君呉、多島美、歌追(きみくれ、たとうび、うたのおい)〜女子大生が、呉の景色を追いかけるお話

白狐びゃっこ

第1話 序幕

 山に囲まれた田園地帯が、勢いよく後に流れていく。暗転、トンネルに入ると窓に自身の姿が映り、明転…また別の山間の景色が広がる。しかし、その女性の表情は景色に左右されず凪のまま、いや女性と呼ぶにはまだ幼さが残り、少女と呼ぶには大人と呼ぶべき部分が勝る。西に向かう新幹線の車窓、しかし彼女は景色を見ていなかった。ただ、惚と己の中と問い合い続け、大きな丸眼鏡に朝の陽が当たり白く光る、それは彼女の目を隠しその表情を読めなくさせる。眼鏡のフレームに触れるか触れないかの長さで切り揃えた前髪の向こう、ほんの少しだけ、彼女は眉を動かした。凪の表情に「不機嫌」が乗る。内側に向いていた自身の心が、過去のあれこれを思い出していた意識が、巡り巡って「一昨日」に辿り着いた。大学の構内を歩いている時だった、セルフォンが鳴り、トートバッグから出せとばかりに振動した。取り出すと「0823」から始まる、未登録の番号からだった。心当たりは無い、首を傾げながら恐る恐る緑のボタン表示をスライドさせた。


『天宮若葉さんの携帯電話でよろしいでしょうか。』


 見知らぬ電話番号の聞き覚えの無い声が、自分の名を呼び、そして遠い呉という土地で父が亡くなったことを教えてくれた。膵臓癌との事だった、進行が早くあっという間のことだったらしい。でも、それでも連絡を取る暇もなく亡くなるような物では無いはず。自分に一報もなかったことが「父らしい」と言う納得する思いと、「連絡くらいできたでしょう?」と言う不満が募り、ない交ぜとなる。


(今更、です。)


 また思いが過去に飛ぶ、五年前の冬に飛ぶ。若葉は腰まで真っ直ぐに伸びる烏の濡れ羽色の髪をかき上げ、背中の方に流した。御簾は、車内灯に虹色を返した。

 五年前、高校への進学が決まったころ母が亡くなった、交通事故だった。当時は横須賀に住んでいた。高速道路から降りてきた乗用車が、高速道路を走っていたペースのまま一般道を走り、横断歩道を渡り始めた母をはねた、即死だった。両親の仲は良かったと思う、消沈した父の背中、そして四十九日が過ぎた頃、造船技師の父は何も言わずに呉へ単身赴任した。

 高校生の三年間は、父も母もいない家で実質一人暮らしだった。


(♪とんとんたんととん♪)


『間もなく、広島、広島です。』


 車内アナウンスで現在に引き戻された。いつの間にか大きな街に差し掛かっていた。野球場の向こうに見知らぬ町並みが広がる。若葉は立ち上がり、爪先立ちとなってスーツケースを下ろす。まだ照りも無い新品のリクルートスーツに、最初の皺が刻まれていた。


  *


 案内板に従って、在来線ホームへ至る階段を、人の流れに逆らって降りる。丁度列車が来たようだ。二両編成、人の逆波が治まったところで乗り込む。全てがボックス席、勝手が分からなかったが、先達が背もたれを動かして順方向へ席向きを変えたのを見て、それに倣った。空いていたのでトランクは横に置いた。また、景色を見ずに窓を見る。

 二年前、大学に合格した。横須賀から八王子は、通えなくは無いが少し辛い距離。これも義務と、合格した事とキャンパスの場所を電話で父に告げると、「一人暮らしすると良い。」と言われた。メールでいくつか大学近くの物件のURLが送られてきたが、そのどれでも無い物件を自分で選んだ。一年次が始まり、一人暮らしには慣れていたものの、新しい生活に慣れず難儀した。GWに入り、ようやく落ち着いたと横須賀に帰ったら、家が…母の思い出が、全て処分されていた。父に確認と抗議の電話をかけたら「これで良いんだ。」とだけ返された、それ以降父とは連絡をとっていない。学費や生活費は、決まった時期に振り込まれていた。


 トンネルを抜け蒼と碧が目に飛び込み、初めて若葉は景色に気を向けた。海が近い、山が近い。山と海の間の僅かな隙間を、列車と乗用車が走る。横須賀も海に隣した街だ、でもここまで海が近くはない。道路のすぐ横から海が始まり、向かいの見知らぬ島へと繋がる。


(いいですね、これ。)


 丁寧語で思考するのは、若葉の一つの癖だった。自身をも客観視してしまう癖。五年前からの、癖。

 藍に近い青の横須賀とは異なり、翠に近い青の瀬戸内海。若葉は初めて「綺麗だ」と思い、しばし過去へ目を向けるのをやめ、景色を楽しむことにした。沿線にツツジが咲いているのが、よく見えた。


  *


 トランクの重さに難儀しながら、呉駅の階段を上り改札を抜け、また階段を下る。目の前にはロータリーが広がり、街の発展度を示していた。しかし若葉は「あれ?」と心の中で首を傾げる。商業ビルばかり見えて、商店・飲食店の類が見当たらなかった。一応、経済学部に籍を置く身、すぐに心当たりに行きつく。駅前が発展していないという事は、駅よりも重要な「導線」を作る何かがこの街にあるのだ。その線が、駅前まで届いていないということ。

 ロータリーで待つタクシーに乗り、行き先を告げた、まずは病院。着いてみると、歩いて行ける距離だった。タクシーを待たせ、受付で苗字を名乗る。最後、自分のサインを記入するだけの書類が幾つかと、父の「遺品」を収めた紙袋を受け取った。紙束類が幾つかと、小さな封筒。どうやら衣類の類は処分したようだ。またタクシーにのり市街の中心を弧を描いて貫く道を行く。川沿いを走る道、やがてそれは別の大きな道に繋がる。その道の両脇は商店で賑わっていた。なるほどこっちが導線の本流かこの道の先にこの街にとって重要な施設がある筈、と若葉は微かな笑みを浮かべた。

 その大通り「本通り」沿いから一本小道に入った所に目的の葬儀屋があった。電話を寄こしたのもこの葬儀屋の担当者だった。父は、事前に葬儀屋に話を通し、各種手続きを委任して生前準備を進めていたらしい。開かれた木戸を潜り、スタッフに「天宮」の姓を名乗るとすぐに担当者が駆け付け、頭を下げた。どうぞ、と案内に従った先は広めのリビング程度の広間に設えられた、祭壇と僧侶が待ち受けていた。


 お経がBGM、家族葬プランを選択したため立ち会うのは若葉のみ。遺影の中の父は記憶の中と変わらず、棺の中の父は幾分痩せていた。土気色に染まった肌が、もう帰らぬ人となったことを教えてくれるが、若葉には実感が湧かなかった。父との別れは、もう二年前に…いやもしかしたら五年前に済んでいたのかも知れない。

 葬儀屋の家族控室で独り、通夜振る舞いの弁当を食べる。たった一人でも「振る舞い」と言うのだろうか、そう詮無いことを思いながら若葉は送られてきた電報に目を通していた。「行儀悪いかも?」と思いつつ、それを咎める者はこの場には居ない。父の会社関係が多かった、きちんとお別れしたかったと惜しむ声と急逝を嘆く声。職場での父を知らない、しかし自分へとは違い、きちんとコミュニケーションが取れていたことに、また少し寂しさを交えた苛立ちを覚える。かり、箸の先を噛んでいることに気付き、若葉は急ぎ通夜送りを食べ進めた。


(あれ、これは…)


 一通だけ奇妙な電報があった、ただ一文古風なカタカナ表記で「コンドハオクサントクレヲメグッテクレ」と。「今度は奥さんと呉を巡ってくれ」なのだろうか。唐突に出てきた「母」の存在に、若葉は戸惑いを覚えた。


 すっかり店じまいされ閑散とした大通りを、花を抱えて歩く。遺品の中にあった免許証と各種書類に記された住所は、葬儀社から歩いて数分の距離だった。時刻はフタマルを少し過ぎたところ、しかしこの街の「夜」は少し早いようだ、通りに面した店の多くがそのシャッターを下ろしていた。


 二ブロック程海の方へ歩き、一本山側に入った所に父が住んでいた「寮」があった。築二十年くらいの、街並みに比べると少し新しめに見えるアパート、造船会社が丸ごと借り上げて寮として提供していたらしい。遺品袋からキーケースを取り出し、書類から号室を念入りに確認して鍵を刺し、回す。


(かちゃり)


 街灯の光が薄く部屋の中を照らしていた。家財道具の類は見当たらない、すでに処分済みの様だ。カーテンも外されており波面加工硝子が街灯の光を受けて間接光を生み出していた。ブレーカーを上げて室内灯のスイッチを入れる。広めの2DKの部屋、一つ目の部屋には小さめの卓と座椅子、二つ目の部屋の隅には小さな遺影台に母の写真と位牌が立てられていたことに若葉は安堵した。押し入れを開ける、新品…いや打ち直しした布団一式が業者の袋のまま待ち受けていた。


「もう、用意が良いのか悪いのか、分かりませんね。」


 若葉は眉を困ったように下げながらも微かに口角を上げて嘆息した。壁を感じていても、やはり父のひとらしい一面が見えたことが少し嬉しいようだ、と自身を客観視した。


  *


 二日目は朝から大わらわだった、朝一番マルハチからの告別式を皮切りに、分単位で火葬、骨拾い、初七日法要からの精進落とし。予定が立て込んでいるようで、葬儀社も火葬場の職員も丁寧な対応をしてくれていたが、その口調はやや忙しなく、若葉はあれやこれやを噛みしめる間も無く、気が付けばヒトサン。骨壺を抱えアパートに戻り「ふう」と息を吐き座り込んだ。とりあえず、母の位牌の横に骨壺と父の位牌を置く。そして線香を…本数が分からないので三本立て、火を灯した。生活感の無い部屋に、清涼な香りが漂う。若葉は座椅子に座り、遺品袋の中身を検めた。


(本当、ほとんど準備済でした。)


 その理由が手にした一冊の本に在った。「もしものためのエンディングノート」と表紙に文字が振られていた。ご丁寧に付箋が貼られ、優先順位も記載されていた。既に「済」の赤印が描かれているページが多々あった。家財道具の処分、葬儀社の手配、死亡時の病院への依頼事項、そして「これから」行う事。保険、クレジットカードの停止、銀行への連絡、相続関係で依頼済み法律事務所への連絡、警察署への免許返納、死亡届健康保険年金など公的機関への届け出、相続完了までに使うまとまった現金などなど。若葉は深く溜息を吐いた。


「葬儀の忙しさは故人を忘れるためと言うけれど、本当にやることが多いですね。」


 とりあえず、エンディングノートを卓に置き、セルフォンをその横に並べる。ふう、小さく息を吐いてからノートに記された番号を押下した。あまりこういった電話はしたことが無い、これから社会人になるためにこういう経験は必要とは思うものの、こうして見知らぬ人と話すのは慣れが必要で、かつ自分にはそれが無いと若葉は己を鑑みた。


「──。」


 契約の内容や法律が分からないので、何度も聞き返してメモを取る「契約者が亡くなりました、はいそうですか」では終わらない。証明のために必要な書類の取り寄せ…だからまず電話からだったようだ…送られてくる書類に捺印しなければならない、父の印は遺品袋にあったはず自分の印鑑は持ってきていたか?などなど。数軒の電話、しかし内容を理解しきちんと処理するためには小一時間かかった。若葉はすっかり精神的に疲れてしまった。


「ああ、もう!」


 予定していた電話を全て終えた時、思わずノートを放り投げてしまった。なるほど、慣用句の様に「古い人間は憤りを覚えた時『ちゃぶ台』をひっくり返すと」いうがその気持ちが良く分かった。がさり、落ちた音が思っていたより遠くに聞こえた。若葉は部屋の中を見回す、ノートは無い。投げた方角と込めた力を視界に思い浮かべてみる。開け放った窓から、落ちてしまったようだ。


(いけない!)


 個人情報満載のノートだ、人に見られるのは良くないという事は瞬時に理解した。若葉は玄関に急ぎ、一応ちゃんと鍵をかけて通りに面した反対側へ駆けた。角地に立つアパートだ、道に出て、角を面舵九十度。その視界を、青が埋め尽くした。


(え?)


 青い四角い身体に、手足が生えたかのよう。カタカナで「クレ」と描かれている。人ならざる何かに、若葉の足は減速し、停まる。くるり、青い身体が翻った、呉の文字に目と手足が生えたような、自分と同じくらいの背丈の「何か」。いや、呉の街々で何度か見たような気がする。呉を代表するマスコット妖精だったか…。と、その青い手に、件のノートを持ち開き見していることに気付き、若葉は恐る恐る口を開く。


「あ、あのっ!そのノートは、私のなんです。」


 まん丸の目が、若葉を捉えた。ぱたん、ノートを閉じて両手で差し出してきた。受け取り胸で抱え、若葉は軽く会釈する。す、どこから取り出したのか青い何かが両手で名刺を差し出していた。若葉は少し警戒しつつ、習ったばかりのビジネスマナーを思い出しながら両手でそれを受け取った。


『広島県呉市公式キャラクター呉氏です。』


 名刺にはツイッチャーのアカウントと共にそう表記されていた。


「えっと呉氏…さん?」


 こくこく、両拳を握り口元で揃えて上下に振り、嬉しそうに頷いて見せる。呉氏と名乗る謎の生き物は掌を合わせ、何度も開け閉めして見せた。それはまるで、本のページを捲るかのよう。その意図に気付いた若葉は、名刺をエンディングノートに挟み、そのページを開いた。呉氏の手は止まらない、もっとかノートの奥に進めていく。中程にたどり着く、呉氏の手は止まらない、もっと先へ。付箋の林を抜け、もう終わりと言っていい位置まで。漸く呉氏の手が止まった。


「この辺りですか?」


 こくこく、頷いた呉氏は一歩進み、開かれたノートの片隅を指さす。そこは、ノート終盤の自由記入欄。ボールペンの手書きで、一文。少し間を開けてまた一文、罫線を無視した縦書きの項。


『緒を締めてのろのろ上る高き峰 海眺むればそは弩級のふね』


 和歌だ。記憶の限り、父にはそのような趣味は無かったはず。では、呉に赴任してからの趣味か、少し混乱した若葉は、紙面と呉氏の顔を交互に見比べた。その視線に気づいた呉氏は、半身を逸らし背後の山を指さした。


「そこの山ですか?」


 ふるふる、呉氏はその身を振るとつま先立ちになって弧を描きながら指すゆびを山向うへと越えさせる、何度も何度も。


「あの山の向こう、ですか。」


 こくこく、今度は指すゆびを真っすぐ胸元から伸ばし、縮め、伸ばす。若葉は首を傾げると、鴉の濡れ羽色の髪がさらりと流れる。


「あの山の向こう、凄く遠く、ですか。」


 こくこく、そして両手を掲げ末広がりに三角を象る。背伸びしてつま先立ちになり、自身よりも高い三角を呉氏は描いて見せた。山超える、遠く、大きい三角…若葉はそれが意味することを推測し繋げる。


「あの山の向こう、凄く遠くの、大きな山、ですか?そこでこの歌が詠まれた、と?」


 うんうん!我が意通じたりと、呉氏は全身で喜びを示し、また掌を合わせ開け閉じの仕草に戻った。若葉は呉氏の手元をみる、いや先ほどとは動きが逆、戻れという事か。エンディングノートの前の方へと戻る、ぴたり呉氏はまた、とあるページの一項を指さした。それは、市役所へ届を出す予定のあれやこれやの手続きのページ。「原付は市民税課(廃車手続き)」と書かれていた。そういえば、アパートの駐輪場に原付が停められていてキーケースの中にやたら長い鍵があったことを、若葉は思い出していた。そして、大学入学前に普通乗用車の免許を取っており、一応制度上は若葉自身原付を運転できることを。こくこく、呉氏は頷いて見せた後、親指を立てて見せた「サムズアップ」若葉の理解と行動に納得したようだった。

 呉氏は両腕を伸ばし飛行機の主翼のように広げ、モデルの様な綺麗な足取りで去っていく。その姿が曲がり角で見えなくなるまで、若葉はその背を見送り続けていた。


  *


 アパートの駐輪場、黒い原付バイクの傍で、若葉はセルフォンで市役所に電話をかけた、所有者変更の手続きに必要なものを聞き、シートに置いたエンディングノートの隅に記す。そして「廃止」の文字を二重線で消した。元所有者の身分証明、相続人届書を市役所で作成する、それと新たに自分名義の自賠責保険。即日発行の自賠責保険はコンビニエンスストアで申し込めると聞いたことがある。若葉はシートボックスからヘルメット、グローブ、車両書類を取り出しとりあえず玄関の下駄箱の上に置いた。そして車載工具でナンバープレートを外し…やりかたは動画サイトイェアチューブで見て真似し…自身のバッグの中に収めた。


「これで、準備オッケーですね。」


 地図アプリで市役所の場所と、近くのコンビニエンスストアの場所を確認し歩き始めた。もう一度セルフォンの待ち受け画面を見る、ヒトロクを少し過ぎたところ。今日中に済ませれば、明日から走れるかもしれない。いや、まだエンディングノートの手続きがあるのでそれを済ませてからか。

 なぜこんなに急く思いを抱くのか、自身を客観視する若葉はもう理解していた。自分の知らない父がこの呉の地に居た。その姿を知りたい、知れば何かが変わるかもしれない、変わりたい自分がいる。通夜でも告別式でも心動かなかった自分が、変われるかもしれないと。

 呉をぐるりと見守る山々の尖端が、薄い黄色に染まる。若葉は本通りを渡り、市役所を目指し足早に歩むのだった。


  *


 序幕、了

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