第2話【一の句】野呂山
「これで、良いですね。」
船の側面を模した鉄板から、白魚のような指が離れる。端を摘んで揺らしてみる、鉄板は鉄馬の尾となり揺らぐ様子はない。船の側面に錨印、「大和のふるさと呉市」と記され、この一枚だけに与えられた番号が間接光を反射する。
昨日の夕方、急いで市役所で原付の持ち主変更を行い、ナンバープレートの再交付をしてもらった。手続きを終えて父の寮に戻った時にはもう薄暗く、手元が見えにくかったので付け替えは朝一番に行うことにした。十字のネジで二箇所、しっかりと留めた。
(ふう、これで大丈夫です。)
一度部屋に戻り、上着を羽織る。桜色の薄地のスプリングコート、首にガーゼマフラーを巻き、隙間を埋める。父の残したキャップヘルメットもレザーグローブも少し…いやかなり大きくて、ヘルメットは顎紐をキツめに締め、グローブは普段使いの手袋の上から着用した。キーをシリンダーに差し、若葉は一旦止まる。昨夜、何度も原付の乗り方の動画を見た。エンジン始動から、騎乗姿勢、道路状況確認、停車、ガソリン補給などなど。まずは原付に慣れること、歌を追うのはそれからと、何度も見た地図アプリを思い出す。市役所と銀行で諸々の手続きを済ませる。練習を兼ねて、そこへは原付で行く。大丈夫、少し速い自転車と思って、交通ルールを厳守すれば問題ないはず。若葉は両手をハンドルに乗せて、スタンドを下すべく原付を押した。意外に重く、原付は前に進まない。
勢いがつきすぎないようにと、無意識にブレーキを握っていたことに若葉が気付くのは、一分ほど動かぬ鉄馬と格闘したあとの事だった。
*
鉄馬に跨り、念入りに地図アプリを見直す。教習実技試験前のようにコースを頭に叩き入れる。本通りに出て山を目指す、街を斜めに切る通りに入り、市役所へ。市役所から駅前を経て、戻りしな銀行へ。そして商店街で昼食を買う。午後から、一つ目の歌の場所…遠く遠くの高い山を目指す。「呉市」の大きさを鑑みて、片道一時間強から二時間と予測している。それより遠いと、市を出てしまう。若葉はもう一度顎紐とグローブのベルクロを確認してハンドルを握った。
寮の前の道から本通りに入る、最初の二段階右折。右折するのに左側にいることが、もっと言うと道路の左側を走りながら右向きの橙を灯すことに、脳が混乱する。面舵九十度、本通りに乗ったは良いが、停止線より先に停まるのも何か違和感がある。大きなアーケードの枝葉となる通り、その名が記された看板が見える位置に停まる。正面には大きな峰が、あれは確か「灰が峰」と呼ばれていたはず。信号が青に変わる、控えめにアクセルを捻り動き出す。ずっと左端を行くのが原則ながら、路線バス、荷下ろしのトラック、路駐する乗用車がいく手を阻む。右後ろを確認しては、障害物を躱していく。
(これは…厳しいです、ね。)
想像以上の「圧」に若葉は寒風に晒されたかのように首をすくめてしまう。その動きがハンドルに伝わり、少し動輪の動きを乱す。自転車感覚で乗ると速度が高く車が近い、恐怖を感じる。乗用車感覚で乗ると、速度が足らず守りも弱く、やはり怖い。しかし…
(あれ、でも結構…心地よい、ですね。)
風を受けて烏の濡れ羽色の髪が泳ぐ、山肌を抜けてきた微かに緑の香りが混じった空気が鼻腔を抜けて背に抜けていく。若葉は思い切り鼻から風を吸い込み、ゆっくりと吐いた。のんびりとはしていられない、昨日十数分かけて歩いた道は、今日は数分とかからない、すぐに別の大通りへと切り替わるはずと若葉は道の先を見据えた。
*
「ふう。」
アパート駐輪場の陰の中、慎重に右足をセンタースタンドから伸びる鉄枝に乗せる。はっ、軽く声を上げハンドルに片手を乗せたまま、右手で後部キャリアを引き上げる。ごっとん、まるで「よっこらせ」と鉄馬が重い腰を上げたかのよう。今日四度目の揚陸、しかしまだ慣れない。原付と言うのは自転車よりはるかに重い、しかし多分他の自動二輪よりは遥かに軽い、筈。力加減がまだよく分からないが故に、余計な力を込めている自覚がある。ハンドル下の小荷物フックからビニル袋を手に取り、寮であるアパートに入った。
市役所での手続きを終え、川沿いの道を下り駅前通りを走った。本通りに戻った所で銀行で口座停止手続き、そして商店街に寄り昼食とおやつを買って戻った。予定していたタスクはこなすことが出来た。あとは相続関係をお願いしている弁護士からの連絡待ちと、四日後の納骨を終えれば「やるべきこと」は終わる。同時に大学から許可された忌引き休み日数全てを消化した事になる。
ローテーブルの上に昼食の入った袋を置く、隣にエンディングノートも置く。今、自身で行う手続きは全て終えた、あとはその日まで「やりたいこと」を行う。その前のゲン担ぎ、弁当の蓋を開ける、商店街の比較的新しい揚げ物屋さんで買ったヒレカツ弁当だ。揚げたてのまだ温かさを持ったカツを頬張りながらノートを開く。手続き関連に「済」の印を記し、奥へと進む。ご飯をかき込む。ノートの自由記入欄、その先に進む。
『緒を締めてのろのろ上る高き峰 海眺むればそは弩級のふね』
この句を頭に数ページに渡って十句ほど記されていた。納骨の日…東京に帰る日までの日数を考えると、一日に三句は追わないといけない計算だ。いや、全部を追う必要はないのだけれども。まずは馴らしとして、この山登りの句を今日追いかけるつもりだ。幸い、昨日呉氏がヒントをくれた。呉の東方面で、高い山だ。
食べ終えた持ち帰り容器の蓋を閉じ、輪ゴムで止める。エンディングノートを閉じる。はらり、ノートから何かが落ちた。若葉は自身の膝の上に落ちたそれを拾った。
「呉氏さんの、名刺。」
若葉はセルフォンを取り出すと、名刺に書かれたツイッチャーのアカウントを検索した。実行…一致、呉氏。若葉は「フォローする」のアイコンを押下すると、また名刺を挟みエンディングノートと一緒にセルフォンを仕舞い、立ち上がった。
*
再び鉄馬に跨り本通りを走り出す。今度は市役所方面には行かず、直進する。片側三車線の道路は時間を問わず交通量が多く、若葉の心を萎縮させた。
(でも、まだ、始まったばかりです!)
緩やかな上りに変わり、右直を示す青看板をくぐる。竹原方面へと向かうらしいのだが、その前のトンネルが大きな壁だった。一言で言えば怖い、どうやら長いトンネルらしくそこの隅を走り続けるのは、経験の浅い身で行くのは抵抗があった。
若葉は直進を選んだ。少しだけ遠回りになるが、山を抜けた先で合流する。アクセルを捻る手を強める。緩やかに見えた坂は急激に傾斜を増し、山と山の間の切り通し道へと誘う。
(これ、良いですね…)
峠を越えると空が視界いっぱいに広がる。こちらは片側二車線、トンネルができる前はこちらが主道だったのだろうと若葉は推測した。やがてまた、トンネルから続いてきたであろう大きな道へと合流した。
街を貫く長い直線を走る。信号待ちで周りを見るにこの辺りは「広」というらしい、「広島の中の広」紛らわしさが可笑しくて、若葉は頬を緩めた。道沿いの店舗も賑々しく、この部分だけを切り取れば、呉中心部よりも発展しているように見えた。ただあまり道幅は広くなく高い縁石の歩道と、追い越しの乗用車に挟まれると圧迫感が強く、すぐに頬は引き締まる。やがて道は片側一車線に狭まり、山を貫くトンネルを抜けた。
より小規模となった町を抜ける。町と町の間の道は、勾配がキツく回転半径も狭い。目まぐるしく変わる環境に悲鳴をあげる鉄馬を必死に御しながら、若葉は町と道の作りに思いを巡らせた。土地が足りないのだ、安定した平地は川沿いの砂州が少々、それ以外は海からすぐ山になる。そこに道を通せば、こうならざるを得ない。しかし…
(ひとや原付には、優しくない道です。)
そこからの数キロは、とても長く感じた。
*
広ほどではないが、発展した街並み。道沿いの建物の向こう、海側には多くのクレーンが見えた。造船の町、その入り口に若葉はいた。信号待ちで眼前の看板を見上げていた。
『左9キロ野呂山』
呉氏に教わった「とても高い山」で当たりは付けていた、呉市の最高峰。「のろのろと」の文句も「そこ」にかけているのだと想像できた。信号が青に変わり、左の橙を灯し取舵九十度、広めの丁字路を曲がり、住宅街を走る。
(ええええ!)
二キロほど走っただろうか、先刻「海からすぐ山になる」と若葉は分析したが、まさかここまで急に登山道になるとはと、心の中で悲鳴を上げた。そして最高峰へ至る道、勾配も回転半径もこれまでの比ではない。加えて若葉は、いわゆる「ペーパードライバー」で山道の経験は無かった。自重に負けて、目に見えて落ちる鉄馬の速度を目一杯アクセルを捻って持ち直す。エンジンの咆哮が、まるで悲鳴のように甲高く響き渡った。一方、狭いカーブのたびにどれほど傾けて良いか分からず急減速して、ふらふらと曲がるのを繰り返した。
(つ、つきました?)
九十九折りでふらふらと、見るに耐えない踊りを繰り広げること二十分ほど、若葉はロータリー状の道路をくるくると回っていた。ラウンドアバウトの一種だろうか、円から伸びる道がいくつか。行き先を示す看板はあるのだが、読み解こうとすると左折専用レーンに呑まれてしまうため、若葉は何度も周回して行き先を見極めようとするが、土地勘のない自身にとっては疑問を重ねるだけであった。
かろうじて分かる、おそらくは山頂方面に向かう道を選ぶ。なるべく速度は上げず、時折現れる道端の小さな看板を読み、「ビジターセンター」と書かれた場所の駐車場へと、鉄馬を進めた。生垣の向こうに凪いだ水面が見える。疲労の溜まった身体で、センタースタンドを起こし揚陸。
「つ、疲れました。」
意識的に言葉を紡ぐ、声が少し上擦っているのが分かる。指先が少し震えるのは、ハンドルを握り長く振動に晒されたからか。初めての原付で山登りは無謀だったか、いや勾配が予想外だったかと複数の反省文を心に流す。少しおぼつかない足取りで駐車場横の地図看板へと歩み寄る。この辺りの名所を案内してくれているはず。ここでも、ここに至る道でも海を見渡せる場所は、中腹の一箇所だけだった。ちゃんと、山頂付近で見渡せる場所があるはずと、現在位置から伸びる道を、指でなぞる。
「今いるここが氷池で…この先?」
指が言葉を捕まえた「かぶと岩展望台」と言うらしい、看板にはこの先海寄りの場所に展望台があることを教えてくれた。そして「かぶと」の名、「勝って兜の緒を締めよ」の諺が蘇る。句始めの「緒を締めて」は急な上り坂に難儀するさまを、ヘルメットを兜に見立てて描いたと思っていた、実際辛かった。だがこの地に緒に繋がる「かぶと」の名があるのは偶然が出来すぎている、と言うより…。
「和歌というより駄洒落ですね。」
呆れの混じった小さなため息を溢すと、若葉は眼鏡の弦を持ち上げ眉根を上げ、唇を引き締め踵を返した。あと少しなら、ちゃんとした休憩はその時取れば良い。イグニッションボタンを押す、キンキンと疲労を訴える鉄馬のエンジンが、「また?」と問うように唸り声を上げた。
*
案内にあった道を進む、舗装はされていたがその道は乗用車一台進むのも困難な細道だった。道に直接案内が書かれている辺り、公道では無く私道なのかもしれない。両脇で包むように茂る木々が影を作り、まるで夕暮れのよう。若葉には道の先に光が見えている、故に正しいと信じて低速で進む
木々の屋根が終わりを告げ、光が、弾けた。
「凄い。」
切り拓かれた地に空がいっぱいに広がる、海ではなく空の蒼。地の灰色と灌木の緑が、ある一点で空の青に切り替わる。木で組まれた東屋と柵が見えた。少しアクセルを捻り、少しでも早く辿り着きたいと急く。明らかに車道ではない道が始まるところでちょっとしたスペースを見つけ、そこに鉄馬を停めた。ヘルメットとグローブをシート下に納め、一時間以上圧迫されてボリュームを失った髪を、サイドミラーで確認しながら手櫛で梳く。後ろ髪も束ねるべきだったか、風にさらされてひどく乱れている。
一歩二歩、東屋を持つ展望台に至る階段を上る。若葉は東屋のベンチに座る影を捉えた。影の中にあっても分かる、四角い身体に青い姿。
「呉氏さん?」
ごとり、木の床を踏んだところで若葉は声をかけた。どうして今ここに?心配してきてくれたのか?でもどうやって?若葉は心の中で首を傾げた。声をかけられた呉氏は少しだけ身を捻って若葉を見ると、ひらひらと手を振ってみせた。ひょい、身軽に腰を跳ねさせ、東屋を出る。空の青さに、呉氏の青さが溶ける。くい、さあどうぞと言わんばかりに掌を空に向け、展望台の先へと差し伸ばした。その示す先に、若葉は歩む。
「これは!」
目の前に広がる空の青と、見下ろす先に海の翠、そして島々の緑が連なり絵を成していた。海から山が生えたような島々が遠くに近くに、一番近い島は細長く大きな島に見えた。だがそんな島々よりもここの目線の方が高いのが面白い。ちょいちょい、呉氏が指で招いた。その指が刺す先、展望台の案内板を見る。真下の青白い橋から始まる細長い島に見えたものは、下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島と四島が重なって見えたものらしい。
『緒を締めてのろのろ上る高き峰 海眺むればそは弩級のふね』
弩級…セルフォンを取り出し言葉を検索してみる。弩級…とても大きなものを示す、昔の軍艦から取られた軍艦の方式や大きさを示したもの。この歌は、苦労して上ったこの場所で見た呉の島々が大きなふねのようだ、と父の感嘆を歌ったものだったと、若葉は理解した。
嫌いだと思っていた父と、時を共有せずに同じ思いを持った事を、若葉は不思議と悪くないな、と感じていた。
にぎにぎ
過去に飛んでいた心が、呉氏の招く掌で引き戻された。若葉は呉氏を見る、掌を合わせ開き、閉じる。本を示すジェスチャー。
「例のノートですか?ありますよ。」
キャンバスリュックからノートを取り出す、その横に収めていたビニル袋の存在を思いだし一緒に取り出した。それは、ヒレカツ弁当を買ったお店のお向かいにあった「フライケーキ」の看板を掲げていた店で買った物。揚げ饅頭…ぱっと見は沖縄ドーナツのサーターアンダギーのようだった。
「良かったらどうぞ。」
ノートを小脇に抱えながらビニル袋の中の紙包みを開き差し出す。呉氏は小さく跳ね、ぽむぽむと掌を小さく叩き喜びの意を表した。一つフライケーキをつまみ、ひとより大きな口に放り込んだ。若葉も、ビニル袋を手袋代わりにフライケーキを半分ほど一口で頬張る。甘さを控えめにした漉餡が、生地の甘さと揚げた香りが混じって大変に美味。疲れた身体に甘味は沁みる、ふうと餡子の香りを吐いた息と共に飛ばす。
若葉が食べ終わるのを待ってから、呉氏はまた掌を閉開させた、ノートを見てと言うかのように。ぱらり、今到達した歌のページを開く。ぱたぱた、このページではないらしい。次のページを開く、呉氏はページの中の歌を、いくつか指差した。これと、これと、これ。そして展望台の外に向け大きく腕を伸ばした、その先端の指は人差し指だけが立つ。示した先は、弩級のふねと称された島々。若葉はノートから目線を上げ、島々を見た。
「今指差した三つの歌が、あの島々で詠まれたという事ですか?」
こくこく、呉氏は身体全体で頷いてみせた。わかりました、呉氏に力強く頷いて見せた。それは、またこの先も歌を追っていくという決意表明。呉氏はそんな若葉の意思に納得したのか、小さくバイバイと手を振ると身を翻し、軽快にスキップを踏んで駆け出していった。
若葉はもう一度弩級のふねを見る、下の橋から渡ってその先、そのまた先まで橋で繋がっていたはず。島の道は全くわからないが、そこを走ったらとても楽しそうだと若葉は思った。セルフォンを取り出し、一枚写真を撮った。ロックするとともに時間を確認する、ヒトゴまであと少し、今日のところは帰ろうと若葉は海を背にした。
長く海を見ていたつもりは無かった、ほんの十数秒だったはず。しかし、呉氏の姿は道の元にも先にも見当たらなかった。
*
一の句、了
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