第3話【二の句】桂の滝
朝靄が、掛け布団のように灰が峰の天頂を隠す。まだ陽の力は弱く、それは山が目覚めを拒むかのうよう。しかしその下、呉の街は目覚めを始め本通りは呉に向かうもの離れるもの様々。その流れを掠めるように鈍足の原付が道の端を走る。ボディカラーは無骨な黒。その騎馬の上で手綱を握るのは桜色のスプリングコートに身を包んだ若い女性。いや、女性と呼ぶにはまだ表情に幼さが残り、少女と言うには先を見据える視線に宿る意志が強い。銀縁の丸メガネをかけ、その視線は真っ直ぐ道の先を見つめる。大きめなキャップヘルメットを被り、陽はないが朝の光に虹色を返す艶やかな黒髪を束ね下に流すは文字通り馬の尻尾の様。尾は自らが生み出す風に靡く。
彼女の名は若葉、天宮若葉。東京のとある市にある大学へ通う現在二十歳。呉という街には縁が無かったが、単身呉にて働いていた父の死をきっかけにここにいる。納骨まであと数日、父の残したエンディングノートの片隅に記された歌を追うことにした。
休山トンネルを…まだここを通る勇気はない…避けて県道を走り峠を上り、また国道に戻る。二度目になると慣れたもの、長い長い直線を東に走り、広の街を抜ける。車線が一本に減り、少しだけ流れの悪くなった道を暫く走り、昨日行った川尻に至る前に、側道に入る。方向転換側道に良くある急斜面と回転半径の狭さに若葉は難儀しながら、鉄馬と道は高さを持ち海を向く。
(これ…凄いです。)
山を少し削ったのか圧迫してくる左右の緑を抜け目の前には空の青が広がり道標たる鉄柱が聳え立つ。料金所、コートからセルフォンを取り出したが電子決済は出来ず、現金のみと係員に告げられた。若葉は何処に現金をしまったか、キャンバスリュックをあれこれ弄り、ようやく見つけた財布から紙幣を取り出して支払いを済ます。走り出すと、待っていた後続車が次々を若葉の鉄馬を抜かして空に向けて旅立っていく。安芸灘大橋、本州と呉の離島を繋ぐ大きな橋、その一脚目。
(ちょっと怖いですけど、これは素敵ですねっ。)
丁寧語で思考するのは若葉の一つの癖、五年前からの癖、父に見捨てられたと思った時からの癖、自分を客観視してしまう癖。
上も下も異なる青が占め、行く先に細く道が続くのみ、まるで空を飛んでいるかのよう。緑と白の幟が風に揺れ流れを教えてくれる。風は若葉と鉄馬の側面に当たる。柵があるので飛ばされることはないが、少しだけ足を取られると高さに対して恐怖を覚える。若葉は覚えた恐れの分だけ、ステップを踏み締める足に力を込めた。
橋の中央を越えると少し下り坂の色を滲ませて空へ誘った橋は着陸体制へと変わる。大きくなる陸地、迫る橋の果ての繋ぎ目、ごと…微かな衝撃を鉄馬は騎手に伝え、島に降り立ったことを教えてくれる。下蒲刈島、休憩場だろうか広くスペースを用意した駐車場を見つけた若葉は左の茜を灯してブレーキを握る。歩道を行く人は居ないが、一応確認してから段差を越えた。目的地ではない、停めたい訳でもない、枠には入らず道の端で両足を付いた。キャンバスリュックからエンディングノートを開き、自身が付けた付箋に指を添えて開く。その中でさらに付箋を付けた三つの歌の、一つ。
『礫登り道無くなりて水柱 山鹿威し水魚の音色』
どうやら山…それも歩きで登るような所に何か水が関係するようだ。セルフォンを取り出し「呉 水柱」で検索をかける。一致した場所は、既に通り過ぎた場所、呉氏はあの時確かに島を指差した。では別の場所だろうか、しかしその先は水柱には関係なさそうなページが一致を示していた。
(これはもしかして…?)
若葉は少し気になることがあった。「柱」の文字、書き改めたのか線が多い。不恰好だが、もしかしたら「桂」かもしれない。改めて「呉 水桂」で検索をかける。上位一致に記された「桂の滝」と「呉市蒲刈町」の文字。
「これです!」
思わず声が出てしまった。詳細を見てみる、連動して地図アプリが起動する。山の中だ、ふた指で操作して広域を表示させる、やがて見えてくる現在位置を示すマーカー。隣の島、上蒲刈島の山中のようだ。ナビゲートモードに切り替えると、自身の横にある道が青く染まり行く方向を示してくれる。この島の市街地を避けるルート、少し山を走り次の橋へ。上蒲刈島の南側を走り、途中山を抜けて北部へ、そこから山奥へと一見では覚えられない道筋。どうかな、と小さく息を落として若葉はセルフォンを鉄馬のコントロールパネル中央に置いてみる、一応見ることはできる。ちゃんと凹凸に引っかかっているが、何かの拍子に落ちるのは確実。ほんの少し眉間に皺を寄せ、若葉はセルフォンをキャンバスリュックに仕舞った。要所要所で停車して確認しよう、走行中に落としたら今後の生活全般がままならなくなる。
キャンバスリュックを背負い直し、一応後ろを確認して、若葉はアクセルを捻った。
急勾配の道に難儀しながら山肌を行く。柑橘類の畑が多く、どうやって作ったのか崖に迫り出した駐車場などを掠める。やがて見えてきた次の橋、蒲刈大橋へと至る。安芸灘大橋程ではないが、高さと長さを持つ橋、必ず高さを持つのは下に船を通すためだろうかと土地がもたらす「事情」に思いを馳せながら、渡る。ドライブイン風の建物を見つけ、右折の茜を灯して入る。出発してからおおよそ一時間、休憩にはちょうど良かった。
「んー。」
片腕を上げて背の筋と腕の筋を伸ばしながら、若葉は建物の吹き抜けを抜けた。ベンチとテーブルが置いてある、休むのにちょうど良さそうだ。自販機長屋を抜けると、眼下には蒼い海が広がる。ほう、と若葉は感嘆の息を飛ばしながら頬を緩めた、朝の光を浴びた海は満天の星空のような輝きを届けてくれていた。
身体を解し、花を摘み、再び若葉と鉄馬は走り出した。切り通しの急な下り坂を抜け、海沿いに出る。海の輝きが眼鏡で散って、少し視界を奪われる。普通に走る分には問題ないが、対向車への視認が少し遅れそうだと警戒を強める。やがて…そもそも分岐らしい分岐が無い…案内板に従って左折する、海沿いの道から少しずつ外れ、山の中に入っていく。島の北側に行くなら傾斜を覚悟しないとならないと、若葉は心を引き締めたが、その行く先緑壁が黒に変わった事に安堵した。山を貫く長いトンネルが待ち構えていた。茜色の闇を抜けてまた緑の元へ、道はやがて小さな集落に繋がり、集落の中を走るまま海へと突き当った。一度立ち止まり、セルフォンで地図を確認した。ここから街を抜けるトンネルを潜る、その先の挙動が良くわからなかった、左折してこれから走る道を交差して、結果右折と同じ挙動になる。その先の山道を経て「桂の滝」に至る、はず。左折からの左折、左折からの左折、呪文のように唱えながら若葉は出発の茜を灯して、アクセルを捻った。
走ってみればすぐの事だった。トンネルを抜けてすぐ見えた丁字路を左折してから、道なり気味の左折、急勾配に慌ててアクセルを強めればその道は高架となって元いた道を超えていく。
「こ、これはジェットコースターみたい、ですね。」
上りきった、と思ったら急激な下り。下り切った、と思ったらまた上り。ジェットコースターと評したが、それは褒め言葉ではなく、どちらかと言うと非難めいた叫び。柑橘系の畑の真ん中を行く道、そこで若葉は気付く、これは畑で作業するための道、人を通すことより作業を優先させた道。故に畑に合わせて通し、利便性は求めていないと。
道端に小さく「桂の滝」と書かれた看板を見つけた。方向は間違っていないらしい、道幅はどんどん狭まり、あまり通る人がいないのか、道の真ん中に轍の逆で草葉が集まり腐り腐葉土となり盛り上がる。それはまるで畝の様。踏み越えると鉄馬の足を取られるので踏まないように進む、元より無かった人気は、果樹畑の減少で益々失われ山奥へと誘う山道へと変わっていく。ちょっと、いやかなり自分一人で行くことに抵抗を持ち始めた頃、不意に道が広がった。駐車場、いや転回場なのだろうか、木製の小屋と、公衆トイレだろうか小さな建物。そして道の反対側に、石碑が待っていた。
「桂乃滝精製所」
小屋にはそう木の看板が掲げられていた。ただ、人がいる様子は無かった。鉄馬の向きを変え、下り方向に頭を向けたところでスタンドを起こした。ヘルメットとグローブは身につけたまま、碑の方へと歩き出した、その先に入口らしき門が見える、案内板と思われるものも。その案内板が、この水が所謂霊泉である事、昔の大戦で新型爆弾が広島で使われた時、何も口にできぬほど傷を負った人でもここの水は飲めた事、そのことから献水として用いられていることが分かった。
一瞬鳥居と見紛う木門を潜った。荒れた石だらけの山道、原付では到底登れない道が…そうだこれは沢、沢を登る瓦礫道だと若葉は理解した。線の細い方だと思う、そんな自分で登るのは大丈夫か、一応階段状に整備されている。今履いている靴も歩きやすいスニーカータイプの靴…歩きやすいが、水濡れにはマイナスだ。湿度が高いのだろう、濡れたように黒光りする礫を踏み締めた。
(ぐぼぼぼぼっこん)
若葉は何事かと肩をびくりと震わせた、何処からか到底自然音とは思えない音が響いた。野の獣でもその様な鳴き声は覚えがない。
(ぐぼぼぼぼっこん)
また鳴った。若葉は周りを警戒しつつ、一歩、また一歩を刻む。
(ぐぼぼぼぼっこん)
音が近い、それは右手から聞こえてくるようだ。慎重に覗き込む。そこには穴があった、上流から流れてくる水が、どうやらその穴に吸い込まれているようだ。その方向は、先ほどの小屋だろうか。
(ぐぼぼぼぼっこん)
その穴から響いているようだ。一定間隔で響く音、水が引き起こす音…それが意味するものは…若葉は眼鏡の鉉に指を添えて、目を細めて思考の海に漕ぎ出す。
『山鹿威し水魚の音』
点と点が線となり、繋がった。やはりここで間違いなさそうだ、と若葉は微かに口角を上げた。理解した「山、鹿威し、水魚の音」なのだと。
「これが『鹿威し』で、水魚なんですね。」
恐れを払うため意図的に声に出した。おそらくこれは取水に関する穴、流れこむ水が何処かに溜まるのか一定量を越えると音を発する、鹿威しのように。そしてこの音、パイプか何かに共鳴しているのだろう言わば水琴窟…いやそんな綺麗なものではない。反響が生み出す低音は、木魚ならぬ水魚。句の準が逆、あるいは父は下りる時にこの音を聞いたのかもしれない。何にせよ、いきなりこんな音に出会ったら、驚いたことだろう。その時の様子を想像して、若葉は軽く吹き出すのだった。
礫道を登る、あまり状態は良くない。杭を打ちつけて木を横に渡しているが、浮礫がその上を覆い歩きづらい。加えて、沢の水が道にはみ出して所々水溜りのようになっている。石を避け、逆に水を避けるため石を踏み、歩みは安定しない。手入れが行き届いていない、そう思えた。
(今、真ん中くらい、ですか?)
水溜り、いやもはや沢の一部か、水場を渡って一度背筋を伸ばし登り道の先を見た。何か建物のような物がある、流れ出す水らしきものも。ゴールから逆算して、今いる位置に重ねてみる。
「あ、あれ?」
道の途中が曖昧になっていた。先に道はある、後に道はある、だがその間が道とは思えなかった。慎重に歩みを進めてみる、思わず若葉は「あ」と言葉にしてしまった。
「土砂崩れ…ですか。」
左の山肌が崩れ、登山道を埋めてしまっていた。用心深くみると、礫礫の下に登山道の木杭が見えた、だからルートは大まかに分かった。行くか戻るか、一瞬惑ったが若葉は「進む」を選んだ。一歩、一歩、体重を乗せると砂利が崩れる感覚が伝わる、慌てて別の足場を探して一歩を踏む。登山道の名残が覗く場所をなるべく選んで進むが歩みは遅い。でも、それでも確実に、刻む。
「つ、着きましたー。」
着いたとは言い難い、ただ行き止まりに到達した感じだ。若葉の目の前には二本の塩化ビニルのパイプが突き出され、そこから絶え間なく水が流れ出ていた。勢いはそれなりにあり、アーチを刻んでいるが「滝」には程遠く、「水柱」にも見えない…綺麗では、あるけれど。やはりあの句は「桂」なのだ、変な音と、歩きにくい道に難儀しながら登ってみたら、滝にも柱にも程遠い「桂の滝」があったとボヤく歌。
【礫登り道無くなりて水桂 山鹿威し水魚の音色】
時を超えて、同じ場所で似た気持ちを共有した。でも、その時父がどう言う表情をしていたのか、離れていた自分には想像がつかない。五年離れていたのだ、自分の人生の四分の一だ。分からなくて当然と思う自分と、分からないことがやるせ無いと思う自分がいる。若葉はふるふると首を振り思いを振り払うと、回頭百八十度下り道へと針路を変えた。
一般的に「山は下りの方が危ない」と言うがその事を若葉は身体で実感していた。ひとの歩行は「安定からの不安定」だ、安定した直立姿勢から「崩して」次の一歩を模索する、上りより、下りの方が体重移動の方向性が「崩壊」の方向と一致してしまう。一言で言うと、危ないところを踏んだら一気に転ぶと言うこと。行きよりも一歩を短く刻み、むしろ半歩半歩と刻み、降りていく。だが、どうしても崩れそうなところを避けて、大きめの一歩を伸ばさないとならない場所がある。目測良し、次の一歩は、あそこに…
(ずる)
「きゃっ!」
着いた先が一気に崩れ滑った、本来先に行く足が受け持つはずの自重が礫の斜面が回転し逃げ、斜めに抜けるベクトルに変わる。残った足は当然、前の足が着いてから動くつもりなので生まれたギャップは身体を固めたまま姿勢を崩し尻餅をつく様に下向きの力に変わる。
(あれ?)
来るはずの痛みが来なかった、下肢に響くだろう痛みがない代わりに、両脇に圧迫感があった。後頭部と背中に温かみがあった。誰かが両脇に手を通し二の腕を抱えている、視線を下に送る、桜色のコートの下に海の青。この青には、若葉は見覚えがあった。
「く、呉氏さん!?」
返事は無いが青い手は自身に上向きの力を加え、超重機船の様に持ち上げてくれる。礫を滑っていた筈の足が、みるみる自身の真下に戻ってきてやがて自力で立てる様姿勢が戻った。そこでようやく若葉は振り返る、予想通り呉に目と手足が生えたかのような青い姿が、そこにあった。
(こくこく)
良かったと言わんばかり、呉氏は胸に手を当てて何度も頷いてみせた。それから、礫の坂を指差した。とんとん、若葉の肩を叩き、その身を横向きに、そろそろと前に出ると、指差した通りの場所を凝視しながら一歩一歩進む、その場所は崩れる事なく呉氏の体重を支え切った。
(くいくい)
招く手から地を指す青い指。その指が示す先、若葉も倣って同じ場所に足を着く、大丈夫崩れない。また呉氏が一歩降りて振り返り招く。若葉はゆっくりと青い背を追って降りた。
*
「本当に、ありがとうございました。」
鉄馬の元に戻った若葉は、深々と呉氏に頭を下げた。でもどうやってあの場所に?と問うと、呉氏は小刻みにひょこひょこと照れ隠しのように踊り、最後に人差し指を立てて口元に添えた。内緒、と言う事らしい。滝の上の段にある小屋の影に隠れていたとしても、足を滑らせた自分の背後を足音を立てずに捉えるのは、不可能に近いと思った。
(ぱんぱん)
この話はおしまい、とばかりに手を叩き、呉氏は東を指差した。残りの歌二つは、この先東にある、と。
「あちらですね、分かりました。」
若葉はそう言うと鉄馬にキーを差し、イグニッションボタンを押した。眠りから目覚めた鉄馬が、ぼぼぼぼと鼓動を刻む。行ってきます、そう若葉は頭を下げ、鉄馬に跨り地を蹴り発進した。呉氏は手を振り続け、若葉の後ろ姿が道の果てで消えたのを確認すると、逆方向の山の方角を見上げた。そして一度だけ若葉が去っていた方を見やり、山を上る道へと歩き出したのだった。
*
二の句、了
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