第8話【七の句】群青の道(江田島湾)
緑に囲まれた道を鉄馬が駆ける。ただし、車道の端を時速三十キロちょうどの低速。低排気量の黒のスクーターでは、これが限界。時折後ろから迫る乗用車に抜かされながら、北を目指す。鉄馬を駆るのは桜色のスプリングコートを纏った女性、いや女性というには身体の線が細くその顔立ちにも幼さが残る、少女と呼ぶには丸眼鏡の通して道の先を見つめる視線の凛々しさが強い。天宮若葉、現在二十歳。疎遠だった父が遠く呉という地で亡くなり、エンディングノートの片隅に記された和歌の景色を追う。この原付もヘルメットもグローブも、その父が残したもの。
(この先、藤脇の町を直進ですね。)
丁寧語で思考してしまうのは若葉の癖、自分自身をも客観視してしまう癖。五年前からの、癖。
森の中を切り拓いた、比較的新しい道。緩やかな上りと下りを繰り返す道。倉橋島を縦断する県道三十五号は、バイパスのような役割を持っている、と若葉は理解していた。集落と集落を効率よく繋ぐため、何もないエリアを切り拓いた。故に道幅は広く、カーブも緩やかで走りやすい。
藤脇の町に入った。右に曲がれば戻る道、今度は直進を選ぶ。左手の方が町の色が濃い。この面から見ても、この道が町の外側に作られたものだと分かる。しかし導線となってしまうが故に、その道沿いに発展が始まってしまうところが経済の面白いところだと、若葉は口元を綻ばせた。
山が、いや島の壁が近づいてくる。しかし町から離れても、道沿いには住宅や商店が薄く存在する。やはり、名実共に倉橋は大きな島なのだ。また集落が始まる。海に浮かぶ筏に、岸へ寄せられた漁船。瓦屋根を持つ時代を感じさせる家々の隙間から、巨大な構造物が見えてきた。それが、江田島に渡す薄水色の早瀬大橋。橋目前の信号待ち、右折レーンの後ろにつく。若葉は手で庇をつくり橋を見上げた。
(この橋は特に大きいですね。)
対向車線を見る、何台もの車が左の指示器を出していた。あちらも多くの車が橋を目指すようだ。右折レーンの最後尾と言うことは、江田島に向かう車列の最後尾でもある。信号が変わり坂道を登る。鉄の箱達は我先にと視界の中で小さくなっていく。他の島に比べて交通量が多く、賑やかな島渡りになった。橋の中央、青い看板を潜った、看板には「江田島市」と記されていた。坂を下るとすぐに、集落の賑やかさが始まる。オリーブファクトリーの看板、そういえば桂浜の売店で見た気がする。この辺りの名産なのだろうか、オリーブの実の塩漬けを添えたパスタを夢想し、また料理欲に呑まれそうになった若葉は慌てて首を振る。気持ちの向きを切り替えて周りを見た。道は昔からの広くない道、しかし周りの賑やかさはかなりのもので、遠くには学校のような建物も見えた。この島は一つの「市」、必要な施設は全てこの島にあることになる。
しばらく走ると道は海沿いから離れ内陸を行くようになる。住宅と商店が混在する町の中、青看板が丁字路を教えてくれた、島の東西左右への分かれ道。ちょうどそこにコンビニを見つけた若葉は、右の茜を灯して鉄馬を白枠に入れた。ここまでの道は狭く、立ち止まる余裕がなかった。もう、島の南から三分の一は来てしまっただろうか、そろそろ歌の場所を特定したかった。
(その前に)
若葉はグローブを脱ぎシートの上に乗せるとコンビニの中へと入っていった。花を摘み、ミネラルウォーターを補充した。まだ一本目の中身は残っていたが、使用料代わり。その追加の水をシート下に仕舞い、若葉はキャンバスリュックからエンディングノートを取り出した。身体が覚えてきた、後ろの方の歌のページを開き、今日三つ目の歌を指差した。
【とねど無く蒼凪碧風の声 果て見渡せど君見つからず】
変な歌だった、「とめど無く」ではなく「とねど無く」誤字かと思ったが「め」と「ね」を間違うのは難易度が高い。「青凪碧」はなんとなく海を表してそうに思える、若葉はセルフォンを取り出した。「江田島 海」で検索してみる、海水浴場がヒットした。若葉は小首を傾げた、何か違う気がする。そもそも江田島は海に囲まれている、キーワードが良くない。それに、桂の滝がそうだったが、父は文字で遊ぶきらいがある。「江田島 とね」で検索、「利根公園 江田島市」が一番に表示された。その下、市観光協会のホームページを見てみる。軍艦利根が、江田島湾で大破着底した場所。この場所から北の山を挟んだ場所、地図によると左右どちらに行っても到達できそうだ。ここなのだろうか、若葉は地図をナビモードに切り替えた。ナビは、僅かに近いと右の道を行くよう矢印で示した。
*
海沿いを走り、また内陸に向いていく。江田島を「Y」に例えるなら、三線が重なる所を目指している。少し開けた場所にでた、長い直線。このまま行けば江田島湾の最奥に触れるはず。ふと、若葉は視界を過った文字を追った「大豆うどん」「豆腐」「大豆製品専門店」…食事処だろうか、柵と幟の向こうに古風な、いや古風を模した建物が見えた。そして…
(鬼ですか!?)
鬼が居た。威風堂々、柵の向こうに守護者然として立つ。若葉は右の茜を灯して鬼と対峙する事にした。出発してから数時間、時計の針は二針共頂点を指そうとしていた。
(桃太郎…は岡山だったはずです、江田島が鬼ヶ島だったのでしょうか?)
鉄馬を停めて装備を外す、店の前にもまた鬼のパネルが居た。幟と屋号を見る限り、豆料理とうどんを給する店だろうか。若葉は恐る恐る白暖簾を潜った。少し混雑した店内、お土産屋と食事処が混じったような雰囲気、豆料理のお土産、壁からぶら下がるうどんのメニュー。
(これは、安いですっ。)
大体一杯四百円程度、食の太くない若葉にとってちょうどいい量と値段。人の流れと、店内の構造を追う。どうやら食券を購入して、出来上がると呼び出される方式のようだ。若葉は券売機に並ぶ人の後ろに着いた。
券を渡し、席を取る。目印代わりにタオルハンカチを置き、セルフサービスの冷水を取りに行く。あまり外食はしないが、この雰囲気は何だか気に入った。古民家風、だからだろうか。暫くして、若葉の持つ呼び出し機が鳴動した。
「いただきます。」
軽く手を合わせて頭を下げる。頼んだのは「大豆うどん」一応、この辺りの郷土料理のような位置付けらしい。透き通った黄色いお出汁…関西であることを思い出させる…太めのうどん、煮炊きした大豆がどっさりと器の一角を占める。ずぞ、うどんを手繰り、丼を持ち上げ汁を一口。
(甘いです!)
元々甘めの味付けである出汁に、大豆自体の甘味が加わってかなりの甘さ。澄んでいるが、豆乳スープのような味わい。体験したことのない味に、若葉の目は開かれ輝く。なるほど、これが旅の醍醐味か「全く知らない味」に出会う、これは美味しく、楽しい。若葉は暫く、小麦と大豆の邂逅を楽しんだ。
南中高度の陽を受けて、黒い鉄馬は燻んだ煌めきを放つ。再び直線を走り始めた若葉と黒い原付は、急激に賑わいを強める町を走る。ファミリーレストランがあった、携帯ショップがあった、大きなガソリンスタンドがあった、大きなスーパーがあった。この賑わいは導線か、若葉はこの辺りが町の中心かと推測した。いやでもそうなると、公的機関が足りないかと自身の推測を即座に修正する。
唐突に町の賑わいが消えた。丁字路、そして海。江田島湾の最深部に触れた、左の茜を灯す。眼前には小さな広場に一本の木、どうやらオリーブの木らしい。やはり、この島にとってオリーブは特別な様だ。信号が変わり、鉄馬は咆哮を上げる。町の色は商から住に変わり、それも徐々に緑に呑まれていく。気が付けば森の中を走る道、海は右手に並ぶ住宅や工場の隙間から微かに見えるのみ。道は大きく上り、大きく下る。リゾートホテルの様な建物を掠める。次の集落が始まりそうな雰囲気の中、セルフォンのナビゲーターが右折を指示した。
(ここ…ですか?)
住宅が見えた、その横を通る凄く狭い道。その先に、公園があるのだろうか?若葉はゆっくりとアクセルを捻った、徐行と言っても良い速度で走る。道沿いに並ぶ民家から誰かが飛び出したら対応できないからだ。更に道は狭まる、軽自動車一台がやっとという感じだ。その先に、検索した時に見た写真の、石碑が見えた。道の反対側、堤防のそばギリギリの所に鉄馬を停めて、若葉は石碑を見に敷地へと入る。公園とは思えない、むしろこの碑を参るための参道のようにも見えた。「戦没者慰霊碑」その文字が若葉の背筋を伸ばさせる。砲弾を模したような柵柱、山と積まれた供物。若葉は手持ちの小銭を少し、賽銭箱に入れ碑に頭を下げた。
碑の脇から奥へと進む、どうやら裏の建物は資料館らしかった。開いていないのか玄関前に記帳台だけが人を待つ。その前は広い駐車場、こっちに停めれば良かったと若葉は淡く悔いる。しかし何だか駐車場全体が斜面を持ち、原付を停めるのには適してないように思えた。岬状となったここが終端らしい。
(…どこに「蒼凪碧風の声」があるのでしょう?)
ここから見る海の光景は良いものではあるが、絶景というほどではない。若葉はなんとは無しに小さな橋のようなものに寄ってみた、その先が緑地公園のような感じに見えた。橋の隣、下に続く階段があることに気付いた。階段からその先の砂地を目線で追う。その先に立つのは良く見知った青くて四角い姿。
「呉氏さん?」
階段を降りた先は、引き潮のためか砂地の地面が広がっていた。地から滲んだか、細い水の線が砂を割り極々小さな川を作る。その先で呉氏が若葉に向けて手を振っていた。若葉は手を振り返しながら恐る恐る階段を降り、砂地に一歩を刻んだ。水を多く含む砂は、若葉の体重を支えつつも、少しずつ少しずつ沈んでいく。若葉は長居は出来ぬと、ひょい、ひょい、と千鳥足に近い足捌きで歩みを進めた。
川の向こうで…幅は一メートルを超えるかどうか…呉氏が手を差し伸べていた。若葉はその手を取ると、何度も手元と足元を見比べて「えい!」と砂を蹴った。タイミングを合わせて呉氏は手を引き、若葉を受け止めた。
「あ、ありがとうございます。」
落ちたとて、足首までを濡らす程度の小さな流れ、命を脅かすことはないものの、ちょっとした冒険に若葉の律動は早鐘を打つ。呉氏は一歩二歩進み、案内の手を伸ばした。
「これは!」
砂の道の先に小島が二つ並んでいた。人が住めるような広さは無く、岩と言っても通じる大きさ。しかしそこには僅かに樹々が茂り、緑と岩の境が満潮時の水位を教えてくれる。そしてこの島が特別なものである事を、砂道の先に繋がる鳥居が教えてくれた。拝殿の類は見えない、あの島かその隣の島そのものが神域なのだと若葉は理解した。呉氏に続いて砂道と岩道を歩く。鳥居を前にして若葉は脚を揃えゆっくりと頭を下げた
神域の周りを見る、その後ろには潮が迫って来ているように見えた。呉氏は両手を広げてくるりと回ってみせた、ここが世界の中心であると示すかのように。若葉は倣ってゆっくりと、岩場から脚を崩さないように気を付けながら、回る。蒼い海、凪いだ海、その彼方に森の碧、湾をいく風は穏やかで、囁くように遠くの葉擦れの音を伝える。道路から、民家から、リゾートホテル風の建物からさほど離れていないのに、ここだけとても静か。
「ここ、なのですか?」
こくこく、呉氏は頷くと「通じた」事が面白いのか、テンション高めに出鱈目な踊りを踊りはじめた。
「とねど無く蒼凪碧風の声 果て見渡せど君見つからず」
反芻する様に歌を詠んでみる。とね…利根の着底したそば、とめどなく溢れる青く凪いだ海と碧、そして風の声。果てを見回しても君は見つからない。君とは誰のことなのだろうか、それだけが分からない。若葉は三方の果てを眺めながら「君」に想いを馳せた、父は誰かをこの地で探していたのだろうか。
*
二人砂道を戻る、潮は神域を守らんと徐々に追い立ててくる。ひょい、呉氏が足取り軽く細川を越え、振り返り手を伸ばす。若葉も「息」がわかって来たのか、その手を取り舞うように跳ぶ。階段に一歩を踏み出しながら、若葉は振り返った。神域前の岩道はもう、蒼に呑み込まれつつあった。
駐車場に若葉の原付が無い事に気づき、呉氏は首を傾げていた。若葉は「こっちです」と慰霊碑脇の道を先行した。堤防沿いに停められた若葉の原付に気付くと、呉氏は嬉しそうにパタパタと両手を舞わせた。原付のシートにキャンバスリュックを置き、若葉はエンディングノートを開いた。呉氏はノートの一端を指し示すと、呉中心部の方向を指差した。今この場の地面を指差し、呉方向に弧を描き、そして人差し指を立ててみせた、「一」。若葉はその仕草を意図的に目で追い、小首を傾げて思考の海に櫂を入れた。次の歌は呉中心部方面、その一は何を?明日は一句だけか、それは少ないと思う。まだ歌は何句か残っている。「一」が示すもの…。
「今日、もう一句追う、という事ですか?」
我が意通じたりと、嬉しそうに呉氏は激しく頷いた。そして両手で丸を作り西の空に掲げてみせ、その丸を全身で地に落とす。若葉は呉氏の横に並び、その丸の動きを追った。西の空に浮かぶのは、ほんの少し黄色が混じった光を注ぎ落とす唯一無二の存在。それが地に落ちるということは。
「日が暮れてから行け、という事ですね。」
こくこく、呉氏は左手を何かを保持するような掴み手を作り、右手の指で操作する様な仕草を見せた。セルフォンを出して、という事の様だ。若葉はスプリングコートのポケットからセルフォンを取り出し、地図アプリを表示してみせた。江田島のY字が映る。呉氏はその一角をズームアップしてみせた、江田島の東その一部。小用と表示された場所から、点線が東に伸び、その先は呉に繋がっていた。
「あ、ここから船で呉に戻れるのですね!」
海をぐるりと迂回して帰れば、ここから三十キロを超えるだろう。原付に慣れて来たとはいえ、それなりに疲れる行程を省略出来るなら、何て楽な事だろうと若葉は思った。呉市の指が更に地図の上を走り、呉中心部を映した。とん、一点を叩くと赤いマーカーが灯り、ガイド情報が画面下部から迫り出した。
「灰が峰展望台…ここですか。」
ここなら一日目二日目の帰りに寄れただろう、でもそれをしなかった事にはおそらく意味がある。前に呉氏は「段階がある」みたいな事を言っていた。だから今日行くべきなのだろうと、若葉は自身の中で決を固めた。
「分かりました。今日、この後行ってみます。」
あえて「今日」と強調してみせた。こくこく、呉氏は頷いて返した。若葉はノートを仕舞い、リュックを背負う。ヘルメットを被り、グローブを絞める。纏うごとに旅のスイッチが入るのを自覚しながら、若葉は鉄馬のイグニッションボタンを押した。キュルルと吠えて、鉄馬が目覚めた。
「では、行ってきます。」
呉氏が手を挙げた、若葉はその掌にハイタッチすると体重を前にかけてセンタースタンドを下ろした。車体を傾けてアクセルを捻る、百八十度回頭を果たした鉄馬は、細道を抜け島を周遊する県道に出た。そして江田島の東端を目指して江田島湾を迂回するべく、湾の奥へとその姿を森の中に埋めて行くのだった。
*
七の句、了
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