手びねりのうねや細かに付けられた紋様が微かに見える縄文土器の欠片は
葛西 秋
手びねりのうねや細かに付けられた紋様が微かに見える縄文土器の欠片は
手びねりのうねや細かに付けられた紋様が微かに見える縄文土器の欠片は、彼が研究のために大学の資料庫から借りだしたものだった。
デスクの上に置かれたその欠片をじっくり見ようとして、彼は愛用している眼鏡が近くに見当たらないことに気がついた。
彼は取り立てて目が悪いわけではないが、このところ近いところにある物が見えづらいと感じることがある。
――これが年を取るということか
その事実はまだ三十半ばの彼にとって認めがたいものだった。
だからと云っては何だが、あえて自分用の老眼鏡など作らずに、実家にあった祖父の古い眼鏡を持ち出してそれを使っていた。
祖父の眼鏡は鼈甲縁で、その重厚な懐古趣味の雰囲気は彼の研究の対象である古い器物と相性が良かった。気まぐれで使い始めた鼈甲縁の眼鏡だが、彼は思いのほか愛用していたのである。
なのにその眼鏡が無い。
どこにいったのかと狭い部屋の中を見渡して、窓がほんの少し開いていることに気がついた。
人が出入りできるような幅ではない。けれど。
窓の外は既に夜だった。春の夜の温かな風がデスクにつまれた論文の紙を一枚、床に落とした。
彼は窓辺に近寄った。窓の隙間はちょうど猫が出入りできるような広さだった。
彼の研究室のある大学は構内に猫が何匹か住み着いている。自由気ままな猫たちは研究棟の中までも時にするりと入ってくる。
――窓から入ってきた猫が眼鏡をどこかに蹴り落としたのか
床の上を見てみたが眼鏡のかげはどこにもない。
――しょうがない、明日また探すことにして今日は帰ろう
彼は窓を閉めて帰り支度をし、研究等の建物を出た。
桜の季節は既に終わり、名残の花の香りがどこかからか漂ってくる。
急ぐ必要のない帰り道、ただぶらぶらと校門に向けて大学構内を歩いていると、彼の目の前を小さな影が横切った。
――猫だ。
いつもは見逃す猫の影だが、彼の注意は強く引かれた。
――なにか、くわえていなかったか。
ちょうど先ほど探していた鼈甲縁の眼鏡のような、そんな大きさのものを猫がくわえていた気がしたのだ。急ぎ足で猫を追いかけて小道を外れ、植木の草むらを抜けて、奥へ奥へと進んでいくとぽっかりそこに草地が広がった。
――ここは……
長く古い歴史のあるこの大学は、敷地に古代の遺跡が残っている。彼の目の前にあるのはそんな遺跡の一つだった。
先に進もうとして彼は足を止めた。
草地の真ん中に猫が十数匹も集まっている。今夜、ここでは猫の集会が開かれているようだ。集会と云っても猫のこと、ただ集まって座っていたり、毛繕いをしていたり。
猫であろうと犬であろうと、動物のすることにさほど興味のない彼は引き返そうと踵を返した。
「……つまりはここから出土するこれらの土器は」
ふいに聞こえてきたそんな声に彼は思わず振り返った。
半月が照らす暖かな春の夜。
鼈甲縁の眼鏡をかけた一匹の白猫が、集まった猫たちを相手に何か熱心に話をしているのが見えた。
「破片をようく見てみると貝や魚を入れていた、そんな痕跡が見えるのです」
ひどく大きな白猫は眼鏡の縁をちょい、と前足で持ち上げた。周りの猫も熱心に白猫の話を聞いている。
「この辺りが昔は海だった。この土器の破片はその証明となるものなのです」
聴衆の猫が一匹立ち上がり、
「ということは、毎日海の魚が食べ放題だったということですか」
質問を受けた白猫は眼鏡の縁をまた、ちょい、と前足で持ち上げた。
「さようです。魚の他にもイルカの骨も見つかっております」
おぉ、と感嘆する声が猫たちの間に上がる。
白い猫が話しているのは土器の破片の話らしい。
思わず彼は一歩、草地に踏み込んで。
途端、人影に気がついた猫たちは四方八方に走って逃げて、辺りには何が起きたか、集会の痕跡すらも残らなかった。
春の風が草葉を揺らす。
呆然と立ちすくむ彼の足元に月の光をちらりと映すものがあった。
手を伸ばして拾い上げたのは彼が研究室で見失い、先ほどは白い猫がかけていた鼈甲縁の眼鏡だった。
おかしな経緯で自分の手元に戻った鼈甲縁の古い眼鏡を彼はその場でかけてみた。
「……つまりはここから出土するこれらの土器は」
月を見上げて白い猫の云っていた言葉を繰り返してみる。
変わったことは何も起きず、ただ暖かな春の夜に月が皓々と、辺りの草地と鼈甲の眼鏡を照らすだけだった。
手びねりのうねや細かに付けられた紋様が微かに見える縄文土器の欠片は 葛西 秋 @gonnozui0123
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