れる呉氏の姿を納めた。それに気づいた呉氏は、自分と若葉を交互に指さした。代わるよ、と告げられたかのよう。若葉は自分が撮られる事を想像だにしていなかったのか、背筋を正し少し頬に朱を宿しながら否定の首を振る。呉氏は「何で?」と言いたげに、微かに首を傾げた。
巨大な鉄の棒の…戦艦の主砲らしい…そばを抜けると道を挟んで対峙するのは巨大な黒鉄。若葉は一枚写真を撮り、画像検索にかけてみた。退役した本物の潜水艦を飾った、防衛関係の広報施設、らしい。若葉は顎に指を当て、明日の納骨から帰宅までのスケジュールを脳裏に描いてみる。後ろのミュージアムもだが、見学する時間を捻出するのは難しい。観光で来たわけではないが、この二箇所を見なかったことが少し悔やまれた。
(もう一度、はあるのでしょうか?)
鉄の鯨を通り過ぎると、街の景色は大きく変わった。工業の雰囲気、車通りはあるが人通りは少なくなる。半歩先を行く呉氏のペースは変わらない。このまま行くと、呉中心部の端から端まで歩くことになる。別に構わないが、それなら原付を出しても良かったのでは?と心の中で首を傾げた。
橋を渡り面舵一杯、車の流れがより大きな道路に接する。どうやら国道のよう、少し歩いたところで取舵、時代を感じさせる住宅街…と商店街の中を進む。なるほど、と若葉は心の中で膝を打つ。狭い道と一方通行が続く、慣れていないと原付では惑う事だろう。
(やっぱり、考えてくれているのですね。)
道は緩やかな上り坂、このままだと本当に呉の反対側の山に当たる。いや、当たった。山の始まりは固く精密に積まれた石垣、斜面でも暮らせるよう工夫した証。暫くは石垣沿いを歩く。
(くいくい)
呉氏が手招きして壁の一角を指さした。石垣の隙間と言うのだろうか切れ目、「それ」と対峙した時、若葉は目を丸くした。地から空までを見上げ微かに口を開き嘆息ひとつ。
「ここ…ですか?」
ここ、石垣の隙間…天を目指す急階段、病院前の階段が通行禁止で、それよりはるかに急勾配の階段が、閉鎖される事無く普通に使用されているこの矛盾。若葉はキャンバスリュックからエンディングノートを取り出した。一気に歌の頁を開き、歌をなぞる。この歌は見た、この歌も見た。まだ見ていない歌は、どれだったか…あった。
(ぴたり)
青い呉氏の指と若葉の指が同じ歌を指さした。
【城の上二百見下ろす呉の街 君との時を綴じ込むを詫び】
これだ、先に歌を見たのなら分からなかったが、現場に立てばその意味が分かる。階段の傍には看板が建てられていた。どうやらここは呉の観光資産らしい、「両城の二百階段」そう描かれていた。
隙間に通した脱出路か、非連続の階段、規則性が無く時に緩やかな坂、時に上りながら向きを変える階段。明らかに無理に通した階段でその傾斜も幅も途中で変わる。
「ふー、ふー。」
息が続かない、踊り場…踊り場で良いのだろうか小さな広場で、赤錆の浮いた手すりを支えに息を整える。分かっていた、自分はアウトドア向きではない。そして理解する、原付を使わないという呉氏の判断は正解だと。階段で抉られた体力で原付を運転するのは、危ない。
戸建ての屋根を幾つ下に見ただろうか、漸く石垣と石垣の隙間の先が「空」になった。細い切通のような「それ」がゴールだろうか。いや、本当に危ない。階段の階差は高め、一方足場は狭く、手すりを支えに胸に膝を当てる様に登る。
「つ、着きました?」
階段は終わり、等高線のように進む緩やかな坂に変わった。ガードパイプを掴み、疲弊した足を労わるように坂をゆっくりと上ると、曲がり角には「両城の二百階段こちら」と来た方角を示す矢印、間違いなく登り切ったようだ。振り返ると、よく頑張りましたと言いたげに、呉氏が小さく拍手を送っていた。
改めて、ガードパイプに両手を付いて呉の街を見る。高さにして建物の二十階分くらいだろうか、それなりに高さを持つマンションやビルがあるため、全貌とまでは言えないが反対側の山までの呉中心部が見渡せた。
【城の上二百見下ろす呉の街 君との時を綴じ込むを詫び】
上の句は分かった、両城の二百階段を上った先から呉の街を見たのだろう、まさにここ。では、下の句が示すのは何か、また「君」が出てきた。「時を綴じ込む」を「詫びる」この呉の街に何かを隠したのだろうか?では何を?
呉氏が街の一角を指さした、若葉は呉氏の前に身を重ね、その指す先を正確になぞろうとする。川と…線路…あれは呉駅だろうか線路に被さる建造物。
「呉駅…ですか?」
こくこく、指で丸を作り呉氏は頷いた。そして登ってきたばかりの階段へ、下りの一歩を踏んだ。
*
国道を横断し、大通りから一本入った道を駅に向かう。橋を渡れば川の流れを挟んで線路が見えた。呉の地理のあれこれは分からないが、恐らく駅に向かっているのだろう。若葉は悲鳴を上げる太腿を撫ぜた。初めて知った、階段は下りでも筋肉を使うという事を。明日が呉を発つ日で良かった、筋肉痛の身体で原付に乗るのは、慣れてきたとはいえ無茶だと感じた。やはり、呉氏は巡る順番を考慮してくれていたのだろうと、疲労で力の入らない脚に耐えながらも若葉は相好を崩した。
駐車場と駐輪場、そして行き止まり。いや、車両は行き止まりだが歩道は続いていた、駅前ロータリーに出る。若葉が最初に呉駅に降り立った階段と、タクシーを捕まえた乗り場。なんだか、随分久しぶりな気がした。ロータリーを越えて、反対側の道に踏み入れたところで、呉氏は足を止めた。煮干しラーメンと看板を掲げた店の前、いやその脇。
「トランクルーム」
その看板を呉氏は指さした。呉氏の身体の大きさでは少々窮屈だが、なんとか通路を抜けて銀色のエレベータに乗る、行き先は三階。エレベータを下りるとすぐ、トランクルームの入り口。呉氏が壁の一角を指す、どうやらカードキーが必要な様だ。
(カードキー、ありましたっけ…。)
暫く考えて、若葉は一つの心当たりにたどり着いた。キャンバスリュックから自分のではない男物の財布を取り出した。父の財布、父に関する出費はこちらから出すという「棲み分け」の為に持ち歩いていたもの。財布の中のカードホルダーを探す。
「ありました!」
トランクルームの名が記された厚みのあるカードを、壁のカードリーダーに近づけてみる。
(ぴー、がちゃり)
カードリーダーのランプが青に変わる。部屋の中には、呉氏色のロッカーが隙間なく並んでいた。若葉はキーケースを取り出した、カードキーに思い至った時、もう一つの心当たりにたどり着いていた。部屋の鍵と原付の鍵を納めたこのケースに、用途不明の鍵があった。数字が記された鍵が。
「たぶん、ここです。」
鍵に付けられたものと、同じ数字を掲げる鉄扉の前に立つ。呉氏はあちこちロッカーに身体を当てながら、若葉に追従する。隣に立ったのを確認し、鍵を差し…回す。かちゃり、抵抗なく鍵は回頭し錠が外れる音がした。
(これは…)
高さはあれど狭いロッカー、たぶん半畳も無いだろう。そこに段ボール箱が二つ、重ねられていた。一つを手前に引き下ろし、封を解く。テープに引かれた時の、箱の「揺れ」を見る限りどちらも大した重量を持っていないようだった。一つ目の箱は、書類が多かった。A4封筒一杯に詰められた何かしらの書類、そして冊子のような物。
「これ!」
思わず声が出てしまった、若葉は他に聞く人はいないかと周りを確認して、冊子をぱらぱらと捲った。それは写真を保管した冊子だった、たしかアルバムと言ったか。昔は、撮った写真を専用の紙に印刷して冊子に納めて鑑賞していたと、若葉は知識として知っていた。簡素な中綴じの冊子、写真の内容にも覚えがあった。兜岩展望台、桂の滝、十文字山展望台、御手洗、音戸大橋、江田島…歌が詠まれた場所。そして写真の中心に居るのは…。
「お、お母さん!」
かなり若い、今の若葉とそう変わらない歳に見えた。写真の隅に日付が記されていた、二十と三年前。であればこれは、新婚旅行だろうか。カメラを向けているだろう父に向けて、満面の笑みを返していた。「君」とは母のこと。
(え?)
頁を捲ると、写真の中で切り取られた時が進んだ。桂濱神社、灰が峰、そして病室…大きなお腹を抱える母の姿があった。写真の日付は二十年前、つまり母のお腹の中に居るのは…若葉自身。「産む」と繋がった。つまり父は、新婚旅行と若葉が生まれる直前の、最も幸せだった景色を末期の際に追っていた。
アルバムを閉じ、書類を検めた。入院に関する書類と転院に関する書類のコピー。やはりそうだった、父は先ほど行ったがんセンターに入院していた。それから、亡くなった病院に転院している。
(これって、これって!)
理解した、横須賀は長く暮らした大切な土地だが、母が亡くなった地。悲しい想い出がすべてを上書きしてしまった。だから、父は呉に逃げたのだ。楽しかった思い出だけが残る呉に。そして、自身の死が母の思い出を穢さないよう、おそらく無理やり転院して縁のない病院で最後を迎えた…迎える事を選んだ。
【城の上二百見下ろす呉の街 君との時を綴じ込むを詫び】
両城の二百階段からの写真は無かった。この歌だけは、呉という街に逃げた父が、母の思い出を不変のものとしようとした事を詠ったもの。もう一つの段ボールは母の遺品…写真の中と同じ服が収められていた。
*
煮干しラーメン店の前、青と桜が対峙する。若葉は、キャンバスリュックを胸に抱え俯き気味。父の考えを理解できたとはいえ、それを感情で処理できるかと言うと、到底そこには至れない。一言で言うとやはり「許せない」。だが自身を客観視する「自分」は、抑え込みなさい大人として振る舞いなさいと囁く。
書類の中には所謂「便利屋」に依頼した事項の写しがあった、自分が死んだ翌月にトランクルームを解約し、荷物を全て焼却してほしいというもの。その場所が、明日納骨する墓地。そこに母の骨もあるのだろう。若葉の感情的には、全てを燃やすことは許せなかった。でも故人の遺志も尊重しなければならない、だから若葉はアルバムを持ち出し、写真をコピーすることにした。ただのカラーコピーでは画像が劣化してしまう。高品質な複製、これからそれが出来る店を探さなければならない。
別れの言葉を紡ごうとした若葉の前で、呉氏が身振り手振りで言葉を紡ぎ始めた。指を立てて一を示したあと、縦に長細い箱に、一抱えの箱、何かを動かすような動きに、合掌。二回繰り返してから、休山の方を指さした。その弧は、それほど遠くはない。若葉は、その意味を理解した。
「あと一つ…最後の歌は、明日納骨する場所…つまり、墓地なんですね。」
こくこく、呉氏は大きく頷いたあと「大丈夫?」とでも言いたげに若葉の顔を覗き込んだ。その視線に若葉は意識的に笑顔を作り、小さく手を振った。
「あの!大丈夫です。ありがとうございます呉氏さん、ではまた明日。」
そう頭を下げかけた若葉の前で、呉氏はぷるぷると身を揺すった。どうやら、明日は会えないらしい。その事を理解した若葉は、もう一度頭を下げた、寂しさに笑顔が歪むのをお辞儀で誤魔化し、意図的に笑顔を作り直してから顔を上げた。
「そう、ですか。今日まで…ありがとうございました。」
駅方面に去っていく青い背中を見送る。クレの文字が読めなくなったころ、若葉は踵を返して、れんが通りを目指し力強く歩みを刻む。いや、疲労の溜まった足は力が入らず、少し怪しい足の運び。気を抜くと産まれたての子鹿のようにガクガクと膝が笑う。
セルフォンを取り出しブラウザを立ち上げる「写真 複製 高品質」検索。写真専門店がヒットした、どうやら写真を複製する事を「焼き増し」と言うらしい。ネガやらポジとは何のことかよく分からなかったが、写真から複製できるらしい。「呉 写真店」で検索するとあまり良い結果は得られなかった。検索アシストに「呉 カメラ屋」と表示されたので押してみる。滞在しているアパートの近く、本通り沿いに店舗を見つけた。
(ここなら、ちょうど良さそうです。)
急がなければならない。明日呉を出るまでに写真の複製を作って、アルバムをトランクルームに戻さなければならない。そして部屋を明け渡す準備もしなければ。やる事は一杯ある、若葉は一度立ち止まり太腿をデニムの上から喝を入れるべく軽く叩くと、改めて次の一歩を刻むのだった。
*
十の句、了
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