第7話【六の句】桂浜(桂濱神社)
夕陽のような橋を目指して、黒い鉄馬が斜面を登る。勾配はやや急、排気量の少ない原付にとっては手強い相手。鉄馬を駆る桜色のコートを着た女性は、アクセルを強く捻る。悲鳴にも似た嗎を上げ、速度低下が止まり微加速しながら鉄馬は走る。切り通しの様な谷間を行くと、周りには白と赤の花々が迎えてくれた。つつじの並木が道を覆いループを描く。明るい春のトンネルを抜けると、陽を模した橋に乗る。落日の中を、黒い鉄馬が走る。
鉄馬を駆る女性…天宮若葉、年齢二十歳。大人と呼ぶには線が細く顔立ちに幼さが残り、少女と呼ぶには道の先を見つめる眼差しの凛々しさが勝る。丸眼鏡は朝の光を受けて輝き、風に身を任せる束ねた後ろ髪は、文字通り馬の尻尾の様。自らが産み出す風と、音戸の海路を抜ける風が合わさって尻尾は激しく揺れた。やがて道は下りに変わる、若葉の目には巨大なコンクリートの塊にしか見えない。急激に高さを落とすために作られた三重ループの高架、その角度と回転半径はペーパードライバーにして原付初心者の若葉にとっては難所。どれくらい速度を落とせば良いのか、どれくらい車体を傾ければ良いのか分からず、微かに蛇行する。
(これは、厳しいですね。)
丁寧語で思考してしまうのは若葉の一つの癖、自身を客観視してしまう癖。バックミラーに映る後続車のプレッシャーに耐えながら、一周二周。漸く地が見えたと思ったら急に塞ぐ赤信号、慌てて両手を握り、停止と共に両足を付いた。傾斜が産み出すベクトルは、車体を円の中心へと呼ぶため、内側の足に力を入れて抗う。
(下り坂は苦手です。)
信号が青に変わり先行車が動き出した。黒い鉄馬は重力を初速に変えて、また走り出した。古い町の中、海沿いを行く。すぐそこが海だが、他の島とは違い堤防が厚く少し安心感が強まった。しばらく進むと、海から離れスーパーマーケットが見えた、一応営業しているようだ。若葉は左の茜を灯してその駐車場へと入った。
(補給、しませんと。)
若葉はキャップヘルメットを被ったまま店内に入った。くるり、天井を見まわし冷蔵庫を探した。見つけた、若葉は立ち並ぶペットボトルから、関東では売っていないモデルのミネラルウォーターを手にした。昨日御手洗まで行ってみて分かったが、途中で水分補給するのが意外と難しい。たまに自動販売機を見つけることもあるが、確実性に乏しい。ならば常に一本保持しようと言う算段。
会計を済ませ、ペットボトルをキャンバスリュックに仕舞うと共に、エンディングノートを取り出す。待たせている鉄馬に跨がり、コートからセルフォンを取り出した。
今日の句、その中の二つ目の歌を指でなぞる。
【海神を祀る白浜桂なく 松葉払いて登る重さよ】
かいしんなのか、わたつみなのか分からない。文字数は同じ、どちらでも良い気がする。「白浜」…セルフォンで「倉橋島 白浜」で検索。倉橋島の更に先、鹿島が一つ目にヒット。その他は旅のブログだろうか、そして「桂が浜」の文字。
(これは…?)
歌にある「桂なく」が引っ掛かる、これまでの歌にも場所を示唆する語が入っていた。「倉橋島 桂が浜」で再度検索、「とても美しい、渚百選の浜」という文言が表示された。
(ふーむ、ここみたいですね。)
若葉は検索結果から地図アプリに切り替え道のりを確認した。ここからしばらく海岸線を走り、島を横縦断して南の方へおおよそ十五キロ。道の具合は分からないが、行って行けない距離では無い。若葉はセルフォンをロックするとコートのポケットに仕舞い、鉄馬を起こした。
*
時代を感じさせる町並みの中を走り続ける。やはり、倉橋島は大きな島なのだろう、集落が途切れたと思ったらすぐ次の集落が始まる。繋がっていると言っても過言では無さそう。その集落を繋ぐ海岸線の道は細く、おそらく島の端に無理やり増設したものに思えた。堤防の隙間から、下に降りる階段が見えた。眼下には小規模な白浜が広がり、釣客が竿を海に向けて降っていた。朝の光を受けて輝く海面が眩しい。
(眼鏡の上から着けるサングラスが欲しいところです…あ、いえいえこれ以上の出費はダメです。)
海に影が見えた。水深が浅いのだろう、何か棒の様なものが幾つも、それこそ百を超える数が突き刺さり空を向いていた。海苔か、それとも牡蠣か、海産が専門ではない若葉には分からなかった。分からずとも、この光と空気の中を走るのは楽しいと思えた。
幾つもの海岸線と、幾つもの集落を抜けた。道は海から離れ住宅の間を抜ける様になる。空は広く遠く両脇に森らしきものが見えた。緩やかな上りが、島を横断しているのだと教えてくれた。
道は緩やかな上りから、緩やかな下りに変わる。空の広さに変化が見られた、更に広くなり、道の先に緑が消えて大きな集落に行き着く。セルフォンのナビゲーションと頭上の青看板は、集落を避け左に行けと矢印を示していた。左折、また森を目指す上り坂に変わる。数分走ると、若葉は道の変化に気付いた。
(道が、すごく広いです。)
森を抜け、山を超える充分な広さを持った道。直線…ではないが余裕のある道。若葉は「地理は専門外ですが…」と暫し思考の海に櫂を入れた。これまでの道が狭いのは、平地が少なく狭い事から、住宅や商店を優先させたため。この道は住商の気配が少なく、周囲にはあまり構造物がない。おそらく、集落と集落を結ぶために近年作られたもの。だから乗用車に配慮して充分な広さと余裕を持った直線に近い道になったのだろう。
坂を下りいくつかの十字路を過ぎ、また道は海沿いに変わる。宇和木…うわきと読むのだろうか、小さな集落を掠め、その行き先は山を目指し森を抜ける急な登りに変わる。急激な緑の増加、風の香りが変わった。それは森の深さを示していると、若葉は言葉を使わずに思い浮かべていた。
(ん!)
行き着く先に黒、若葉は緊張感を背に感じていた。トンネル、それもかなり長いトンネルに入った。若葉にとってトンネルは苦手と言って良い存在だった。まず、道の端を走ると圧迫感が強い、広さがないので後続追い越し車のプレッシャーが凄い。近眼…は関係ないかもしれないが、トンネル突入時周りが見えなくなるのが怖い。原付の小さな灯りが示す先はよく見えず、何かを踏んでしまうのではないかという不安に晒される。
(良い点が何もおもいつきません。)
眼前に点から始まった白は、詮無いことを考えているうちに大きくなっていく。町境の長いトンネルを抜けるとそこは…と名作の一編を心で言葉にしてみる。抜けると、そこは…。
「わぁ!」
大きな町を見下ろす高台に出た。スピードを上げ坂道を下る、その先には蒼と碧の海が広がる。町と町を繋げる後からできた道、その集大成がこれだろうと推測した。予測通り、坂を下ると急激に道幅が狭まり、町の入り口へと半ば強引に繋げられる。信号待ち、ここから先は時を多く背負った町。
直進すると海に突き当たり、強制的に海沿いを行く道に変わった。食事処と釣具屋、そして波止場に並ぶ数多の漁船が、この町が漁業の町であることを教えてくれた。セルフォンの表示を見る、目的地まであと三百メートル。
「温泉、ですか?」
セルフォンのナビゲーターが「この辺りが目的地です」と沈黙した時、目に入ったのが「温泉」の看板だった。取舵いっぱい、鉄馬の向きを変え施設の駐車場へと踏み入る。バス停、枠の多い余裕のある駐車場、そしてほのかに香る湯の匂い。
(ああ、温泉!温泉があると最初に調べておけば!)
現在肌着下着の余剰、無し。タオル無し、朝使って洗濯して干したまま。化粧セット、あり。朝調べていたとしても、装備が足りていないことに気付き、若葉は肩を落とした。温泉なら貸しタオルの類があるはず、でも今少し汗ばんだ肌着下着を再着用するのも抵抗がある。むー、と少し唇を尖らせて暫く考えたのち、若葉はとりあえず温泉施設を見てみる事にした。入るかどうかは値段なり施設なりを見てからと、ヘルメットとグローブをシート下に仕舞い、ガーゼマフラーを外し同じくシート下の収納に収めた。歩き始めながら、コートのボタンを一つ二つ外す、時速三十キロの風にさらされても寒くない様調整した格好は、歩くとすぐに暑くなるからだ。
入り口側には宝船だろうか、木製の模型が置かれているのがガラス越しに見えた。すーん、微かな駆動音を上げて自動扉が開く。
(まあ!)
若葉は眼前の光景に目を輝かせた。一階、物販コーナー。お土産類だけでは無く、野菜や乾物が並ぶ。ちょっとした個人商店規模の売場。若葉は温泉の事を忘れ、売り場のラインナップに釘付けとなった。あくぬき済みの筍、朝取れの春キャベツ、山菜詰め合わせ、新鮮椎茸盛…ここ暫く冷凍食品や持ち帰りのお惣菜ばかり。気付かず若葉の中の「料理をしたい」というフラストレーションが溜まっていたようだ。お土産コーナーの島レモンドレッシング、牡蠣のオイル漬け缶詰。若葉の脳裏に自宅の台所が浮かぶ、春キャベツを千切って敷き詰めてさっと湯掻いた山菜と椎茸を刻んで乗せる、そこにオイル漬け牡蠣を乗せて仕上げに島レモンドレッシング…サラダ兼おかず、筍は炊き込みご飯にして…。蕩ける様にうっとりと春の幸フルコースを思い浮かべ、若葉の頬が微かに朱を宿し、微かに眼が潤む。はふ、上気したため息を吐くと共に、無意識のうちに野菜たちを抱き抱えていた。
(ぽんぽん)
若葉は肩を叩かれ我に返った。ぱちくり、強く瞬きを二度三度、誰かに後ろから呼ばれたことを漸く理解して、若葉は振り返った。視界を埋める、青。そして、まん丸お目目と眼が合った。
「く、呉氏さん。」
やほー、とでも言うように呉氏はひらひらと手を振った。そこで若葉は自分の抱き抱えるものに気付き、照れ笑いを浮かべながら一つ一つ売り場に戻して行った。すっかり当初の目的を忘れていた、温泉がでは無い、歌追いと言う目的。それに、あと数日しか滞在しないのに、食器も無いのに、東京へ持ち帰る鞄の余裕もないのに、何をやっているのかと自省の念に囚われる。
必死に平常心を呼び起こし、深呼吸を一回二回、二拍吸って八拍吐く。
「ありがとうございます、呉氏さん。」
呉氏が身体全体を使って小首を傾げてみせた。ありがとうとは?と問うように。違う違うと若葉は手を振り、お疲れ様ですと訂正して会釈を送った。
結局若葉は、駐車場代のかわりにと牡蠣のオイル漬けを一つ購入した。
*
温泉施設を出て横断歩道を渡り、二人は元来た県道を歩く。歩道はないので白線ギリギリの所を縦列となる。少し進むと小さな石造りの橋があった。道沿いに水路が延ばされており、ここを渡らないと海岸に出られないようだった。太鼓橋、と言うのだろうか、短距離の上りと下りを二人並んで渡る。
「わぁ。」
目の前には大きな鳥居が聳えていた、白砂に隠れる石畳があった。若葉は石畳の上で振り返った、太鼓橋の先ひとふたまわり小さな鳥居と社に続くのであろう石段があった、つまりここは。
「ここが参道なんですね。」
一の鳥居の向こうには大きく開けた海が見える。呉氏は海に向けて手を伸ばした。先にあっちを見ようととでも言いたげだ。若葉は頷くと、青い背中に追従する。鳥居を潜り、松林を抜けると、光が…弾けた。
いっぱいに広がる白、砂浜の向こうは海の碧。碧が視界の端で島の森に呑まれて緑。春霞の向こうにはうっすらと沢山の島影が見えた。
「綺麗…です。」
なるほど渚百選に入るはずだと若葉は誰へとも無しに大きく頷いた。以前暮らしていた横須賀でも砂浜を持つ海岸はあったが、鉄を多く含む砂は黒く、深さをもつ海は藍色に近かった。ここまで光を放つ海岸を見るのは、初めての事だった。ざざ…ざざ…瀬戸内海だからだろうか、控えめな波が曲を奏でる。ゆっくりと見回してみる、大型犬を連れて散歩するひとと、遠くの方で走り込みだろうか、砂を巻き上げながら走る少女の姿が見えた。若葉はセルフォンを取り出し、浜の端から端へと数枚、写真を撮った。
微かに風を感じた、くるり呉氏が身を翻して起こした風。若葉は潮風に流される前髪を指で梳きながら振り返った。百八十度回頭を果たした呉氏が、鳥居の方を指さしていた。若葉は青い背を追いながら、前に回したキャンバスリュックに手を入れ、エンディングノートを取り出した。
「海神を祀る白浜桂なく 松葉払いて登る重さよ」
声に出し「かいしん」と読んでみた。「桂浜」なのに桂の木は無く、松葉の林を抜けてお参りする。その登り階段が重く辛かった、そんなところだろうか。今度は潜る前に一礼して、太鼓橋を渡る。車が来ないことを確認して県道を渡り、二の鳥居にも、礼。
(これは…)
本殿まで、おおよそ建物三階分くらいだろうか、社の屋根が石段越しに見えた。ひょこひょこ、足元を気にしつつも軽快に登る呉氏の後を若葉が追う。若葉自身、身体が細い方でインドアな印象を持つ体型だと自覚があるが、それでもこれくらいの高さであれば難なく登ることができた。
「凄い…。」
時代の重さが違った。遠目にも分かった、手水社の柱が梁が、拝殿を構築する木材全てが、まるで流木の表面のように凄みを持っていた。それだけの時に洗われたのだと、想像に難くなかった。「重さ」はもしかしたら足取りの重さに加えて、ここで感じた時間の重さの事だったのかも知れない。とりあえず手水社で手を清め、拝殿でお参りする。一礼二柏手、そしてまた一礼。
「海神を祀る白浜桂なく 松葉払いて登る重さよ」
今度は「わたつみ」と読んでみた。島の小さな神社が、これほどまでの時を重ねてあり続けたという事実には、「わたつみ」と呼ぶのが相応しいと思った。
*
駐車場の鉄馬の横で、若葉と呉氏が並ぶ。既に旅支度を整えた若葉が、エンディングノートを開き、シートの上に載せていた。二人は同じ歌を、今日行く三つ目の歌を指さしていた。呉氏はトントンと、紙面を叩いて大きく身を起こして空を指差した。若葉はセルフォンの地図アプリで方角を確認した。向き、北北西、呉氏の指が大きく弧を描いた、距離遠し。若葉の指が、地図の上である島を捉えた。
「江田島(えだじま)ですか?」
ふるふる、呉氏は全身で拒否を示した。若葉は逆に「ん?」と疑問符を浮かべた、この方向でこの距離感なら、間違っていないはず。若葉は地図アプリの縮尺を変えて江田島の全景を映した。Yの字に見える、隣の島。
「この島ですよね?」
こくこく、呉氏は両手を握りしめて肯定の頷きを返した。
「江田島(えだじま)ですよね?」
ふるふる。若葉は混乱して大きく首を傾げた。呉氏も全身で傾げてみせた。疑問と疑問がぶつかり合う。
「あ。」
若葉は地図アプリを退かしてブラウザに切り替えた「広島 江田島」検索実行。その結果を見て、若葉はうんうんと頷いた。
「江田島(えたじま)ですね。」
こくこく、正解だったようだ。ツイッチャーに流れて来た昔の漫画の影響からか、若葉はどうしても「えだじま」と読んでしまう、その事を自覚した。改めて、次の目的地は江田島。今地図を見たので島までの道は大体理解した。キーを回しイグニッションボタンを押す。出番だとばかりに鉄馬は、ぽぽぽぽと唸りを上げる。
「では呉氏さん、また。」
手を振る呉氏に見送られ、鉄馬は走り出した。江田島までは、途中の大きな町まで来た道を戻ることになる。松林の区間を抜けると、海がキラキラと輝いているのが横目に見えた。
(あ、そう言えば!)
若葉はある事を思い出した。温泉に入るかどうか、再検討する事を忘れていた。でも今戻れば、別れたはずの呉氏と鉢合わせになる事だろう。若葉にとってそれはなんと無く、格好の悪い事のように思えた。
(もー、失敗しましたー。)
若葉の纏めた後ろ髪が風に靡く。若葉は文字通り、後ろ髪を引かれる思いを抱きながら、倉橋の町から離れる上り坂をアクセルを捻り登っていくのだった。
*
六の句、了
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