第6話【五の句】警固屋岬(音戸大橋)

 波面ガラスが間接光を作り出す。その明るさが徐々に増していくに連れ、波面を通す街の音も大きくなる。その光と音に刺激されたか、布団の上の一塊がもぞもぞと揺らいだ。亀の様に、布団から頭が飛び出す。


(んー)


 薄く開いた目に天井が入るが、ぼやけてその色しか分からない。若葉は枕元のセルフォンに手を伸ばし傾けるとそれを検知したセルフォンは待受画面を表示させた。起床予定の十分前だと、若葉は理解した。二度寝の余裕はないと、観念して、セルフォン横の眼鏡を手にする。身体を起こし窓を見る。ビジネススーツを納めたハンガーと、スプリングコートを掛けたハンガーがカーテンレールから吊るされ、影を作っていた。


「何でカーテンまで処分したのですか、お父さん。」


 二人分の人影は、気休め程度にしか外の光を防げていなかった。幸い、東京より朝が一時間ほど遅く、周囲を山に囲まれた呉の朝は更に遅いものとなる、明るさで自然に目覚めても睡眠時間不足にはならなかった。しかし慣れない環境と、夜とはいえ常に注がれる僅かな光は、確実に睡眠の質を落としているようにも思える。あるいは連日の「旅」の疲れだろうか。

 若葉は前に回した緩く編んだ三つ編みを解く、軽い波を残した髪がはらりと踊る。首周りが少し熱を持ち汗ばんでいた。若葉は手の甲で喉元を拭うと、起き上がり布団を畳み部屋の隅に積む。少しだけ眠気で揺れる足捌きで、隣の部屋の両親の位牌に向かい、その前で座を正して香を焚く。戻りしな、カーテンレールに干したフェイスタオル二枚を手にした。


(旅に慣れていないですねー。)


 色々と予測が実動に追いついていない。急だった事もある、父が思っていたより私物を処分していた事もある、それでもたった数日を過ごすためのこの部屋で、物を増やしてしまったのは若葉にとって、運搬量的にもお財布的にも少し軽く無い負担だった。タオルがまず最初のそれ。

 パジャマのまま、風呂場の洗い場に膝をつき湯船の上に頭を出す。旅行用の小瓶シャンプーを…これも今回買った…両手で延ばし、眠気と汗を共に落とす。泡立てた雲のような塊に雨を降らせると、文字通り烏の濡れ羽色の御簾が輝き、泡が流れ落ちる。襟が濡れるのも構わず、髪と顔と首周りを清めた。良く髪を絞り、傍に置いた一枚目のタオルで水気を取る。じっくりと、押し付けるように。粗めに水気が取れれば二枚目の出番、本来ならバスタオルを使うところをフェイスタオル二枚で凌ぐ。バスタオルのような嵩の張る物を、出先で買うのは避けたかった。

 ブラウスとデニムパンツに着替え、パジャマとタオルを洗濯機で回す。その間に、冷蔵庫から朝食となる冷凍パスタを取り出した。このアパートは、父が勤めていた会社が寮として借り上げていた物、一応納骨の日までは使って良いことになっていた。しかし調理器具や冷蔵庫、電子レンジは備え付けとして残されていたが、食器類は全て処分されていた。もっぱらその役割は、インスタントコーヒーを飲むための湯を沸かす事。それもカップ付きのコンビニコーヒーだ。

 冷蔵庫が残されていたのは若葉にとって行幸だった。近くのドラッグストアで冷凍食品と、使い捨てのカトラリーを買って朝夕を過ごすことになった。


(そういえば、「モーニング」なんて物もあるらしいですね。)


 呉の喫茶店は朝から開いているらしい、そして朝食を摂ることも出来るらしい。店頭のメニューがそれを教えてくれた、しかしまだ二十歳の自分が、慣れぬ街で一人飲食店に入れるかというとそれはとても難しい事に思えた。

 朝食を終えてゴミを纏める、この指定ゴミ袋もこの短期滞在のためだけに買った痛手の一つ、どう使っても余らせることになる。化粧品もそうだ、普段はお得用の大瓶を買っていたが当然持ってこれるはずもなく、こちらも旅行用小瓶を揃えることになった。今になって振り返れば、小さな空き瓶を事前に用意すれば、旅行用化粧バッグを作ることができたはず。


(少し痛い出費でした。)


 頭の中で踊るレシートの束と家計簿に暗い感情を描きながら、メイクをはじめる。コットンで化粧水を肌に馴染ませ、下地をUVカット付きの乳液で仕上げる。その上に薄くファンデーションを延ばし、仕上げのパウダーもUVカット入り。アイブロウで眉を整えると、仕上げは季節に合わせた桜色のリップ。

 スイッチが入った、今日もまた父の歌を追いに行く。桜色のコートを纏い、ガーゼマフラーを巻く。


「あ。」


 洗濯物のことを忘れていた、脱水が済んだパジャマとタオルをハンガーに通し、浴室内に渡された物干し棒に掛けた。浴室乾燥機、三時間にセット、そのあとは夜までに自然に乾くはず。

 念入りに戸締りを確認して、若葉は駐輪場に立った。父の残した黒い原付、そのミラーの根本に取り付けたホルダーに、セルフォンを固定した。昨日の帰り、百円ショップで買ったもの。これで停まって確認しなくても地図アプリが案内してくれる。キーを回しハンドルロックを解除すると、一旦表の道まで鉄馬を押した。敷地内でエンジンをかけると、それなりに響くためだ。押しながら呉氏が昨日指し示した、五つ目の歌を思い出す。


【落日が二つ並びて橋渡し 新たと古きが共に繋ぐ】


 呉氏は西を指したならこの近くか、ここから海沿いに南か。鉄馬に跨ってイグニッションボタンを押す、控えめにキュルキュルと音を立てて黒鉄は目を覚ました。


『呉 橋 落日』


 検索してもそれらしい物は見つからない。地図アプリで海岸線をなぞって見る。どうやら南のほうに隣の島に渡る橋があるらしい。とりあえずその橋の先を仮の目的地として。若葉は茜を灯し、アクセルを捻った。


  *


 いつもと異なり、本通りを海に向けて進む。呉線の高架を潜ると道の色…雰囲気が変わる。大学で経済を学ぶ若葉は、「呉線を境に土地用途が違ったのだ」と即座に理解して導線を予測した。道沿い反対側に並ぶのは防衛関係の施設。道が直角に曲がる、その突き当たりもまた防衛関係。


(なるほど、これが街の「中心」でしたか。)


 本通りの発展はここのためのものだと理解して、横目で送りつつ取り舵九十度坂を上り、さらに面舵九十度。


「これは!」


 視界が開けると共に姿を見せる、空へと伸びる鉄の麒麟達。造船区画、若葉はこれまで見た事もない大きさのクレーンに遠近感が歪むのを自覚した。そして体育館のような、しかし良く見るとその数倍の建屋が、視界の隅を埋める。


(なるほど、防衛関係と造船、これが呉の主産業なのですね。)


 クレーン達に気を取られ、少し道への気配りが足りなかった。気がつくと左折専用レーンの不回避位置、更に左折専用の青看板。若葉はくるりと百八十度回頭させられたことになる。呉中心部を見下ろす山へ至るだろう道の隅で、思わず茜を灯して停まった。


(びっくりしました。)


 山を行く道と、海沿いをいく道を無理やり繋いだような交差点だった、いやどちらかと言うとX字かH字か、小回りのきく原付で良かったと、小さな公園の前で若葉は前後を確認し再びの回頭。ああでも、道の先を見て若葉は惑う。交差点と呼ぶにはあまりにも広い交点、何処を通って良いのか、いや二段階右折するには?と進路が頭の中で作れない。


(仕方がありません!)


 若葉は直進を選んだ、先ほどに比べたら遥かに細い道が山へ向けて伸びていく。海から離れてしまう、若葉はもう一度Uターンするか迷う。ぽん、セルフォンが鳴り表示が変わった。進む方向に緑の線が伸びる、良かったこのまま行けそうだと若葉は小さく安堵の息を吐いた。


 急な下り道となった。傾斜がキツく、かなり強くブレーキを握らなければならなかった。この旅を始めて三日、改めて思う「呉は何処も急坂が多い」と。下り切った先で、車の流れから大きな通りと並走していることに気付いた。おそらく海沿いを行った先がその道なのだろう。高架下を潜ると、町並みは積み重ねた時代の色を強めつつ、海沿いに戻ることが出来た。


(あれ?今…。)


 若葉は空を見上げた、今一瞬建物の隙間から赤いものが見えた気がした。しばらく走ると目の前に橋脚が見えた、深紅の鉄骨。建物が途切れた、目の前に…いや頭上を覆うのは全てが紅で作られたアーチ橋。


(これが落日!)


 深紅のアーチが弧を描く様は確かに夕陽を連想させる。夕陽の下を潜ると少し離れたところにもう一つ、紅の鉄骨が虹のように円弧を描いているのが見えた。瓜二つの橋が、もう一つ。


(二つ並んだ落日って、これの事ですね。)


 二つ目の夕陽を潜った所で赤信号が見えた。青看板によると真っ直ぐ行く道は「倉橋、音戸」とおそらくは橋に至る上り坂、横道…丁字路なのに右折からの左急カーブで上り坂と同じ方向に伸びる、下へ行く道に分かれた。セルフォンは右を指し示していた。若葉は鉄馬の速度を落とすと、右折レーンの最後尾に付いた。

 信号が青に変わる、鉄馬の前を塞ぐ乗用車が動くと共に、若葉はアクセルを捻る。右折からの左カーブ、坂となり視界から去っていく道に別れを告げ進む。更に細くなった道を行くと急激に民家は減っていく、完全に民家が無くなると道は海と臨するようになる。二つ目の落日を潜ると、視界が一気に開けた。道は左へと緩く曲がる、故に正面には海原が広がる。左手に空き地のようなガレ場があった、その中心で手を振る見覚えのある青き四角…呉の字に目と手足が付いたような姿。


「呉氏さん!」


 若葉は左の茜を灯すと、空き地へと徐行して進んだ。良く見ると駐車場らしい、目を凝らさないと分からない境界線を読み、その一枠へと鉄馬を停めた。キーを左に戻す、ぶるると震え黒い原付は沈黙した。海峡…おかと島の間を吹く風と、微かな汐音が場を支配した。若葉はヘルメットとグローブをシート下収納に仕舞うと、ミラーのホルダーからセルフォンを外し、コートのポケットへと納めた。ミラーで髪の毛を確認して軽く指先で漉くと、駐車場の他枠で待つ呉氏の元へ歩む。


「おはようございます、呉氏さん。」


 前髪を払いながらはにかむ様に会釈する。呉氏は手を振り返してからうんうんと頷いて見せた。呉氏は親指と人差し指を繋ぎ、丸を作ってみせた。OKサイン、どうやらここで…呉氏が待っているのだから当たり前だが…正解だったようだ。


「落日が二つ並びて橋渡し 新たと古きが共に繋ぐ」


 若葉は誦んじて見た。呉氏はうんうんと頷くと、左右を見て車の通りを確認して手を招き道路を渡った。反対側はガードレール一枚を隔てて海へと繋がる。正直、歩道も立つ場所も無いのだが、呉氏は構わず車道の端から呉中心部の方を指した。灯台の代わりなのか、石灯籠を背に海路を見た。落日の向こうに落日が並び、おかと島とを繋いでいた。若葉はセルフォンを取り出し「呉 音戸 橋」で検索した。市の観光案内が最初に表示された。第一第二の音戸大橋、時を分けて造られた二つの橋、日招きの二つ名を持つ。やはりそうなのだ、太陽を模した二つの橋。父は同じ様にここに立ち、落日の様な二つの新しい橋と古い橋が、共に島とおかを繋いでいる様に感銘を受けて歌ったのだろう。

 駆動音が背後から迫る、引き波を建て、旅客船が海道を呉に向けて走る。呉氏が手を振ると客船の外部デッキにいた客が手を振り返した。


「素敵…。」


 暮らしのすぐ側に海があり、暮らしのすぐ側に船がある。横須賀も海がある暮らしだったが、ここまで生活の中に浸透してはいなかったと思う。ここでは海は境界では無い、ほんの少し生活圏を隔てる河川の様なもの、若葉はそう感じた。去っていく客船の背と、二つの落日を枠に納め、若葉はセルフォンのシャッターを切った。

 踊るような足取りで歩く呉氏を、若葉は小走りで追う。呉氏は原付のそばでくるりと片足ダンスターンを極めると、例によって掌を合わせて開け閉めをしてみせた。若葉は背負ったキャンバスリュックからエンディングノートを取り出すと、和歌のページを、今日の歌のページを開いてみせた。残る歌は二つ。呉氏は人差し指と中指で今日の残り二句を指してから、その内一つをトントンと叩いてみせた。そして振り返り、海の方を…隣の島を指差した。


「この歌が…あっちの方なのですか?」


 こくこく、呉氏は腕を大きく伸ばした、どうやら少し遠いらしい。若葉はセルフォンを取り出すと、地図アプリを起動した。現在位置の青い点、そこを指で閉じ縮尺を変えた。倉橋島、呉市で一番大きな島。呉中心部から下蒲刈島まですっぽりと収まりそうな大きさ。なるほど、この島のどこか…もし端の方だとしたら一昨日の野呂山も、昨日の島渡りも演習扱いと言えるのが良くわかる広さ。


「分かりました、呉氏さん。行ってみます。」


 若葉は「こうこう、こうでこんな感じですか?」と指し指を地から山へと示し、橋をなぞって島の海岸線を指した。すぐ側、近い方の橋を渡り、倉橋島の東側を走るルート。呉氏はうんうんと頷くと、両手で丸を作って見せた。若葉は頷いて返すと、ヘルメットを被りグローブを締め、セルフォンをホルダーに固定した。イグニッションスイッチを押すと、待ってましたと鉄馬が目を覚まし、ぶるると声を上げる。

 ではまた、と若葉は手を振り、呉氏は手を振り返した。右の茜を灯し、若葉を乗せた鉄馬は駆け出した。風が奔りだす。呉氏は道路を渡りガードレールにその身を触れさせながら、道の果てで若葉の背が消えるまで、手を振り続けるのだった。


  *


 五の句、了

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