春浅し(1)

 犬──狼とは似て非なるもの。


 先祖が使命を果たせなかったことに由来する、狼の氏族の蔑称。

 だが、、二つ目の意味がある。母親が余所者よそものである、という意味が。


 紫苑は、アルヴィースの心中しんちゅうを推し量る。

 アルヴィースにとって、女神とおぼしき存在と出会いは、汚名返上のチャンスのはずだ。しかし、仕えることを許してもらえない。先祖のせいで。純血ではないせいで。、熊の氏族から守れなかったせいで。

 そういうところではないか。


 ──三つのうち二つは、アルヴィースの責任じゃないのに。残りの一つだって、私が断った理由とは違う。


 ともあれ、紫苑の無茶ぶりに、アルヴィースは応えてくれた。


「話してくれてありがとう、アルヴィース」

「……わたくしのほうこそ……お聞きくださり、ありがとうございます」


 アルヴィースは平伏した。その心境を、紫苑は少しだけ理解することができたので、すぐさまやめさせようとは思わなくなった。


 ──土下座……は、正しくない。おばあちゃんに教えてもらわなかったっけ……立ってお辞儀するのが立礼りつれい、座ってお辞儀するのが座礼ざれい、だったはず。……うん。座礼だけならOK、そのまま会話するのはNGってことにしよう。


 紫苑は、暫定的なルールを定めた。片方は頭を下げられたくないが、もう片方は頭を下げたいのだから、妥協が肝心である。


 ところで、一つ気がかりなことがある。アルヴィースは足がしびれていないのか、ということだ。爪先を立てた正座を長時間続けているから、膝と足の指にかかる負担は相当だろう。


「考えたいことがあるの。いい天気だし、よかったら一緒に歩こうか」

「はい、シオン様」


 アルヴィースは従順に頷き、立ち上がった。苦もなく、すんなりと。紫苑は意味もなく鼻を触った。お節介だったかもしれない。


 二人で縦に並んで、浜辺を歩く。さくさく。ギュッギュッ。裸足とブーツの足音が重なる。

 紫苑の足の裏や指の股に、乾いた砂が貼りつく。細かくやわらかな肌触りが気持ちいい。アルヴィースを探していた時は、なんとも思わなかったのに。


 パライバ・トルマリンのようにきらめく海を見ながら、足任せに進む。

 波の音が評判どおりのリラックス効果をもたらしたおかげで、とっちらかった思考がまとまってきた。


 紫苑が立ち止まる。アルヴィースはそれにならう。

 紫苑が後ろを向く。アルヴィースは静かに視線を返す。

 紫苑が数歩近づく。アルヴィースは動かない。ただ、緑の髪が潮風でなびいている。


「アルヴィース、いくつか質問していい?」

「どうぞ、ご随意に」

「あなたは人質……なんだよね。それって、たとえば……同盟の証人として?」


 人質と聞くと、誘拐や身代金を連想してしまうが、それでは意味が通らない。

 紫苑は、祖父の愛読書からひらめきを得た。徳川家康。真田幸村。戦国武将は、不可侵や臣従などの約束の担保として、己の親類縁者を人質として相手に送った。アルヴィースの話に出た人質は、この意味ではないか。


「はい。狼と熊は領地が近く、昔から小競り合いが絶えません。それが戦争に発展することを防ぐため、同盟を結び、人質を交換しております」


 紫苑は、予想が当たっていたことに頷いた。そうすると、アルヴィースはやんごとない家の子供のはずだが、アルヴィースに対する略奪者たち──熊の氏族の仕打ちから、狼の氏族のほうが力が弱そうだと感じた。


「ん、わかった。それから……あの……夫って、どういうことかな……」


 話の最中に質問すると脱線しそうで控えていたが、聞き捨てならない言葉だった。


 夫。三百年前に結婚していた相手。つまり、現在は確実に三百歳を超えている人間。


 ──結婚……響也きょうやさんじゃない人と……夢の中でも、やっぱりいやだな……。


 アルヴィースは、少しだけ困ったように話し始めた。


からす長者ちょうじゃであるヴィンダールヴは、三百年前に女神様と契りを結んだそうですが……お心当たりはございませんか」

「まったく……。長者って、氏族で一番偉い人のこと?」

「はい。族長、領主、鴉の場合は大神官も兼ねます」

「す、すごいね……」

「おそらく、人間のうちでは。しかし、女神の夫を名乗りながら、色の話には事欠かない男です。女を買い漁っておりますし……」

「会ったことがあるの?」

「……はい。狼と鴉は不仲ですが、熊と鴉に比べればまだいいほうですので、女の売買はわたくしが行いました。その際、話をしたことがあります」


 百寿者ならぬ三百寿者。会話できるだけでも驚きだが、まさか行為まで。これも、死なずの定めによるものか。

 紫苑の思い描くヴィンダールヴは即身仏なのだが、そこまで老化していない可能性がある。


 また、アルヴィースは熊の氏族に人質に出されたあと、人身売買の仲介役を任されていたらしい。


女を買うのは、妻たる女神か見定めるため。そう申しておりました」

「私も、自覚はないけど……染めてる、かもしれないよ」

「ありえません。……あ、いえ、……」


 アルヴィースは即断して、そのことにうろたえていた。紫苑の言葉を否定することに抵抗感を覚えるようだ。紫苑は笑顔を作ってみせ、続きを促す。


「……シオン様の御目おんめは、薬でも魔術でも決して真似できない、輝くばかりの紫でございます。御身おんみこそ、わたくしどもがお待ち申し上げたかたがかかっていなければ、わかるはずです」


 アルヴィースは、紫苑の目をまっすぐに見つめてくる。

 鏡が見たいと紫苑は思った。そこまで言わせるほどの紫は、どんな色だろう。

 アルヴィースの目を鏡にできないか。さらに近づいて、二つの緑を覗き込むと、アルヴィースはうろたえながら視線を逸らした。


「あら……」

「ぶ、不躾なことをいたしました。申し訳ございません」

「え……あ、うん、こっちこそ」

「シオン様は、これからいかがなさいますか」

「そうだね……」

「御身の神殿は、春の島の各地にございます。中でも、鴉の領地にある大神殿こそ、三百年前の御身のお住まいであったと伝わっております。あいにく、現在は瘴気に覆われておりますが……」

「瘴気?」

「人や動植物をむしばむ黒い霧です。その中に長時間いると、穢れによって体が腐り落ちていきます」


 紫苑は、襟ぐりから氷を入れられた心地がした。

 想像を絶する危険区域だ。また、死なずの島である以上、全身が腐り落ちても、そう簡単には死なない。死ねない。生き地獄を味わうつもりはないので、行き先から真っ先に外した。


「大神殿にお戻りになるのであれば、鴉に御言葉みことばをお与えになる機会もございましょう。……僭称せんしょうをお咎めなさいますか」

「わ、私が知らないだけで、事実かもしれないし、咎めるのは違うと思うよ……」


 夢の中の自分がどういう存在なのか、ようやくわかり始めたところだ。


「女神って、ほかにいないのかな」

「春の島において、わたくしどもが女神と崇めますのは、御身一柱ひとはしらのみ。御身にゆかりのある神々も信仰を集めておいでですが、一様に男神おがみでいらっしゃいます」

「そうなんだ……」


 ──神様の単位って「柱」なんだ……。


 恋人なら「学びを得ました」と言うだろう。

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