第10話【九の句】呉街遺構(呉中心部①)
呉を見守る灰が峰、七百メートル級の山。故に呉中心部の何処よりも先に陽を受ける。山頂のレーダードームが朱色に染まり、じわじわと山肌の翠を照らす光は、休山の陰で斜めの光線を作り、徐々に下へと降りてくる。その光が街まで降りて来る前に、若葉の朝は始まる。天宮若葉年齢二十歳、東京の地方都市にある大学に通う、所謂女子大生。遠く呉の地で、疎遠だった父が亡くなり、初めて呉の地に足を踏み入れた。父が残したエンディングノートの片隅に残された、呉を詠った景色を追う。女性と呼ぶには身体の線が細く、少女と呼ぶには決意を宿した眼力が強い。
いつもの様に…一週間ほどの滞在で「いつもの」とは可笑しなものですと心の中で指摘を入れつつ、布団を畳み、外着に着替え、朝食を摂る。丁寧語で思考してしまうのは若葉の癖、自分自身をも客観視してしまう癖、五年前からの癖、父に距離を置かれた時からの、癖。今朝は電子レンジで温めた冷凍のチャーハンに、コンビニサラダ牡蠣のオイル漬けを添えて。朝食を終えたら歯を磨き、メイクを施す。ナチュラルメイク、コットンで化粧水を肌に沁み込ませ、UVカットの乳液で仕上げる。薄くファンデーションを伸ばし、これまたUVカットのパウダーで仕上げる。桜色を唇に宿し、桜色のコートを纏えば、旅のスイッチが入る。UVカット強めの、春の装い。最後に、鉄馬が起こす風で乱されない様、腰まで伸びる髪を一纏めに整えた。
(行きましょうか。)
父が残した原付に収められていた、これまた父が残したヘルメットとグローブを手に扉を開く。また呉での旅が始まる。建物の壁壁に反射した、間接陽光が身を包む。良かった今日も天気は良さそうです、と改めて支度を始める。ヘルメットを被り顎紐を締める、サイズが大きくて合わないので、少しキツめに。セルフォンをサイドミラー根本のホルダーに固定し、グローブのベルクロを締めれば準備完了。
(あら?)
キーを差し込んだところで、少し影を感じた。何処からか注ぐ間接光が、何かに遮られた。若葉は首を傾げ出口の…公道の方を見た。建物の影から覗く、青くて四角い異形。呉氏のまんまるお目目と眼が合った。
「呉氏さん!」
おはようございますと頭を下げると、呉氏もお辞儀を返してぱたぱたと手を振りながら駐輪場へと進み出てくる。若葉の前に進み出ると、何か問題があるのか俯き小首を傾げてみせた。
「呉氏さん?」
今度は疑問形、呉氏はしばらく考えたあと、山の方へ指を向けてみせた。いつもの様に弧は描かず「ちょい」と短く。そしてその場で足踏みをして見せた。呉氏のジェスチャーに慣れてきた若葉は、その意味を理解していた。
「今日は近場で、歩いていける距離、ですか?」
こくこく、呉氏の反応に分かりましたと若葉はヘルメットとグローブを脱ぎ原付の収納に納め、後で髪を束ねるシュシュを抜いた。軽く首を振れば、烏の濡れ羽色の御簾がさらりと波打ち、虹色の輝きを放つ。首に巻いたガーゼマフラーを緩め、コートの一番上のボタンを外す。春の風に晒されても寒く無いようにと組んだ洋装は、歩きとなると逆に暑くなる。
「お待たせしました、行きましょう。」
呉氏に続いて、若葉はアパートの敷地を歩み出た。
*
アパート前の小道を数分進めば、そこは本通り。朝の仕事をのせて海へ山へと走る数多の鉄箱を他所に、呉氏はゆったりとした足取りでアーケードの屋根の下、海方向へと進む。手の振りが大きいので、若葉は当たらないよう呉氏基準で身体半分ほど後横をついて行く。ぱたぱた、呉氏が小走りで駆けちょいちょいと手を招いて見せた。これこれ、と道端の何かを指さしていた。
(これは…)
郵便ポストだった、しかし赤ではなく青い。呉氏を模した海色塗装の郵便ポスト、その上にはこれまた呉氏の人形が乗る。呉氏オン呉氏。これぼく、と言いたげに呉氏はポストと自身を繰り返し指さした。なるほどこれは原付で走っていたのでは気付けなかったと、若葉は相合を崩した。
本通り沿いは若葉が思っているよりも遥かに多彩な業種が並んでいた。歴史の有りそうな和菓子店、ラーメン屋…ではなく冷麺屋、呉冷麺というジャンルが存在するらしい。縁起物飾りのお店、高価そうな酒屋、地方銀行、そして呉に来てから何度もお世話になっているドラッグストア。碁盤の目のように、綺麗に区画分けされた街を歩き、その超えた区画が五を超え十に近づいたころ、少し店数が減り呉線の高架をくぐる。
(…「めがね橋」ですか?)
昨日原付で走っていた時は気が付かなかった、交差点の名前。見渡しても橋は無い、ただ高架をくぐった先の地面が、少し盛り上がっていることが気になった。古い、赤い建物の傍を通る、使われているかどうか分からなかったが、表記を見るに軍関係の建物だった、らしい。くいくい、呉氏が手で四角を作り、掌を人差し指で叩いた、セルフォンの操作に見える。そしてまた四角を作り、建物に向けた。若葉は自分のセルフォンを取り出し、写真を取り画像検索にかけた。
「海軍下士官兵集会場…ですか。」
ポスター、いや映画のワンシーンを映した絵が側面に並ぶ、どうやら何かの映像作品に登場した建物のようだった。こくこく、若葉の反応に満足したのか、呉氏は建物の角を曲がった。緩やかな上り坂、街路樹が新芽を生やし、その坂の先は見えない。呉氏について坂を上る、集会場の裏口だろうか石の門柱には集会場の名と「海軍病院坂」の文字が並ぶ、そしてその扉には「本日の宴会」と称して呉氏の名と、呉氏ジュニアという見知らぬ存在の名が並んでいた。
(これはネタ…ですよね?)
軍関係者に接待される呉氏と小さい…ジュニアと言うなら小さいはず…呉氏の図。ちょっと想像できないというかあまりにもシュールすぎると、若葉は小さく首を振って、頭に宿った妄想を振り払った。坂を上り進む、隣の建物も似た様式で、窓には音楽に興じる人の影が絵として描かれていた。そうなのですね、若葉の理解が追い付いた、呉線の高架を境に雰囲気が変わったのは、そこから先が軍関係の敷地として分けられていたからだろう。組織の敷地内では、経済の巡り方が全く違うものになる。そこが後世、民間に開放されたため発達の仕方が少し変わっていく。
坂の終わりが見えてきた、行き止まり…いや丁字路。美術館と古い一戸建てと、旧呉鎮守府司令長官官舎の文字。門柱横の案内を見るに、この場所自体が小さな山で「入船山」と呼ばれ歴史展示の場になっていることが分かった。歩くことで分かる新たな発見、それは理解したが…。
「呉氏さん、今日はどこに行くのですか?」
そう、それをまだ確認していなかった、先ほど「歩いていける場所」と聞いただけ。呉氏はこくこくと頷くと、丁字路の先を指さした。ただ、その先は急な高台になっており、詳細は分からなかった。丁度横断歩道の信号が青に変わり、二人は道を渡る。看板が立ち、診療案内の文字「呉医療センター」と見え辛いが、看板の上部にそう刻まれていることが分かった。看板横に階段があった、若葉は階段を登ろうとして、しかしその前で止まった。
「階段なのに…通行禁止なのですか?」
隣に並んだ呉氏がこくこくと頷いた。若葉は訝し気に首を捻る。やや急とはいえ、禁止にするほどの勾配とは思えない。横須賀に住んでいたころは、もっと危険な勾配の急階段があちこちに使われていた記憶がある。ではどこから入れば…と若葉が言葉を溢すと、呉氏はくるり反転して先へと進んだ。高台の土手沿いに、灰が峰方向へ…少し戻るような形になる。しばらく歩くと、土手に切れ目が現れ、乗用車が入る坂道と病院の看板、そしてトンネル状の入り口が目に入った。呉氏に続いて若葉はトンネルを…トンネルと言うほど距離はない道路下を潜った。
「大きい、ですね。」
若葉は手で庇を作り、午前の白い陽を背負い緑に隠されていた建物を見上げる。階数は十を超えるだろうか。高さもあるが横幅も広い。しかしなぜ病院なのか、その疑念が拭えない。若葉は呉氏の後ろに着きながら、顎に拳を添える。ここは父が最後を迎えた病院ではない、父の遺品を受け取ったのはもっと駅に近い病院だった。では転院したのか、でもこちらの病院の方が大きい気がする。何より「がんセンター」の二つ名を持っていた、入院するならこちらが適していると思う。病院のあれこれは分からない、今日の歌もまだ見ていない、でも呉氏はここだと言う、いや言ってはいないジェスチャーで示したのだけれども。
(どういうことなのでしょう?)
呉氏は病院のロビーを抜け、エレベーターの呼び出しボタンを押した。勝手に入って大丈夫なのだろうか、若葉は少し不安を眉と唇に宿しながら周りを見るが、特に咎められそうな雰囲気は無かった。むしろ、看護師たちは呉氏を見ると、笑顔を浮かべて小さく手を振り挨拶していた。
(ぽーん)
エレベーターに乗る、呉氏は迷うことなく行き先階を指定し「閉」を押した。上下に動く鉄箱の中、居るのは呉氏と若葉のみ。微かにくらくらと揺れる鉄の箱は天を目指す。
(ぽーん)
一歩を踏み出す。思っていたよりも、フロアは自然光を取り入れて明るかった。エレベーターを降りるとすぐに窓。
「え?ここって…」
食品ディスプレイや券売機、どうやらここは病棟ではなく食堂階の様だった。なるほど、それなら入っても咎められないのが分かる、若葉は胸中で頷きながら呉氏の後についた。総合レストランと和食亭。呉氏は和食堂の暖簾を潜り若葉をいざなった。若葉が続く、まだ昼には早い時間ながら、営業はしている様だった。いらっしゃいませと声をかけてくるフロアスタッフ…いや店主だろうか、男性の声に呉氏は手で「ひとつまみ」の仕草を作って後にひらひらと振って応えた。若葉には、それは「ちょっと見るだけです」という意味合いだと分かるのだが、店員に伝わるだろうか、少し心配になりながらも若葉は呉氏に追従した。
窓際の小上がり手前で呉氏が手を招く。若葉が追い付くと、呉氏は「さあどうぞ」と言わんばかりに案内の手を差し伸べた。若葉は靴を脱ぎ座敷に上がる。窓の向こうには、先ほどまで歩いていた道と赤い建物、そして海が見えた。
「ここ…なのですか?」
ふるふる、呉氏は身体全体で否定した後、下を指し示し、歩く仕草を作り、最後に腕を交差してバツを作り出した。下の病室に入るのは、流石に駄目だと判断したらしい。では、本来は下の病室からの景色、それが歌の舞台なのだろう。ぱたぱた、本を開いて閉じる動作、歌の話が来た。若葉は背負ったキャンバスリュックからエンディングノートを取り出し、歌のページを開く。
呉氏が歌の一つを指さした。
【始まりと終わりを繋ぐ窓の中 背腹の痛みあと幾時かな】
窓の中、が今見ている景色なのだと若葉は理解した。背腹の痛み…父は膵臓癌で亡くなった、その症状は腰痛に似た背中の痛みだと、呉に向かう新幹線で調べて知っていた。やはり、父はここに入院していたのだろうか、入院中の景色を歌っていたのだろうか?死の気配を感じていたのだろうか。で、あるならば「終わり」はともかく「始まり」とは何なのだろう。後半…後半なのだろう、ちゃんと読んでいないし数えていないが、到達していない歌はあと二つだったと思う。後半になるにつれ、歌の中で「分からない」部分が増えていくのを感じる。
(江田島湾で探していた「君」、灰が峰の「産まれ」、そしてここの「始まり」、背はともかく「腹」の痛み。父さんは何を見て、何を追っていたのでしょう?)
小上がりの端に腰かけて靴を履く。立ち上がった若葉は、呉氏の目をじっと見つめた。少なくともこの歌は、「知って」いないと辿り着けない。歌には病院を表す、場所を示す言葉が無い、だとすると…。
「呉氏さんは…全部知っているのですか?」
呉氏はじっと固まったかのように動きを止めた。沈黙が流れる、厨房での調理…いや客が居ないので仕込みの音か、唯一の音が遠くに聞こえた。時として数え、十は超えなかったと思う、呉氏はゆっくりと小さく、頷いて見せた。人差し指を建てて「ひとつ」を示し、窓の外を指さす。
「あと一箇所、次に行くところで、分かる…ですか。」
こくこく、今度は大きく頷く。若葉は「ふー」と細く長く息を吐き、心を落ち着けようとした。「分からない」苛立ちが、表に出てきそうになっていると、客観視する自分が告げる。いけない、それは「良くない」と圧を掛けてくる。若葉と言う人間は、そういう行動をとってはいけないと、自身が自身を強く律する。
「分かりました。」
意識的に笑顔を作り、場に和を敷き詰める。そう、それで良いですと客観視する自身が告げ、なりを潜めた。クレの背中が前を歩く、次の場所に行くつもりのようだ。ちょいちょい、半身で振り返り呉氏が手で招く。呉氏の表情は変わらない。でも若葉には分かる、自分を気遣っている、力になろうとしている事を。それはこの数日で身にしみるほど感じていたはず。
【始まりと終わりを繋ぐ窓の中 背腹の痛みあと幾時かな】
そうだ、「終わり」が近い。明日納骨を終えたら東京に帰らなければならない。若葉はもう一度だけ窓側を見るとセルフォンを取り出し、望遠モードで外の景色を一枚写真に残し、呉氏の後を追うのだった。
*
九の句、了
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