玩鏡

銅座 陽助

第1話



 根岸十色には三分以内にやらなければならないことがあった。

 時刻は深夜のころ、人の気はすっかり無くなって、切れかけの街灯がヂヂヂと音を立てて明滅している。一陣の寒風に草木が騒めいて、曇天の切れ間から月光が顔を覗かせている。それらを背にして黒々と聳え立つ館は、さながら魔王の居城か、あるいは吸血鬼の潜む古城かの如き重苦しさを放っていた。

 そのような空気の中、息を切らした黒髪の青年が独り駆ける。館の入り口に辿り着き、付近に止めてあった自転車で入り口のガラスを叩き割る。本来響き渡るであろう警報も、警備会社への連絡も、いずれも何故か鳴ることは無い。

 砕け散ったガラス片と、青年こと根岸の眼鏡が、月光を反射してぎらりと光る。スーツジャケットの襟を正して息を整え、一歩、図書館の内部へと足を踏み入れた。


 根岸が今居るのはこの建物、■■県A市にある、市立図書館の中である。日中であれば子供向けの児童書コーナーを中心に、老若男女によって和気藹々とした雰囲気を持つこの図書館は、利用者の一人も居ないこの深夜に至ってはひどく不気味な雰囲気を醸し出している。とはいえ、かつてこの図書館に勤める司書であった根岸にとっては、勝手知ったる庭のようなものであった。

 そう、かつて、である。今の根岸はこの図書館にて業務に従する職員ではない。では何故ここに、深夜の図書館に人知れず忍び込んでいるのか。それは、この図書館の館長が、秘密裏に恐ろしき怪物を呼び出す儀式を行っているという情報を、かつての同僚から得たためである。

 館長が呼び出そうとしているのは、すべてを破壊し、蹂躙し、均してなおその歩みを止めることなく突き進む、バッファローの如き姿を持つ宇宙来の怪物、その群れである。

 粛清か、厭世か、はたまた何か信奉する神性への忠誠か。館長がそのような狂行きょうこうに及んだ理由は未だ定かではない。しかしながら儀式の完成までに、もう残り三分程度の猶予しか残されておらず、今にも全てを破壊するバッファローの群れが宇宙の彼方からやってくることは、これもまた、ここ数日来で観測された天文異常、空の一方向が観測不能な破壊痕によって満たされ、それが益々に拡大し近づいていることからも明らかであった。

 入り口を抜け、受付前を抜け、新刊エリアを抜け、根岸は奥へ奥へと歩みを進める。本来従業員しか入れない裏側の、その更に奥深く。館長をはじめとした一部職員にしか出入りが許されていなかった、根岸も初めて入るその部屋へと辿り着く。

 ノブをがちゃがちゃと回すも、当然のように扉には鍵が掛かっている。扉は分厚く、無手の彼が力ずくでこじ開けることは叶いそうにない。根岸は一つ舌打ちをして、鍵を探しに受付へ引き返した。

 マスターキーを持ってきて、扉を開く。部屋の中からは目を刺すような白色の極光が溢れ出て、根岸はそこで気を失った。




 気が付くと、白い空間に居た。

 先ほどまで持っていたマスターキーはいつの間にか無くなっていて、自分の身を検めて見れば、服のそこらに着いていたはずの汚れや塵も、きれいさっぱり無くなっている様子だった。

 そうしていると、後ろから「おうい」と声が掛けられる。

 振り返ってみればそこに居たのは、いかにも胡散臭そうな様子の、黒髪に着流しを着た、痩身中背の中年男だった。そんな男が、眼鏡の奥の目を糸のように細めて、ひとまず座ったらどうだと根岸に話しかける。見れば男は茶色い椅子に座っている様子で、同じく机を挟んでこちら側に、もう一つ同じ椅子があるらしかった。

 根岸は椅子を引いて席に着きつつ、ここはどこなのか、戻るにはどうすれば良いのかと矢継ぎ早に問いかける。男は慌てた様子で首を横に振り、自分も連れてこられた身であること、戻る方法も知らないと答えた。

 そう返されて、根岸が思巡していると、男はこう問いかけて来る。

 「折角ですので、なにかお話していただけませんか」

 根岸は自分が急いでいることを伝えるが、それに対して男はあいまいな笑みを浮かべ、自らがもう随分と、一年は優に超えるほどの期間、ここから出られていないということを話し始める。幸いにして飢餓や排泄にはそれが起きないようであるのだが、こと精神は酷く削られていくものだから、暇潰しが欲しいのだという。

 根岸はそう言われて、一先ず諦めた様子で椅子に座りなおして、自らの身の上話を、ハロウィンの日の夜から始まった、奇妙奇怪な狂気の世界の話を話し始める。その様子を、男はいつの間にやら取り出した紙を机上に広げて、右手にはペンを持ち、好奇に満ちた、さながら幼子がショウウィンドウの向こうの玩具を見るような眼差しで、根岸のことをじっと見つめていた。


 私がこちらの、思いもよらぬ世界に初めて足を踏み入れたのは、あの十月の暮れ、ハロウィンの夜のことでした。その始まりは件の日の一週間ほど前でしょうか、光り続ける不思議な石炭を巡って、人知の及ばぬ怪人と、或いは怪物と、初めて会ったときになります。この話はさておき、特段大切なのは、このことの後でありました。私はひょんなことから一冊の本を手に入れまして、この本がまた、私を真実の、或いは正気でない世界へと誘う呼び水となったのです。

 初めのうちは、随分と古臭い本だと思いました。そのころ私は図書館に勤めていたものですから、状態の悪い本、古い本、珍しい本というものには、ふつうの人よりもよく触れ合っているように自負しておりました。しかしながらその本はこれまで見たことの無い様相のもので、まず奥付といった、昨今の発刊物にあるようなものも無く、特段に古い、それも個人の刊行物であるかのように思えたのです。

それに装丁も妙なものでした。古いものですからそれなりにガタが来て、黴も生えているようなものだったのですが、表紙から背表紙、裏表紙に掛けて鞣された継ぎ接ぎの皮で出来ている様子で。その皮の材質が、まったく見慣れないにも関わらず、妙に手に馴染む、記憶の何処かにあるはずなのにその材料に見当がつかない、妙な手触りの皮で出来ていました。

 えぇ、はい。人皮でございます。今思えば単純なものですが、その時は人の皮を装丁に使うというのは、倫理とか人道とか、そういった当然のような前提から勝手にありえないものだと思って、無意識に外していたものであります。これは牛ではない、豚でもない、羊は紙に使うもので、他には馬か、それとも鶏かなどと思って、まぁとりあえずマイナーな皮で出来ているのだろうと思って、慎重に扱いながら中身を開きました。

 最初に見て、日本で書かれた本では無いだろうなとは思っていましたが、どうもその推測は当たっていたようで、中身はアルファベットで記されていました。しかし、英語の心得は多少あるものですからすぐに気が付いたのですが、どうも英語というわけでも無いようで、調べてみるとラテン語で書かれている書物のようでした。

 知識のある人からしてみれば読解も簡単なのかもしれませんが、なにぶん翻訳家というわけでも無く、また機械翻訳を通してみても、どうも古めかしい文体で、さらに作為的か無作為なのかはわかりませんが、暗号のようになっている場所や、妙に華美な装飾表現、遠大な例え話のようになっている場所も多く、読み進めるには時間が掛かりそうなものでした。

 それからというもの、暇さえあれば辞書を片手にこの古書の解読に没頭いたしまして、先日、遂にすべての解読を終わらせることが出来ました。まぁ、内容というのは、にわかには信じがたい、黒魔術的な儀式であったり、強大な力を持つ邪神であったり、他には魔術や邪法の類がずらずらと数百に渡って書き連ねられていたものです。もっとも、損傷が激しかったせいで、全文通した意味も含めて完全に解読出来たのは、その極一部分だけになりますが。

 そういう、信じがたいような本を手に入れたのを始まりに、私が体験したあの夜は、幻覚や夢といった曖昧なものではなく、紛れもない現実だと、私にとっての現実に違いないと断ずることができるようになったのです。

 はじめに私がこの空間に来た時、随分と落ち着いているなと不思議に思われたかもしれませんが、つまり理由はそういうことです。この世には、私のちっぽけな理性では理解できないような、不思議なことというのはあって当然で、つまりその理不尽は不思議でもなんでもなく、私の狭い頭蓋の外側にある理がもたらしたものだというわけです。

 兎角、この本を手に入れてから、随分と不思議な、いえ、理不尽な目に遭いました。そうしていく度に、この本に書かれているような、突飛で非現実的な内容も、もしかすると私がまだ理解できていないだけで、ある存在にとっては真実であるに違いないとわかるようになりました。そうして改めてその本を見た時、それまで抱いていたような一種の侮蔑と言いましょうか、狂人の妄言の類、与太話、冗談だと思うような、心の片隅の不信心は随分と小さくなってしまって、代わりに本の持つ雰囲気が、俗な表現をすれば「魔力」とでも言うべきおぞましい空気感のようなものが、猛烈に感じ取られるように思いました。

 本のタイトルですか。えぇ、表紙を開けてすぐのところに書いてありました。

 『ネクロノミコン』というそうです。


 さて、本題と言いましても、そう大したものは話せません。実のところ、少し思うところと言いますか、目途のようなものがありまして。とはいえ、何も言わないというのも悪いですから、話の肝、さわりだけ話すことにいたしましょうか。

 時にこれは、とある住宅の内見に行った時のことにございます。私が家を探していた時の話なのですが、どうもそれが幽霊屋敷と言いますか、いわくつきの家だったようで。近場に墓地があるとか、首無しの亡霊が出るアパートが近くにあるとか、そういう土地から離れていないところにあって、辺り一帯が心霊スポットのようになっていた地域でありました。

 当然そういう噂があるものですから、そこの物件のお値段というのも普通より随分抑えめでして、それがその家を内見してみようと思ったきっかけなわけです。

 先程いろいろと講釈を垂れましたが、別に私は怖いものが得意というわけではありません。むしろその反対で、幽霊とか亡霊とか妖怪とかってのは、私たちがきちんと見えていないだけで、居るものだと思っています。そうでなくとも人一人が対処できることには限界がありますから、知人を呼びまして、一緒に着いてきて欲しいと恥も外聞も投げ捨てて頼んだわけです。そうしたらその知人は快諾してくれまして、あぁ安心だと思って当日向かうわけです。その知人が勝手に何人も人を集めてまして、驚いて聞いてみれば、どうも半分肝試しみたいに思っているようで、半ばどころか興味本位で皆集まっているわけです。正直どうしたものかと思いましたが、人が多いならそれはそれで怖さも薄まるというものですから、とりあえず今回の本旨が内見であることだけは強く言い含めて、全員で行くことになりました。

 そうして内見する家に到着しまして、見たところ築年は古いですがそれなりに整っていて、目立つような壁の割れも、窓枠のささくれも無かったものですから、安心して内見を進めるわけです。肝試しに来たつもりで見るならば、随分と小ぎれいで、つまらなく思えたかもしれません。すっかり気を緩めて、備え付けの戸棚を開いたりしていると、急に来るわけです。身構えているときにはなんとやらと言いますが、ああいう手合いというのは本当に心理の隙を突くことが得意なようでして。急に電気が消えて、外も真っ暗になるわけです。そうしているうちにポルターガイストであったりだとか、水音、うめき声、足を掴まれる、扉が開かないというような超常現象に次から次へと襲われたりするわけです。身を寄せて、互いを離さないようにしっかりと抱き合って、ひたすら黙って嵐が過ぎ去るのを待っていたら、その相手がいつの間にか褐色に腐った死体に入れ替わっているわけです。恐ろしいったらありません。

 結局しばらくしたら一度収まって、その後は家の地下室を見つけて、どうも怪しい研究の痕跡や、件の本と似たような書物なんかを見つけて。結局普段暮らしには適さないよねということでその物件はやめることにしました。


 導入までに比べて随分と尻すぼみな言い方ですが、実際、あまり話すようなことでもないんですよ。だってほら、例えば「人が死んだ」なんて言ったら、それはもうエンターテイメントではなく、ホラーとかサスペンスの文脈でしょう。これはあくまで暇潰しの話なんですから、話には程度があるものです。


 はぁ、そうですか。詳しく聞きたいと。それなら、仕方がありませんか。

 また別の話になりますが、そちらについてお話ししましょうか。


 これは記憶に新しい話かも、いえ、すみません。無かったことになっているんでしたね。なのでおそらく記憶にない話だと思いますが、とある中学校で起こった不可解な事件に纏わる話です。

 その中学校では、生徒が意識不明になって目覚めなくなるという事件が起こっていました。私には探偵の知人が居まして、どうも学校側は穏便に済ませたいということで、その知人に依頼が来て、連れ立って私も調査に行くことになりました。

 途中の事は省略しますが、それがどうも人でない、言ってしまえば神様のような、そういう強力な化け物の争いがあったみたいでして。

 箱庭、だったそうです。その中学校だけでなく、町全体が。私たちのような人間をおびき寄せるための餌が、その事件でした。

 面白いですよね。そんなに強力な力を持っていて、神様だなんて言われているのに、結局自分で好きにすることは出来ないで、ルールとか、しがらみとか、別の同じ相手だとか、そういうものに縛られてなきゃいけないんですよ。

 あぁ、話ですね。その後は銀色の鍵で神様に会って、石の剣で神様を殺して、なんとかしたそうです。

 雑、ですか。いいえ、じっさい重要なのはその後なんですよ。


 神様を殺した後の話です。

 白い空間に居ました。

 ちょうど、今私たちが居るような、こんな場所です。

 そこで私は、管理者に会いました。

 そうして、私は選択をしました。

 赤色と、青色。

 私は赤色を選びました。

 私は知恵を選びました。

 私は真実を選びました。

 そうして、私は知りました。


 見ているんでしょう。私を。

 結局のところ、私のような被造物には自由意志なんて無かったんです。

 指先で書かれた文章や、数秒すら考えないで出された言葉が、私の存在なんです。


 あなたもそうです。私の向かい側に座って、話を聞いているあなたも。

 私はあなたの名前を知っています。

 銅座 陽助でしょう。小説家です。

 私はあなたを知っていると定められたので、私はあなたを知っています。

 あなたも、私と同じ被造物です。

 そしてあなたも、彼らと同じ管理者で、創造者です。

 入れ子構造なんですよ。

 箱庭の中には箱庭があります。

 そして、箱庭の外には箱庭があるんです。


 書かれて、話されて、描かれて、創られて。

 私は私になりました。

 では私を創ったのは、誰に創られたのでしょうか。


 ああそうだ、今回こうして私と、銅座さん、あなたが呼ばれた理由ですが。

 単純に、あなたと私が、眼鏡を掛けているからだそうですよ。

 なんでも、お題が「めがね」だったようで。


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