第4話【三の句】十文字山展望台

 島の道、山の道。柑橘畑の間を縫うようにして伸びる舗装された小道、山間に「ぴぃぃ」と鉄馬の咆哮が木霊する。鈍足の黒き鉄馬の主は、桜色のスプリングコートに身を包んだ若き女性、天宮若葉。いや、女性と呼ぶにはまだ面貌に幼さが残り、少女と呼ぶには視線に宿る決意の力が強い。銀縁の丸メガネをかけ、その視線は路の果てが消える海を見つめる。大きめなキャップヘルメットを被り、朝の透明度の高い光に、虹色を返す艶やかな黒髪を束ね下に流すは文字通り馬の尻尾の様。若葉は勝手に「ジェットコースターの道」と名付けた上蒲刈島の道を下っては上り、上っては下っていた。

 若葉は東京のとある市にある大学へ通う現在二十歳。呉という街には縁が無かったが、単身呉にて働いていた父の死をきっかけにここにいる。納骨まであと数日、父の残したエンディングノートの片隅に記された歌を、呉の各地にある歌を追うことにした。

 二つ目の歌は上蒲刈島の「桂の滝」を歌ったものだった。呉氏に助けられ見送られ、桂の滝を後にし一旦海沿いの道を目指す。そこから、更に東へ向かい今日は残り二つの歌を探す、そういう算段。どこかで止まって歌の場所を調べる必要があるが、携帯の電波が薄く、ひと気の無い山の中で独り調べる気にはならなかった。

 風の中に柑橘の匂いが混じる。果樹の時期は終わっているはずだが、新緑の葉から散る気に香りが宿るのか落実が地で醸されたのか、若葉には分からない。やがて道はくるりと円環を描き、島の外周を回る県道へと至る。緑の壁と蒼の屋根、暫くは解放と閉塞が両立した道を進み、集落の気配が感じられると、左手は大きく開け凪いだ海が広がった。点在する名も知らぬ小島達が、小島達の存在が、今若葉自身関東のどの海域とも異なる海を見ていると教えてくれた。

 若葉は走りながら、目に映る景色を、見慣れぬ景色を自身なりに咀嚼しようとしていた。同行車も対向車もあまり来ない道、目まぐるしく変わる景色は新鮮ではあるが、同時に退屈でもあった。原付という時速三十キロの移動手段に慣れてきた証左かもしれない。


(…海が、近いです。)


 原付は原則道の左端を走らなければならない。だから尚の事海の近さが目に付く。ただ近いのではない、今走っている道路端の白線、そこから一メートルも左に行けばもう海中、ブロックや砂浜を経由せずいきなり「海」となる。内情は既に想像した通り、土地の不足。山がちの地形故平坦な場所は貴重にして希少、ギリギリまで平地を活用した結果、余白の無い道が出来たと推測出来た。でもこれほどとはと若葉は心の中で感嘆を上げた、以前住んでいた横須賀も山がちで海が近い土地だが、道のすぐ横が海と言うケースは、ほんのごく一部の道でしか覚えが無かった。あそこは久里浜だったか。


 集落を抜け、道は左に蒼、右手に碧の二色となる。空の蒼さを映した水面は、その境に島が無ければ溶けて見えたことだろう。凪に近い海は波音も無く、静か。そこに鉄馬の雄叫びが響き、消えていく。道は南向きとなり、時代を感じさせる雰囲気の集落に入る。古き道は更に狭まり、原付であれば問題は無いが、乗用車同士だとすれ違うのに難儀しそうな狭さへと変わる。狭くなりつつも、海へと身近さは変わらずうっかり堤防の隙間から落ちてしまいそうな錯覚に見舞われた。集落の中心部に入ると、道は海から離れ微かな傾きを持つ。若葉は予め見た地図を脳裏に広げてみる、記憶通りならそろそろ島を離れる橋に至る道に分岐する筈だと。


(ここですね。)


 空色の看板が、左に行くと島を渡る橋に至る事を教えてくれた。右に行けば呉に、安芸灘大橋に戻る道、左に行けば豊島大橋。左の茜を灯して取舵一杯、こちらの方が新しい道なのだろう、充分な幅と整った舗装、徐々に高さをもたらす傾斜は橋への誘いだと若葉は理解した。

 行く先を緑と黒が覆っていた、トンネル…その先は見えない。若葉はトンネルの手前、バス停状に路肩が広がっているスペースに左の茜を灯して鉄馬を停めた。茜を灯したままキャンバスリュックからエンディングノートを取り出し、コートのポケットから取り出したセルフォンを原付のコンパネに置いた。


【丸八辻縁重なりて十文字 風凪揺らし島ひと気なく】


 まるはちつじえん?若葉は眉間に小さな皺を刻んだ。文字数が合わない、語呂も悪い。しばらく考えて「ああ」と心の中で拳を打った。「まるやつじ」だと、「えんかさなりて、じゅうもんじ」と続けば文字数も語呂も良くなる。丸いのに八辻なのか、十文字と八辻で語彙が変わってないか、でもそれが父の歌なのだ、和歌というより和歌形式の駄洒落。グローブを脱ぎセルフォンに指を伸ばす、「上蒲刈島 八辻」検索実行。


「…違いますね。」


 検索結果はまるで方向性が整っていない。そもそも「八辻」が一致していない。条件を変えてみる「上蒲刈島 十文字」、検索。


「あ。」


 思わず声が出てしまった。検索結果は「呉 十文字山」とあり、写真が連携されていた。それは、円筒状の展望台。呉市の文字もあった、間違いは無さそうだと若葉は詳細を探る。「上蒲刈島」の文言で検索したにも関わらず、十文字山はこの先、お隣豊島にある山の様だ。地図をナビゲートモードに切り替える。橋を渡り、豊島を北回りで行く、途中の町から山に入りぐるぐると走った末に展望台へ至る。やはり、一度では覚えられないので、一旦豊島の東の町…豊浜まで行って確認したほうが良さそうだ。若葉はノートとセルフォンをしまい、キャンバスリュックを背負い直した。


  *


(島嶼部の、長いトンネルを抜けるとそこは橋だった。朝凪に青が沈む…と言う感じでしょうか。)


 間近に迫る豊島が思っていたより大きいので、浮遊感は少なめ。ただ、横目で見ると海面までの高さはかなりの物で、その落差に少し頭が混乱する。おそらくですが、と心の中で前置きをして、若葉は自身が身を置く学問に照らし合わせてみる。道の新しさと、集落との距離から、まず始めに海路があったのだろう。そして橋がかけられる時、海路の邪魔にならない様に造られた。橋周辺に発展の痕跡がないのはやはり土地の問題だろう、と。述懐しながら橋を渡りきった若葉は、急な下りのループ路に難儀していた。土地が足りないから山肌を削り急坂を作り、ループ路で高さを調整させる。しかし、それは走り慣れぬものにとって、かなりの障害だった。下りの急カーブは、どれほど速度を落とし、どれほど車体を傾ければ良いのか、よく分からなくなるのだ。

 急坂を降りて島縁を走れば、また青と緑に囲まれた道。地図で見た豊島は、下蒲刈島と同じくらいの大きさに思えた。斜めに縦断した島と比較するのは正しくないが、すぐに鉄馬の向きは変わった。町が始まった、あえて言うなら町をパスする迂回路が始まりだったか、商店が増えて学校や公園、そしてヨットハーバーにも見える多数の係留された小型船が、ここの港の規模を表していた。道周りには行政の建物らしきものが並び、小さな飲食店や商店が並ぶ。


(もう少し、先ですね。)


 一度商店の前で止まり、地図を確認した。頭に叩き込んだ通りに道を行く。次の島に渡る豊浜大橋の下をくぐる。くぐった先で面舵九十度、山側に入る。住宅街、なのだが若葉は見慣れぬ光景に目を白黒させた。何か、変だと。谷間に形成された密集した町、なのだが乗用車が必須な暮らしでありながら、その道は乗用車に優しくない。アスファルトとコンクリート敷がランダムに入り混じり、時々何と言ったか鉄のスノコが道を覆う。何だろう、昔からある道を中心とした造り、ギリギリまで道に寄せて建物を造り、区画も区分もなく混沌とした並び。

 安定しない道幅と先読めぬ回転半径に難儀しながらも、若葉の駆る鉄馬は山を目指す。住宅街を抜けた、と思ったら…予想の範囲内だが…急な山道が始まった。アクセルを捻り、ハンドルを抱える様に前傾姿勢。


(またジェットコースターの道ですかっ!?)


 上り登って曲がり角、しかして桂の滝と違うのは、曲がった先もまた上り坂。下る気配がないまま走り続ける。ほとんど百八十度折り返しかと言うカーブを曲がった時に、視界を過った看板が一枚。


(展望台あと3.8キロ直進)


 崖の様に聳り立つ山肌を伝う道から、幾分緩やかではあるが森を行く道に変わる。遠回りの外周、上るのは理解できるが時折続く長い下りにはどこに連れて行かれるのかと不安を覚える。行くものも戻るものともすれ違わず、そして手入れが行き届いていないのだろう、縦にひび割れたアスファルト加工と、積もりに積もった枝草が尚不安を煽る。もう島を一周してしまったのではと若葉が不安になった頃、丁字路が姿を見せた。側に立つ「展望台入口」看板の文言に、若葉はようやく安堵した。

 周囲の草が道に侵食している、もともと狭い道がさらに狭く、新緑は圧をかけてくる。圧に負けて道の真ん中を行けば、原付とて対向車とすれ違うのは難しいと思える。変わらぬ…いや、より鬱蒼とした森の中を進み続ける。

 唐突に視界が拓けた。写真で見た人工の円筒が右手に見えた。森を抜けた山頂の塔、まるでファンタジー世界だと若葉は人知れず笑みを溢した。

 

「着きましたー!」


 道幅が広がり、それはそのまま駐車場へと姿を変えた。どうやら行き止まりらしい、若葉は駐車場奥の一枠で…乗用車も居ないので贅沢に使っても良いだろう…鉄馬のスタンドを立てた。大きく伸びをする、肩から腰まで伸び切って、身体に詰まった血が巡っていく様に感じる。返す手でヘルメットを脱ぎ、シート下の収納へグローブと共に納める。改めて、若葉は展望台を見た。すでに検索時の写真で見ていた通り、重厚な鉄板で覆われた円筒いや円塔、その内側に上り階段が取り付けられている。塔の縁がそのまま展望台になっているようだ。若葉は力を張りすぎて少し疲労が溜まった脚を撫でつつ、階段を登る。塔は森の高さを超え、その先を少しずつ見せてきた。


(これは!)


 森の上を、山の肌を駆け上る潮風。波音の代わりに木々の騒めきが伝う。眼下に広がる碧の先に、海の蒼が繋がる。その蒼も少しずつ彩りを変え、流れが遠くに見て取れた。若葉はそれが潮目であることに、暫く置いて気が付く。円筒をゆっくりと巡る、豊島を中心に全方位、似て異なる景色が広がる。自然を楽しむまさにそんな展望台。


「ひと気なく…」


 下の句を思い出す。展望台まで、そして展望台でもひと気は無かったその事を歌ったか?いや、若葉は否定する。もう一度、案内板が示す方角をみる、東を見る。町が、見えないのだ。あれだけ発展した町が、おそらくは山の形と斜面との角度の関係。島を周遊する道路も、ここまで登ってきた道も見えない。確かにあるはずの人の営みが、この山と展望台は隠して見せてくれる。そのギャップが興味深く、今一番高いところにいる自覚が、微かな高揚感を生む。


【丸八辻縁重なりて十文字 風凪揺らし島ひと気なく】


 では、上の句は何だろうか、若葉は思案に想いを向けながら何とは無しに展望台を巡る。一周目を終え、二周目に入る。十文字はこの山と展望台の事を示しているはず。では丸「八辻」とは、十文字と合わせるならそのまま四辻にした方が座りが良さそうな気がする。

 ふと、視界の隅に、動く青を捉えた。それは、そこには無いはずの色。ぱちくり、目の疲れか?意図的に目を瞑り休ませて、ゆっくりと開き周りを見渡した。眼下に、それも外では無く内、展望台中央の広場で、何かが動いていた。呉の文字に手足と目がついた様な青い異形が、小気味よく動いていた。


「呉氏さん?」


 柵に手をつき身を伸ばす。円塔の中央、更に小さな縁の中で呉氏が踊る。軽快に手足を動かし…ダンスは専門外だが、その立ち居振る舞いは美しく無駄がない。くるくると回りポーズを決めるが、その足は広場中心の円からはみ出すことはない。その円の外に、若葉は星を見た。旭日のような二重円に八つの三角が組み合わさった星、呉氏は円から一歩踏み出すと丁寧に星の先を踏んで踊る。ひとつ、ふたつ、みっつ…やっつ。魔法陣の様にも見えるそれには、星の先に文字が刻まれていた。数は四、文字は「東西南北」すなわち八方を示す陣。


(これが、八辻。)


 丸に八辻が刻まれて、縁の展望台と合わさって「十文字山展望台」を形成している、その眺めは風と凪しか無く、人の営みを隠し自然を見せる不思議なもの…歌の解釈はそんなところか。

 呉氏がクライマックスの高速ステップを踏み、旭日の中心でポーズを極めた。若葉は手を鳴らしながら展望台の階段を下る。呉氏は若葉に手を振って応えた。


「ここで、合ってるんですね。」


(こくこく)


 呉氏は全身で頷く。若葉は少し照れくさそうに肩をすくめた。


「とても…良い眺めでした。」


 歌に寄り添い、かつての父の想いに触れると言うことが、分かってきた。壁を感じていた父の内面に目を向けると言うことは、存外心地よく、存外照れ臭いもの。それは多分、自分とも向き合うことになるから、どうしてもそれが面映い。呉氏はまた大きく頷くと、右手の親指を立てて見せた。サムズアップ、納得のできる…満足のいく行動をとったものにだけ贈られる仕草。


「今日は、あと一箇所ですね。」


(こくこく)


 呉氏は掌を合わせては開く仕草を送る、エンディングノートを見るかと問うように。しかし若葉は軽く首を振って応えた。


「次の場所は、多分もう分かりましたから。」


 うんうんと呉氏は満足したかのように頷くと、東を指差した。若葉も同様に東を指差し、左手の指で眼鏡の弦を持ち上げ直した。「お見通しです」とでも言う様に。

 若葉と呉氏は連れ立って円塔から出る。半歩、そしてまた半歩二人の距離は離れていく。駐車場へ向かう若葉と、下り道に向かう呉氏。手を伸ばしても届かない距離まで離れた時、どちらからともなく足を止めまた二人は相対した。


「じゃあまた。」


(こくこく)


 どこそこで会いましょうとは言わない、言わなくても呉氏は待っていてくれるし会いにきてくれる、そんな確信が若葉の中にあった。この不思議な存在はそう言うことができる、そう理解しただけで充分だ。若葉はその場に立ち止まり手を振る。一度だけ大きく頷いた呉氏は、軽快なスキップを地に刻みながら坂を駆け降りて行く、若葉は深緑のトンネルが青き後姿「クレ」の文字を隠すまで、手を振り続けていた。


  *


 三の句、了

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