マフユフミ


「無知は罪なんですよ、先輩」


真摯なトーンで語られる言葉に、菜名子は息を呑んだ。




職場の後輩である水城真帆は、クールな美人であるそのルックスのみならず、仕事への姿勢や圧倒的な能力から、新卒のエースと影では呼ばれていた。


そんな真帆に呼び出されたのは、今日の15:30を過ぎた頃。

真帆とは正反対で、2年目となってもいまだ雑用でミスを繰り返す菜名子は、部署の中でも落ちこぼれ扱い。

この日もまたコピーの部数を間違えるというミスを犯し、後処理としてシュレッダーに張り付いていたときだった。


「斎藤先輩、今日退勤後ちょっといいですか?お話したいことがあるんです」

まさか部署のエース候補から個人的に声を掛けられるとは思っていなかった菜名子は、ほんの少し動揺した。

それをなんとか押し隠し、小声で返事をする。

「大丈夫だけど…」

「それじゃあ、17:45に駅前の喫茶オルゴールで」

きっと誰にも見られていないだろう素早さで席に戻った真帆を、菜名子は羨望の眼差しで見つめた。

自分なら、あんなにスマートに人を誘えない。

堂々としている後輩が羨ましいような、何も出来ない自分がミジメなような、変な気分だった。


そして今。

駅前の寂れた喫茶店に二人して座っているのが、どうにも現実離れしているように思う。

これまで菜名子は極力、真帆のような目立つタイプの人間と関わらずに来たのだ。

ぼーっとしたままカフェオレを頼み、目の前に置かれた青い花柄のカップに口をつけ、ほっと一息ついたところだった。


無知は罪なんですよ、先輩。


その言葉の意味が何一つ分からず、菜名子は目を瞬かせる。それでも、あまりの真帆の真剣さに何も言えない。


「一つ昔話をしましょう」

真帆の低めの声が、波立ちそうな心を落ち着かせてくれる。

「子どもの頃のことです。私は言いたいことも何一つ言えないような、内気な子どもでした。今じゃ考えられないかもしれないけれど」

確かに、内気な真帆なんて今では想像も出来ない。


「当時、私は公園の近くに住んでいました。その公園は、市町村を挙げて大々的に整備されたようなものではなく、放課後の小学生が集まるような、よくある近所の公園でした」

なんとなくその公園をイメージする。

遊具はそう多くない。

すべり台、ブランコ、砂場、鉄棒。

背の高い木が何本か立っていて、ざわざわ風の音がする。


「いつも通り、私は縄跳びを持って公園に飛んでいきました。お気に入りの水色でした」

様々な色の縄跳びは、まるで虹のようだっただろう。軽快に音を立て、まわる縄跳びが見えるようだ。


「そして私は…凄惨な事件に巻き込まれました」

時が止まったようだった。真帆が凄惨な事件と呼ぶからには、それはひどくおぞましいものだったに違いない。

「それは、幼いながらに尊厳を傷つけられるような、存在意義を否定されるような、そんな日々でした」

真帆の目がこちらを見る。

「それを救ってくれたのは、斎藤先輩、あなたなんですよ」 


意外な展開に言葉も出ない。なぜ自分が真帆の過去に関わるのか。

「私を救ってくれたのは、先輩のその目です。何よりも細やかに周囲を視て、感じ取るその目が、私の真実を明らかにしてくれたんです」

自分の目のまわりに触れる。

ダサいと何度も囃し立てられた、分厚いレンズの黒縁眼鏡。

「先輩は、その見えすぎる目で事件を見ていました。そして真実を知った。そのことで周囲から色々な噂をされ、疎まれたり蔑まれたりした。それは想像に難くないです。私もそうでしたから」

少し哀しみを帯びた声。それでも話を止めようとはしない。


「たぶん先輩は、あのときに思ったでしょう。こんなに気づいてしまうのはもうイヤだって。なんで見えてしまうんだろうって」


そうだったのだろうか。

記憶があまりにも曖昧すぎて、自分のこととは思えない。

それは、イヤな現実から逃げる術だぅたのだろうか。自分で自分の記憶に鍵をかけたからなのだろうか。


「でも、そろそろ終わりにしませんか?見えにくくするための眼鏡なんて脱ぎ捨てて、新しい世界に踏み出してみませんか?」


いいのだろうか。

この眼鏡を外してしまえば、また何もかもが「視えて」しまう。

何にも気づかない、知ることもない、愚鈍で穏やかな暮らしを、手放してしまっていいのだろうか。


でも、それでも。


「私は、あのときの先輩にお礼がしたい。私を、今の私にしてくれてありがとうって、本当の先輩に言いたいんです」


あまりにも真剣に真帆が言うから。

その言葉に決して嘘は感じ取れないから。


菜名子はそっと、眼鏡に手をかけた。


裸眼で見る景色は色鮮やかで、明るい。

世界はなんてくっきりと、そして残酷なほどの色彩に満ちているんだろう。


「…真帆、ちゃん?」

「菜名子ちゃん」


そこにいるのは、幼なじみの真帆だった。

あの頃と何も変わらない、可愛らしい妹分がそこにいた。


「ねえ菜名子ちゃん。明日から、もう一度始めましょう。新しい自分で。本当の菜名子ちゃんで」

「…そうね。ちょっと怖いけど」


それでも、知らないでいいことなんてこの世界にはない。

すべてを見て、視えてしまっても、それでいいと今なら思えるから。


「真帆ちゃんとなら、歩いていけそうだね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マフユフミ @winterday

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ