第9話【八の句】灰が峰展望台

 山を削ったのであろう切り通しの谷間、比較的新しくそして広い道路を一台の原付が走る。道の端をとろとろと、時速三十キロ厳守。東の方面、下界が広がる。道の先に町がある、その先に海がある、そのまた先には呉がある。

 鉄馬を駆るのは桜色のスプリングコートを纏った女性、いや女性というには身体の線が細くその顔立ちにも幼さが残る、少女と呼ぶには丸眼鏡の通して道の先を見つめる視線の凛々しさが強い。天宮若葉、現在二十歳。疎遠だった父が遠く呉という地で亡くなり、エンディングノートの片隅に記された和歌の景色を追う。この原付もヘルメットもグローブも、その父が残したもの。


(もうすぐ小用の港ですね。)


 丁寧語で思考してしまうのは若葉の癖、自分自身をも客観視してしまう癖。五年前からの、癖。

 軍艦利根が着底した場所からおおよそ十キロ、陸路で帰ることに比べたら遥かに近い。それに、若葉自身あの瀬戸内海を渡る小さなフェリーに乗ってみたいと言う気持ちがあった。横須賀育ちの若葉にとって、フェリーといえば大型船の東京湾フェリーしか知らないのだ。

 坂を下りきり交差点で出番を待つ。少し先に駐車場だろうか右折の侵入路が見えた。その先に建つ、背は低いが大きな建物も。おそらくそれがフェリーターミナル。信号が変わり鉄馬は走り出し、フェリーターミナル前へと入る。案内路が幾つか、駐車場、バス、タクシー。


(あら?行けませんね。)


 袋小路、行き止まり、広いロータリーは建物の前で結び閉ざされていた。若葉は最深部に停まり、きょろきょろと辺りを見渡す。車両待合が無い、いやあった。歩道を乗り越えた先。どうやらここは徒歩乗船の客専用だったようだ。先ほどの交差点を曲がるのが、正しかったらしい。若葉は独り頷くと鉄馬のアクセルを捻った。

 信号まで戻り、より海に近い場所に出る。来てみて分かる、道の果てが切れて海に消えていた。あそこに船が付くのだと容易に想像できた。若葉は乗船待ちの車列、その後ろに鉄馬を停めるとヘルメットを脱いだ。周りにひと気なし、係員も居ない。とりあえず若葉はフェリーターミナルに向かった。やはりこちらからのアプローチは正しかったのだろう、建物の側面に入り口らしき物が見えた。中に入る、待合室と、小さな売店と、料金表と時刻表。船は割と高頻度で呉とやりとりしているよう。そしてフェリーと高速船、自分が乗るべきフェリーの時刻を確認して、若葉は券売機に向かった。


(安いです!)


 ひととバイクで六百円ちょっと、ひとだけなら公共バス並みの値段。ふねという巨大構造物の特性上、もっとかかるかと思っていた。紙幣を入れて、ボタンを押す。出てきた券を…食堂の食券のようだ…コートのポケットに仕舞い、若葉はバイクの元に戻った。ちょうど遠くから徐々に大きくなる船影が、見え始めたところだった。

 鉄馬の元で準備する。ヘルメットを被りグローブをはめて、後はセンタースタンドを下ろせばすぐに走れるように。フェリーが着岸すると共に、徒歩の客が倒れたコップから水が流れるように広がって行く。数台の乗用車がそれを追い越してすれ違っていく。係員の送り出す仕草が招く仕草に変わり、動き始めた車列に追尾していく。切符を渡して乗った、と思ったらすぐに動き出した。若葉はヘルメットとグローブを付けたまま、車両デッキ側面に肘を付いた、流れていく水面が近い。まるで自身が海の上を駆けているかの様。


(良いですね、これ。)


 あっという間の船旅だった。デッキの縁から水面を見ていたら…二十分も見ていない気がする…呉に着いていた。徐々に大きくなる丸屋根の塔を持つ建物が、呉側のフェリーターミナルだと初めて知った。スロープを下ろしながらの接岸。着岸と共に急かされる様におかへ上り、川沿いの道を進んでアンダーパスをくぐれば、見知った駅前大通りへと繋がる。

 何だろう、若葉は違和感を拭い切れずきょろきょろと辺りを見回した。さっきまで島の小さな…いや大きい方か…船着場に居たのが、気がつけば都市部のど真ん中。街並みの移り変わりや、橋などを境とせずに来るとこうも混乱するのかと自答して本通りを目指す。サイドミラーの付け根に取り付けたセルフォンに触れる。時刻はヒトゴを少し回ったところ、夜まではかなり時間があった。数日過ごして分かったが、関東より八百キロも西の呉では、夜は遅く来る。


(一旦、帰りますか。)


 帰ってからの身の振り方を夢想する。洗濯物を畳んで、軽く掃除して。夕食をどうするかも検討せねばと、若葉は予定を組み立てる。冷凍食品にも飽きが見えてきたことだし、買い出しに行くか、はたまたお惣菜かテイクアウトか、考え出すと止まらなかった。


  *


 空と街の空気が藍色に染まる。アパートの駐輪場はほとんど夜と言っても良い暗さと静けさ。若葉は二度目の出撃を果たすべく、鉄馬を押して公道へと一歩二歩。イグニッションボタンを押せば、空から沁みてくる夜に逆らう鉄馬の嘶き。茜を灯してまた本通りを走り出した。陽が陰ると、思っていたよりも風が冷たく感じる。


(逢魔時とは、よく言った物です。)


 昼と夜の境目では、道行くあれこれとの距離感が掴みにくくなっているのを感じる。緊張感を強めながら、若葉は慎重にアクセルを捻った。


【峰に乗り中見下ろせば宝箱 人行き生きて産まれ過ぎる】


 出発前、今日四つ目の歌を確認した。呉氏が指し示した歌は見る、そうではない歌は見ない。父を知りたいと思うと同時に、父を知りたくないと思う自分もいる。二律背反、客観視する若葉は「知り過ぎれば、今のままでは居られなくなります」と警鐘を鳴らす。だから、目の前の一句のみを見て、追う。

 休山トンネルを避けて使っていた峠道、その途中で山側に折れるよう、セルフォンのナビゲーターは道を示す。その交差点を曲がれば始まる住宅街の中の急勾配。九十九折りの山道ながら、その周りは普通の住宅街。中には斜面に柱を空に向けて刺し、かなり強引に建てたものもあった。


(土地が足りないと…こうして建てるのですね。)


 建築は専門外、しかし経済なら少し分かる。無理矢理家を建ててでも呉中心部に接していたい、そういった経済の中心がこの街にあるのだと理解できた。

 呉の他の山がそうだったように、唐突に住宅街は終わりを告げ本格的な山道が始まる。空に明るさは残っているものの、覆い茂る木々が一足早い夜をもたらす。空よりも足元の方が、暗い。


【灰が峰山頂 五.六キロ】


 案内の看板がでた所で、面舵九十度一杯。更なる鬱蒼とした森の中へと入っていく。見通しは悪く、鉄馬が照らす光筋では極一部分しか見えない。そして勾配の増加と、道の狭さ。野呂山の勾配と、十文字山の道幅を合わせたかのよう。なるほど、呉氏は「段階がある」…もしかしたら「順番がある」かもしれない…と言っていた、たった一度の経験でも積んでいるといないとでは大違い、ここはあえて近場ながら後に持ってきたのだと分かった。


(これはちょっと、怖いですね。)


 五キロの道のりは想像以上に遠かった。十文字山以上の回り道、落ち葉は道の端と中を埋め、作り出す轍は道を更に狭くさせる。安全のため、メーターは二十を下回る。カーブの度に徐行寸前まで速度を落とし先を見極めてから進むため、更に足取りは重くなる。

 三十分近く走ったか、ほんの少し森が開け空が見える様になった。藍色の屋根が送る昼の残滓が道を浮かび上がらせ、その存在を教えてくれた。道中一番の急勾配を抜けた先、唐突に道が終わりを告げた。行く先には白い…夜に染まって自信がないが、おそらく白であろう建造物が道を塞いでいた。その隣に球形のドーム、レーダーだろうか。若葉はその手前、横に広がったスペース、線が引かれているので多分ここが駐車場だろうと思われるスペースの隅に鉄馬を停めた。勾配を持つ場所でのスタンド建ては勝手が違い、若葉は少し困惑した。先達はなく、若葉の原付のみが居る、独りだけの山頂。

 装備は外したが、襟元は緩めない。出発した時よりも少し気温が低い気がした。何となく地面を見ながら、山の下を街を見ないように歩く。


【峰に乗り中見下ろせば宝箱 人行き生きて産まれ過ぎる】


 時間と場所が分かっていたから、歌の意味は予想できた。夜景が宝石の様にきれいだったのだろう、なら若葉は展望台まで我慢する事にした。背の低い二階建ての展望台、その階段を上る。街の方の柵まで、手で庇を作って歩み寄る。弾着…いま、庇を退けて下を見た。


(…凄い、です!)


 想像以上の光景が広がっていた。僅かに残った赤紫が江田島の輪郭を浮かび上がらせ、街は虹色の輝きを纏う。本通りと蔵本通りがくっきりと光の道となり、道行く乗用車の入りと出の黄と燈が動くのが分かる。一つ一つが人の営み、何千何万もの人々が描き出す光の絵画。若葉はエンディングノートを取り出して、セルフォンのライトで照らして見た。


【峰に乗り中見下ろせば宝箱 人行き生きて産まれ過ぎる】


 呉中心部を宝石に見立てた歌、人々の営みこれが「生まれ」なのか、ではなぜ「産まれ」の字も当てたのか。少しずつ父のことが分かると共に、分からない父も増えていく。他の場所と同様、記念に一枚セルフォンで写真を撮った。

 展望台の階段を踏み締める音に、若葉は振り返った。呉氏かと思ったが、違った。観光客だろうか?女性の二人連れ、そのシルエットはあまりにも対照的だった。一人はパンク風の女性…いや女の子と言ってもいい年頃に見える。自分と同じか少し下か、ダメージドのTシャツとショートベスト、そしてデニムが作るシルエットが、女性であることを強烈に主張している。一言で言えば、若葉よりも女性らしい体型をしていた。もう一人は白の、暗いためはっきりしないがもしかしたら少しバイオレットが入っているかもしれないワンピース姿。場所を譲る形で一歩横に退く。


「下の原付、嬢ちゃんのかい?」


 唐突にパンク風の女性に声をかけられ、若葉は驚嘆の「はい!」か肯定の「はい」か分からない声を上げてしまった。発音でいうなら「ひゃい」に近い。ただ、それでも意は通じたのか、パンク風の女性は少し考えるように顎に指をかけ、ワンピースの女性は「ちょっと待ってね」と手で若葉を制した。


「あー、この辺夜たまーにガラの悪いの湧くんだ。俺たちすぐ済ますから、駐車場まで一緒しないか?」


 同伴の提案だった。確かにこんな街から遠い袋小路で絡まれたら、対応のしようが無い。若葉は改めて二人を見た、格好の派手さに反し、パンク風の女性は…ワンピースの女性もだが、武道でも嗜んでいるのか所作の一つ一つが力強く、頼り甲斐がありそうに見えた。


「ありがとうございます、よろしくお願いします。」


 若葉は胸元で拳を握り、頷くように会釈した。二人は若葉の反応に満足したのか、軽く手を挙げて展望台の柵に向かった。柵に両手を付き、思い切り息を吸って空を見上げ「ぷはー」と吐いてみせた。それを二回繰り返して、街を静かに見つめる。街を見つめる二つの影は何処か誇らしげで、絵になると思った。

 祈り…祈りに見えた儀式は、本当に「すぐ」一分ほどで切り上げられた。


「俺ら地元だけど、ここでああやるとヤル気が出るんだ。」


 パンク風の女性は頭の後ろで手を組み、少し照れ臭げに笑った。ワンピースの女性も「補充って感じよね。」と同意の笑みを浮かべた。三人が並んで駐車場に向けて坂を下ると、暗がりの中に浮かぶ「呉」の文字。


「呉氏さん!」


 青の部分は夜陰に溶けており、先に気づいたのは若葉の方だった。若葉は二人より前に出て手を振ると、呉氏も同じように手を振り返した。


「あら、呉氏待ちだったの?」


 ワンピースの女性は頬に手を当て、目の前の光景がごく当たり前であるかのように振る舞った。パンク風の女性は呉氏に「おめ、女の子一人にさせんなよ呉氏。」と、指差し詰問。 突然詰められた呉氏はわたわたと手を振り、何度もパンク風の女性に頭を下げていた。


  *


『呉氏がついてるなら安心だ。』


 そう言い残して、二人はワゴン車に乗って去っていった。呉氏は、若葉の原付の側に止めたシティサイクル…所謂ママチャリに片手を乗せてサムズアップを送っていた。ここまで自転車で来たようで、また若葉を下まで送るつもりらしい。あの斜度なら自転車でもかなりの速度になるはず、それは原付に劣るものではない、同行として心強いと、若葉は想像した。


「明日は、どうしますか?」


 呉氏は自転車から手を離し、両手で輪を作り下から上へ送る、若葉と自分を指差して、歩く様なジェスチャーを送った。ふむ、若葉は顎に指を当てしばし思考の海に櫂を入れた。


「明日の朝、迎えに来てくれる、で合っていますか?」


 丸は太陽の動き、指差しと歩きは邂逅と解釈した。こくこく、呉氏は両拳を上下に振りながら頷いてみせた、正しかったようだ。若葉はわかりましたと相合を崩し。鉄馬の蓋を開けて旅の準備を始めた。呉氏は自転車のスタンドを上げてカラカラと押し、駐車場前で跨り若葉を待った。


「行きましょう。」


 自転車に取り付けられたLEDのライトと、鉄馬のハロゲンライトだけが世界を照らす。呉氏の速度管理とライン取りは完璧で、この道を熟知してるかのよう。若葉は普通に加減せずに、自分の実力で走っても追い越すことはないと、安心してその背を追うことにした。よく見るとカーブの手前で減速する時、きちんとハンドサインを送っておりタイミングを合わせて減速しカーブに入ることができた。森の向こうに見える呉の街、その灯りが少しずつ近づいてくるのが分かる。


(何だか、楽しいです。)


 息を合わせて操舵する、まるでダンスを踊っているようだと若葉は思った。いや、そもそもダンスを踊ったことは、学校の課題以外で経験はないのですけれども、と若葉は脳内で自身にツッコミを入れた。

 上りの時の半分位の時間で、住宅街入り口の丁字路…西畑まで戻ってきた。呉氏は、信号の停止線より遥かに手前で停まり、片足を付いた。ちょいちょい、右手で送り出す仕草。ここからは先に行けと言うことらしい。確かに、本通りに入って仕舞えばシティサイクルより、いや所謂ママチャリより原付の方が速い。若葉はブレーキを緩め、坂が背を押すのに任せて鉄馬を進め、呉氏に並んだ。


「ありがとうございます、呉氏さん。じゃあ、また明日!」


 こくこく、頷いて手を振る呉氏を前に、信号が青に変わった。若葉はもう一度会釈すると鉄馬のアクセルを捻った。面舵一杯、鉄馬は呉中心部に向かう光の中に混ざり、宝箱の輝きの一つとなって溶けていくのだった。


  *


 八の句、了

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