第5話【四の句】御手洗の町

 深緑の樹々が織りなすトンネルの中、「ぴぃぃ」と鉄馬の咆哮が木霊する。鈍足の黒き鉄馬の主は、桜色のスプリングコートに身を包んだ若き女性。いや、女性と呼ぶにはまだ面貌に幼さが残り、少女と呼ぶには落ち着き払った雰囲気の方が強い。銀縁の丸メガネをかけ、その視線は路の果てが消える深緑の先を追い予測し、見つめる。大きめなキャップヘルメットを被り森を貫く木漏れ日に、虹色を返す艶やかな黒髪を束ね、下に流すは文字通り馬の尻尾の様。若葉…天宮若葉二十歳、東京のとある市の大学に通う、所謂女子大生。彼女は疎遠だった父が残した原付に乗り、疎遠だった父が残したエンディングノートの片隅に記された和歌を追って、ひとり旅をする。

 十文字山展望台を後にした若葉は、元の島を周遊する道に戻った。走ること数分、谷間の集落を見下ろす道に戻りついた。行きに比べたら所要時間は雲泥の差、こちらのルートから行けば長く続く道に不安を覚える事もなかった。地理は専門じゃ無いですが…若葉は両手で緩くブレーキを握り、下り坂に抗いながら想像する。周遊道路は、一方通行では無かったが、どこも乗用車がすれ違うのも難しい狭い道だった。だから道に慣れぬ外部の人が鉢合わせにならないよう、流れを操っていたのではないか、と。


(原付なら左回りでも問題ないのですけど。)


 ちょっとした不平を心に溢し、若葉の駆る鉄馬は集落へと戻り、海を目指した。道を行くものは郵便局の業務用原付程度、並走も追い越しも追い越されも無いまま、海が産み出す丁字路に差し掛かる。左の茜を灯し、取舵九十度。次の島に渡る橋を目指す。


(え?ここですか?)


 来た時は集落の外れに、市街地をパスする道があった。そこまで戻るのかと思ったら、すぐ横の急坂が橋の根元に繋がっていた。ここから登れるならその方が早いが、その傾斜はこれまでのものと比較にならない厳しさ。若葉は口元を引き締めてアクセルを捻った。

 豊浜大橋、街を見下ろしながら大崎下島へと渡る。島の周回道路へと繋ぐため、他ほどではないがやや急な下り坂を進む。ふと、視界の横を見慣れぬ色が過ぎった。緑では無く、灰色。道の先に気を配りながら、若葉は右を向きその灰色を凝視してみた。工事現場の足場のように見える、しかしその規模は大きなものでここにマンションでも建てるのかと思わせる程。しかしその裏はすぐコンクリートの壁に行き当たる。鈍足な原付とはいえ、通り過ぎるのは一瞬。若葉は「何だったのかしら」と小首を傾げながらも、また運転に気持ちを戻すのだった。


  *


 大崎下島、その北側の道を行く。地図で見る限り、蒲刈上島と同じくらいか。ただ…若葉は分析する、少し広く少しゆとりがある。道に、道の側に。海が近いのは変わらない、それどころか縁石の背は低く、引っ掛かれば間違いなく海に落ちる。しかし恐怖心はあまり感じない、道の両脇に路肩があるのだ。サイクリングロードとしても使用しているのだろう、青い線が引かれている。山側に意識を向けてみる、みかんだろうか果樹園然とした空間が、山の圧迫感を遠ざけてくれる。他の島よりも、ほんの少し海側の平地が多いのだろう。

 小さな集落を過ぎる。驚いたことにその対面は定期船乗り場のようだった。ちょうど桟橋に横付けされた小さな船。渡し船といえば大量の乗用車と人を乗せる東京湾フェリーしか知らない若葉にとって、人しか載せない小型定期船は新鮮だった。


(ちょっと、興味深いですね。)


 やはり、余裕がある。定期的に道の側には駐車場が現れる、船がつくわけではなく展望台があるわけではない、ただ停められるスペース。若葉は左の茜を灯すとその駐車場のひと枠に鉄馬を停めた。両脚で支えたまま、セルフォンをスプリングコートから取り出し、キャンバスリュックから件のエンディングノートを取り出す。


【町巡り時の流れが混ざり合う 昭和曲がれば明治の家路】


 セルフォンのブラウザに「呉 古い町」と入力する。出発前にこの情報だけは手に入れていた、これはその再確認。検索結果が示すのは「御手洗の町」、江戸時代から栄えていたという町。観光案内のページには古い建物写真がいくつも並ぶ、昭和明治の建物もあるだろう。地図アプリへと切り替えてみる、現在位置と目的の大崎下島の南東の果て、御手洗の位置を確認する。まだまだ遠い、ようやく北側の道を、三分の一走ったと言ったところか。若葉はノートをしまいキャンバスリュックを背負い直し、セルフォンをコートに収めた。


  *


 比較的大きな集落を抜け、暫く走る。これまでには見当たらなかった砂浜に驚く、小規模だが綺麗な白浜。唐突にまた集落が始まったと思ったらまた緑の道、横目で見ると半球のドーム状の建物が幾つも並んでいた、どうやらグランピング場らしい。


(最近流行っているらしいですね。)


 あまりアウトドアに興味がない若葉にとっては遠く彼方の存在だ。でも、と少し心の向きを変えてみる、ここみたいに自然が近く海のそばでキャンプするのは、関東ではほとんど考えられない。静かに過ごせるのなら良いのかもしれない。

 進む先に見えてきた小さな島、それが岡村島である事を教えてくれた青看板を潜る。今度こそ町が始まった。道沿いの建物が増えていく。左側が大きく開けた、最初はバスロータリーかと思った、広い駐車場。若葉は地図を確認するためその中に入っていく。


「まぁ!」


 奥にバスターミナル風の建物が見えたのでそこまで鉄馬を進めてみた。その建物の向こうに見えたのは車両搭載可能な、でも若葉が知る物よりもはるかに小さなフェリーだった。

 

(可愛い!)


 東京湾フェリーを四分の一位に縮小したようなフォルム、潮風の中に微かな駆動音を混ぜながら出航を待っていた。桟橋にいる係員が誘導灯を振る、若葉を招くように。若葉は大きく手を振り、乗る気はない事をアピールしつつ足元を見た。そこは搭乗待機列の枠内、若葉は慌ててアクセルを捻るのだった。

 別の口から駐車場を出て県道に戻る。集落が終わる、そう思いながら走るとすぐに次の集落へと繋がっていく。大きな町だ、大長と言うらしい、その町の入り口を橋で渡ってスルーする形になる。「町並み保存地区 御手洗」の看板が目に入った。ここがおそらく町の入り口、その近くに無料駐車場の案内があった。バス停らしきものも見えた。転回スペースに駐車場を併設したような構成。だがそこは県内ナンバーの乗用車に埋められていた。


(んー、そうですね。)


 駐車場の入り口でしばし惑った若葉は、駐車場の反対側、堤防沿いに鉄馬を停めた。看板の裏に当たる、ここなら転回の邪魔にはならないはず。ヘルメットとグローブをシート下に収め、ミラーで髪の崩れを直してから若葉は町への一歩を刻んだ。

 一応、メインストリートに該当するものがあるようだ、おおまかな町のつくりを教えてくれる案内板に目を通す。そこは、少し新しめな目立つ舗装を施した道。けどおそらく軽自動車が一台通るのが精一杯の道。無料駐車場の存在からそうではないかと思ったが、やはりこの町は徒歩推奨なのだと若葉は理解した。


(文字通り、「古い町並み」ですね)


 不思議な光景だった。築百年を超えるであろう木造建造物が普通に民家として使用されていたり、記念館的な使われ方もしている。その横で築五十年未満の比較的新しい住宅もある。時代と、観光と生活がない混ぜとなった町。茶屋の跡地があった、天満宮があった。道真公が太宰府流しになった時ここに寄ったとか、江戸時代は海上交通の要として栄えたとか様々な情報が若葉の中を通っていく。

 木造の洋風建築があった、回転灯を見るに現役の理髪店らしい。時の中を進む、古い劇場と、長屋風の建物。


「町巡り時の流れが混ざり合う 昭和曲がれば明治の家路…これですね。」


 父の歌を口ずさんでいた。町を巡っていたらいつの時代なのか分からなくなる、昭和の建物かと見ながら曲がればもっと古い建物に出会う。「江戸」を使わなかったのは語呂を合わせられなかったからか。三叉路の各面をセルフォンのカメラに収めた。

 長く続いた狭い路地を抜け、海に出る。おそらく海に関する神を祀ってあるのであろう神社と、桟橋の先に時代を感じさせる灯籠が見えた。


(くるるる)


 若葉は思わず周りを見回した、他に誰もいないことを確認すると、コートの上からお腹を撫でた。呉中心部を発ってからあちこち寄って四時間ほど、もうお昼時に入っていた。そう言えば、走っている時にサイレンのようなものを聞いが気がするが、あれは正午を示していたのかもしれない。


(お店、あるんですかね?)


 道の先を見ると、視界の果てで緑が見えた。であればと、若葉は踵を返し原付を止めていた方角を向く。そう言えば今回の歌巡りで、海沿いをゆっくり歩いた事は無かった。これまでとは逆、右手に蒼を、左手に緑…ではなく何んだろう家屋の焦茶か。一軒二軒、何軒目か彩をその目に捉えた、地にまで届く暖簾、その横に手描きのお品書きと、「船宿カフェ」の文字。


(船宿…ですか)


 見たことのない造り、縁側…とは少し違うか、かなり広い外向きに座る場所は、文字通り船乗りが休む場所なのだろうか。


「すみません。」


 暖簾の横から店内に声をかけ、若葉は縁側状の席の一つに腰掛けた。草編みの丸座布団が、板間の硬さを和らげてくれる。座ると堤防が視線を塞ぎ海が見えなくなる、代わりに空をいっぱいに感じることができる。少し白が混じった、春濁りの空。若葉は何となく、そこに空飛ぶ物を置いてみた、そこから見たらどんな景色が見えるだろう。

 いらっしゃいませ、その声に若葉は意識を引き戻した。店員がお茶とメニューを運んでくれた。食事もあるが、軽食に力を入れている様子。写真からサイズとカロリーを推測していく。


(これは!)


 気分が高揚していくのがわかる、身体が心が「これを食べたい」と欲してくる。若葉は腰から上を反転させ店内に「お願いします」と声を飛ばした。

 そわそわと浮き立つような心持ちで到着を待つ。閉じた腿の間に手を入れて左右に身を振る。リズムを取るように肩を軽く上下に揺らすと、疲れが身体の随所に溜まっていることを自覚する。なればこそ甘い物を…


「ご旅行でスか?」


 意識していない方角から声が掛けられた、同じ縁側の並び。若葉は座布団の円を軸に身を向けてみた。少し離れた席に女性…歳を重ねた女性が座っていた。派手ではないが上品な、白を基調とした佇まい。かつては栗色であったであろう白髪を、綺麗に整え一つのシニョンに纏めていた。老婆…は言い過ぎか、中年よりは上の老婦人。両親以外血縁者がいないため、親世代より上のひとの年齢がよく分からない、ただ父親よりは年上であることは分かる。


「えっと、はい。」


 厳密には観光地目的の旅行ではないのだが、それを説明するのは難しいし、初対面の人にする話ではない。若葉はやんわりと笑みを浮かべ話を合わせることにした。老婦人はお茶を一口飲むと、ふうと潮風に吐息を混ぜた。


「この町は面白いでショう?」


 訛りなのか少し言葉のイントネーションに違和感を覚える。面白い、確かにその通りだ年代の異なる建物が一つの町に収まっている。しかも、そこは遺跡遺構では無く、現時点でも人が暮らし過ごしているのだ。そうですね、とだけ若葉は言葉を返す。老婦人は和かで、でも何だろう微かに寂しさを滲ませた笑みを浮かべる。


「ここは時が止まった町、人だけが変化していくのデす。」


 意味深な言葉を紡ぐ、若葉は反応に困り曖昧な笑みを浮かべる。老婦人はもう一口、お茶で唇を濡らした。「お待たせしました」店員の声で向きを変える、お盆に乗せられた甘味が今、若葉の元に辿り着く。


「では、楽しんで行ってくだサイ。」


 店員の後を、老婦人が去っていった。若葉は…膝の上に盆を乗せて立ち上がれない…軽く会釈すると老婦人を見送った。その背中が見えなくなってから、若葉は盆の中身と対峙する。程よく焼き色が付いた、トーストが織りなす円陣の中央にアイスクリーム。トーストの暖気に乗る爽やかな甘い香り、その横には太陽を閉じ込めたかのような陽の色を宿した飲み物。


(レモンハニートーストと大長みかんジュースです!)


 若葉は眼鏡の奥、瞳に輝きを浮かべながらトーストの一つにフォークを刺し入れた。


「んーー!!」


 甘い、ひたすらに甘い。レモンハニーの爽やかな甘みに、アイスクリームの濃い目の甘さが混じり、味が喧嘩することなく身体に沁みてくる。更にみかんジュースを流し込む、トーストで甘さが麻痺しているかと思いきや、濃いみかんの味は負けじと「我こそは国産みかんである」と強く主張してくる。


(これは堪りません)


 二口目、今度はアイスクリームを多めに付けて、若葉は舌の上でとろけ弾ける甘味をしばし楽しんだ。


  *


(あれ?)


 トーストとアイスクリームを全て撃破し、残りはみかんジュースの約一割を残すのみ。視界の隅で、濃い青が動くのが見えた。まさかと思い若葉は、盆を脇に置き立ち上がってみる。右手奥、海に伸びる防波堤の先、灯台代わりなのか石灯籠の元に、見知った四角い青の異形。


(呉氏さん!)


 座り直し、ずぞぞと残りのみかんジュースを飲み干して、若葉は慌てて席を立った。会計でセルフォンの電子決済が使えず、また財布を探して四苦八苦した。道を渡り堤防沿いを歩く、神社の中を通り防波堤へ。その防波堤は古い造りだった、石を積み上げて、消波ブロックも持たずに小さな…それでも一抱え以上ある…石を並べ積み上げたもの。本来の目的が防波であるため、少し歩きにくい。舟留めの係留柱が等間隔に並ぶ中、最奥の石灯籠を目指す。若葉の姿に気づいたのか、呉氏は遠くからひらひらと手を振る。手を振り返しながら、若葉はほんの少し、歩調を早めた。呉氏は海の男よろしく、係留柱のひとつに片足を乗せポーズを極めていた。


「お疲れ様です、呉氏さん。」


 相対し、互いに軽く会釈すると同時にサムズアップを送り合う。その息のあった動きが可笑しくて、同時に笑顔を弾けさせる。若葉は潮風に押されて視線を遮る横髪を、すっと指で払った。


「ここは、面白い町でした。」


 ぽんぽん、呉氏は笑いを払うように自身のお腹を叩いた。掌を合わせ、ゆっくりと開け閉めしてみせる、本のページを捲るジェスチャー。


「ノートですか?ありますよ。」


 キャンバスリュックからノートを取り出し、歌のページを開く。ぱたぱた、このページではないらしい。はらり、ページを捲るとこくこくと頷いてみせ、その一角を指し示した。昨日と同じ様に、ひとつ、ふたつ、みっつ。そして指した手のまま、大きく弧を描いて西を示した。この弧の大きさは、向きは…。


「西ですか?」


 こくこく、滞在してる呉港近くは、呉市の西の果てと言っても良い位置にある。ということは、次の三つの歌は呉中心部に程近い場所ということになる。原付に慣れるという点では、近場からの方が良かったのでは、と若葉の眉間に微かな皺が刻まれ、不機嫌が口元にでる。呉氏は右の手を握り、左の掌を天に向けて水平に保つ。ひとつ指を開き、手のひらが一段上がる。

二つ指を開き、掌がもう一段上がる。若葉はその仕草を目を細めて凝視した。


「段階が…ある、という事ですか?」


 呉氏は悩むように斜め下を見つめ少し唸る様に揺れていたが、一度大きく頷くとこくこくと若葉に向けて頷いてみせた。当たらずとも、遠からずという事なのか。ふう、若葉は意識的に小さく息を飛ばすと、ゆっくりと口角を上げた。凪…より少し笑顔寄り。


「わかりました。」


 あなたを信じます、という言葉は胸に仕舞っておく。若葉にとってここ数日の行動を見るだけで、呉氏という存在が頼りになると理解していた、それを言葉にする必要も無いことも。じゃあまた明日、そう呟き意識的に笑顔を作り胸元で小さく手を振ると、若葉は呉氏に背を向けた。呉氏にはまた会える、それは確信している。若葉にとってそれよりも大きな懸念は、また元来た道を四十キロ以上走って帰らないとならない事。歌探しが無い為、逆にどこでどう休憩を取れば良いのか、考えることは多い。

 若葉は防波堤を降り神社を抜けて島を巡る県道を歩く。船宿カフェの前で一度立ち止まり振り返る。防波堤の先に、もう呉氏の姿は無かった。


  *


 四の句、了

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