体温

真花

体温

 その日はやって来た。

 ユリがベッドから僕を呼ぶ。狭い部屋、僕はパソコンで音楽を聴いていた。切なさが胸に擦過傷を付け続けるような女性ボーカルのロックを、ずっと繰り返し再生していた。その曲は僕達のことを歌っていた。禁じられた恋の向こう側の日々にあるものを描いていた。ユリの声に必死の色を感じて、僕はパソコンをそのままに、すぐにユリの元に駆け付けた。どうしたの? と顔を覗くと、真っ青になっていた。ユリは目を弱々しく開き、僕の顔を見る。目尻がほんの少し緩む。

「マサさん、私、もう死ぬみたい」

 冗談を言っているようには思えなかった。そもそもユリはこんな冗談は言わない。何で笑うかによって、もしくは何を笑いにするかで、その人の品位が分かるのよ、とユリは言っていた。ユリは既に安らかだった。僕はユリの手を取る。握っても握り返して来ない。それぞれに家庭があった。子供もいた。仕事もやっていた。その全てを捨てて、二人で東京に逃げた。初めて出会ったとき、僕の世界に穴が開いた。全ての価値観はユリに向かって急勾配を作った。話をして、触れて、僕とユリは僕達になった。そうなってから東京に来るまでは時間を要しなかった。それでも、羽田行きの飛行機に乗ったとき、僕達の顔はコンクリートで固めたみたいになっていた。そのときまでは子供のことは考えた。だが、離陸して地元の街が「過去」になった瞬間、子供のことも忘れた。着陸する頃には、僕達は二人の未来だけを見ていた。住処を見付け、仕事を決め、元の生活に比べたらずっと貧しかったが、二人でいられればよかった。記念日に花を買った。小さな旅行にも行った。何度も抱き締めた。十年、二人でいた。その一つひとつの思い出が、想いが、込み上げて涙になる。

「ユリ」

 返事はない。僕の頬を流れる雫を掬ってはくれない。体温。死んでしまったら体温が下がっていく。心臓の鼓動よりも、呼吸の有無よりも、体温がなくなることがユリがこの世から去ることと等しい。だから、それを少しでも遅らせたい。僕は布団に入り、ユリを抱き締める。温かい。この温度がユリがこの世にいた、いや、まだ半分いる証だ。これまでだって、数え切れないくらいに抱き合った。その度に二人の熱を交換した。ユリは僕の体がいつも熱いと言っていた。抱き締め合うことで僕達はその場所に存在した証拠を残すような感覚を持っていた。家の中だけでなく、色々な場所で僕達は抱き合った。今日が最後になる。ユリの体が冷たくなるまで、僕はずっと抱き続けよう。

 思い出から来る涙が、今に追い付いて、僕はユリを喪うことを胸で理解し始めた。ユリを温める。体温を分け続ける。僕の最後の日にこのままなって、抱き合ったまま事切れるのだっていい。ユリは最期に僕と目を合わせて、納得したのだろうか。まだ体が温かい内は本当には死んでない。だが、時間の問題であることも間違いない。温かく送ろう。

 音楽がリピートして、さっき聞いたのと同じサビに差しかかった。窓の外は晴れている。別れにはいい日かも知れない――

 ユリがピクンと動いた。

「ユリ?」

 顔の青さに血の気が戻って来る。聞けば、息もしている。ユリの目が開く。僕は目を見開いてその姿を認める。涙がピタリと止まった。ユリは瞬きを何度かした後に、僕の方を向いた。視線が最初は定まらなかったが、いずれ僕の目を見た。まるで長い長い潜水から上がったばかりのくじらのような目をしていた。

「マサさん」

 ユリは確かに死のうとしていた。息は止まっていたし、鼓動も感じなかった。僕は驚いたが、そんなことよりもユリが喋ったことに、死ぬことをやめたことに、全身が溶け出しそうなくらいに安堵した。さっきとは全く色味の違う涙が溢れた。僕はぎゅっと抱き締める。

「ユリ。よかった」

 ユリも僕の体に腕を回して、力を込めた。もう二度と感じることのないと思っていた感覚に僕の涙がさらに搾られる。ユリは僕の顔を見てふやけた笑顔になる。

「いっぱいの道に一つだけ、温かいところがあったんだ。マサさんはいつも熱かったから、温かい方に進んだら、ここに戻った」

 僕は、そうなんだ、とユリと同じ顔をする。それから二人とも黙り、体温を交換した。ベッドの上の僕達を撫でるように音楽が鳴り続けた。


(了)









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