春浅し(2)
紫苑はふと、空気が湿ったのを感じた。
霧雨だ。傘を差すまでもない、細かい雨粒だった。
とはいえ、いつ本降りになるかわからない。傘を取り寄せるより、雨をしのげる場所を探すべきだ。アルヴィースが風邪を引いてしまう。
「森に行って大丈夫だと思う?」
「ご安心ください。必ずお守りいたします。……今度こそ」
「あんまり無茶しないでね……」
母親が子供の帰りを待っている。
アルヴィースは狼の氏族の使命を果たそうとして捨て身すぎるから、紫苑がうまく歯止めをかけなければならない。
「とりあえず、雨宿りできるところを見つけたい。手伝ってくれる?」
「はい、シオン様」
アルヴィースが紫苑の前に立ち、二人で森の中に分け入る。
辺りはうっすらと白く煙っている。道らしい道がなく、人の手が入っていないことがうかがえた。
一本の木が、紫苑の目を奪う。「ちょっとそこまで」程度の場所に、見事な大樹が立っていた。たとえるなら、森全体を支える柱だ。
「シオン様、あの木のうろでお待ちになってはいかがでしょう」
「うん、わかった」
大樹の根元に
雨足が強まらないうちに走る。葉っぱのほかに、枝や石を裸足で踏んだが、素肌が傷ついた感触はしなかった。
ほどなく到着し、木陰で息を整える。間近で見ると、大樹に威容に圧倒された。幹は太く、何本もの木を
アルヴィースが木のうろの中を確認する。特に異常はなかったらしく、紫苑を中へ促した。紫苑は身をかがめて入り、積もった落ち葉をクッションにして座る。体育座りでギリギリ二人分のスペースはありそうだった。
ところが、アルヴィースは続かない。木のうろを背にして、辺りを見回している。外で番をするつもりなのだと、紫苑は気づいた。
「アルヴィース、あなたも。なんとか二人いけそうだよ」
「シオン様……ご意向に添えず、申し訳ございません。わたくしは見張りをいたします」
「……雨に打たれるのって、ものすごく疲れるよ。いざという時はあなたが頼りだから、いまは休んでおいて」
二、三度、隣のスペースを叩いた。
風邪を引かないか心配だからと伝えても、きっと断られる。下手をすると、力不足だと疑っているように受け取られかねない。だが、アルヴィースの休息が紫苑の安全につながると言えば、頷かざるをえないだろう。
案の定、アルヴィースは眉を下げつつ、腰を下ろした。思いがけず、二人の膝が触れ合った。
「も、申し訳ございません」
「狭いから、お互い様だよ。ね、そんなに縮こまらないで」
アルヴィースはリュックサックをぎゅうと
「しかし、いえ、……はい……」
「寒くないかな」
「問題ありません」
「よかった。……質問の続き、いい?」
「は、はい。お答えさせていただきます」
「あなたは成年? それとも未成年?」
「……未成年です」
「そう……」
お仕えさせてください、とアルヴィースは言った。
だが、その申出を受けることは──未成年者略取の可能性がある。
日本では、子供の同意があっても、保護者に無断で連れていったら犯罪である。夢の中に同様の刑法がなかろうと、紫苑には無視しがたい。
また、アルヴィースという人質がいなくなれば、氏族間の争いに発展するのではないか。
「アルヴィースのお母様は、どちらにいらっしゃるの?」
「狼の領地にある、
「今日のことがきっかけで、狼と熊の関係が悪くならない?」
「はい、きっと悪くなります。女神様に対して熊が
「……いまさら気づいたけど、遭難してるんだね、私たち……」
紫苑は頭痛がしてきた。問題が山積みだ。
「あの、警察とか児童相談所とか、聞いたことある?」
「ケーサツ、ジドショードジョー……? 初めて耳にいたしました」
「名前が違うのかな。犯罪者を取り締まる人とか、子供や家庭を支援する人とかいる?」
「犯罪者……氏族の敵と対峙するのは、男です。男はおしなべて戦士であるがゆえに、治安維持や領土防衛を担います。ただ、戦士は職業でなく、戦士の為すべきことは職務でなく……」
「農民や商人でも、有事があれば、男性は絶対に戦わなくちゃいけないってこと?」
「はい。ですので、シオン様の仰る人間には当てはまらないかと……」
国民皆兵ならぬ男性皆兵の世界らしかった。
雨足はどんどん強まり、葉や枝から地面へと、水の筋が流れ落ちる。白い闇を思わせる霧が、森を覆い尽くす。
「見回りや
「パトロールと捜査かな……。それなら、たぶん警察に近いと思う」
「子供や家庭の支援については……神官が孤児を引き取ったり、寡婦に仕事を与えたりしております」
「そっか……」
子供が暴力を振るわれている時。親と離れ離れになっている時。犯罪の片棒を担がされている時。自分の信者になりたがっている時。
現実なら、110か189に通報して、あとは任せる。
だが、夢の中なら、どこまで面倒を見るべきだろう。武官やら神官やらにアルヴィースを任せられるか、話だけでは判断できなかった。
紫苑は、アルヴィースを助けたいという未練を持って、眠りに落ちた。あと少しで海面から顔を出せたはずだから、ほんの数秒だけでも夢の続きが見たかった。
するとどうだろう。知らぬうちに、浜辺に打ち上げられていた。
取り寄せの力で、アルヴィースの怪我を治し、着替えもさせられた。
正直、もういいと思っている。
だが、ここで放り出すなど、人でなしのすることだ。夢を見ている
とはいえ、取り寄せの力でできることには限りがある。
子供を危険な目に
したいこと。すべきこと。できること。
雨の音を聞きながら、紫苑は考えに
アルヴィース。夢の中で出会った少年。
父は狼、母は虎、先祖は汚名をかぶり、自身もまた熊に勝てなかった。紫苑にとっては、まったくどうでもいいことである。
重要なのは、これからだ。
保護者の許可なく、子供を連れ回していいか。子供を戦わせていいか。子供を信者にしてしまっていいか。
考えて、考えて、考えて──。
そうして、答えを出した。
紫苑が隣を見る。不安そうなアルヴィースと目が合った。
「アルヴィース。二つ、決めたことがあるの。聞いてほしい」
「はい。しかと心に刻みます」
「じゃあ、一つ目。これからどうするか。……
「え……?」
「お母様が、あなたの無事を願ってらっしゃるんでしょう。あなたの行方がわからなくなったら、きっと心配でたまらないよ。だからまずは、お母様を安心させてあげなきゃ」
「シオン様……」
アルヴィースの目が潤む。
紫苑は、見ないふりをして言葉を続けた。
「二つ目。あなたを仕えさせるか。……いまは、できない」
「……、いまは……?」
「うん。親御さんの許可を取れたら。親御さんの許可が取れない時は、成年になったら。──いいよ、アルヴィース」
「シオン様……!」
アルヴィースが、出会って初めて笑顔を見せた。感情の
「……でもね、言ったとおり、私は自分が神様だって信じきれないの。だから……何か思うことがあれば、きちんと話すから、あなたもそうして。その都度、話し合おう」
紫苑は遠回しに、事と次第によっては申出を
たとえば、紫苑が神ではなかったら。神であっても、改宗したくなったら。あるいは、人生のパートナーができたら。
きっと、アルヴィースは今日の言葉を後悔するだろう。
紫苑は、自分の身に置き換えて考えてみた。十二、三歳の頃に願ったことが、大人になって叶ったか。
その頃、紫苑は親に愛されたかった。妹だけでなく、自分のことも見てほしかった。なんだってするから、とさえ思っていた。
いま、紫苑の願いは叶っていない。しかし、だからこそ、願いの外にいた人たちに出会えたのだ。祖父母、親友、恋人──紫苑が大切に思う人たちに。紫苑を大切に思ってくれる人たちに。
つまり、神に永遠を誓わせるには早すぎる。
「……以上、です。ど、どうかな」
「はい、シオン様。どこまでもお
いま、この瞬間、そう思っている。それだけのことだ。将来の約束ではない。よって、いつか別れる日が来ようと、約束を破ったわけではない。
万が一にも、自分が
雨足が次第に弱まってきた。
空模様を見ていたアルヴィースが、「
じきに雨がやんだ。
霧が少しずつ払われ、明るくなってゆく。葉を透かした光が、空気を淡い緑に色づかせる。
露に濡れた木々がきらきらと輝いていた。
アルヴィースが木のうろを先に出る。
「シオン様、お足元が滑りやすいので、よろしければ……」
「ありがとう、アルヴィース」
紫苑は、アルヴィースが遠慮がちに差しのべた手を取り、森の中へと踏み出した。
ラグナロクの明くる朝 〜女神よ、みめぐみを垂れたまえ〜 若宮 卯芽 @ume_wakamiya
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