【KAC2024 8】桜の木の下

かきぴー

第1話

 信号待ち、ふと顔を上げた。道路の向こう側、河川敷に植えられた桜の木に、ぽつりぽつりと花が咲いている。

 今日メガネを新調した。少しおしゃれなフレームにした。受験勉強をしている間にかなり近視が進んでいたようで、新しいメガネで見る景色はとても新鮮だった。もしかしたら桜の花も、数日前から咲き始めていたのかもしれない。青に変わった信号を渡って、桜の木の下から上を見上げる。空はとても青かった。あの日もここでこうやって桜の木を見上げていた。


 この人しかいないと思った。理想の男性だった。色白で背が高くて、勉強ができて真面目で優しくて。陽キャな女子にグイグイ話しかけられると、メガネの奥の瞳が泳いで可愛い。

 かく言う私もメガネ女子。陽キャ女子とは交わりなく、見た目も地味で目立たない存在。

 それでも勇気を出した高2のバレンタイン。付き合うという意味も曖昧なまま、二人の交際が始まった。受験生というレッテルを貼られた中、親に無理言って彼と同じ予備校に通った。予備校から家までの帰り道がデートコースだった。合格のおまじないと言って交わしたファーストキス。互いのメガネがカチンと当たって思わず身を引いてしまって、そのあと笑った。

 寝ても覚めても彼のことばかり見ていた。周りが見えなくなっていた。帰り道で毎日キスをせがむようになった私にとって、それは合格のおまじないどころか、一年後待っていたのは「サクラチル」の5文字。

 俯いたまま彼の顔を見れずにいた私に彼は言った。

「次の春には一緒にこの桜を見よう」

 そう言われてやっと見上げた満開の桜と青い空のコントラスト。その景色と彼の言葉を信じて、彼への連絡も我慢して、がむしゃらに勉強した一年。そして次の春、第一志望ではなかったけれど、桜は咲いた。


 何ヶ月かぶりに彼へメッセージを送ったが、いつまで経っても既読にならなかった。そして私はあの桜の木の下へ行った。彼に会える気がしたから。

 川を挟んで向こう側の河川敷。私の予想は見事的中。長い髪の女の子と腕を組んでいるのは彼だった。メガネを新しくしなければきっと見過ごしていただろう。辛かった一年、彼はずっと私の心の支えだった。彼とまた楽しい時間を過ごせるものだと思っていた。でもそれは叶わないようだ。不思議と彼を恨む気にはならなかった。また桜を見上げた。涙が頬を伝って落ちていくのが分かった。もう彼だけを見なくてもいい。ちゃんと周りを見よう。なぜか心の中で強い思いが浮かんだ。


 今日メガネを新調した。進む道を見間違わないために。心のメガネを新調した。

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