ペンギン・マンデイ

かんな

ペンギン・マンデイ

 月曜の朝の電車は、ビンの中にいるようだ。人も音も遠く、自分のことさえ他人事。だから他人を構う余裕などない。ビンの中にいては、どこへも手の伸ばしようがない。

 そんな朝、満員電車の中にペンギンがいた。

 キーホルダーやゲームのキャラクターではなく、本物のペンギンである。昨晩たまたま見た動物のドキュメンタリーに出ていたので知識は新しい。

 小学校低学年ほどの背丈にどっしりとした体格、黄色の模様は冬物の鬱蒼とした色の中でよく目立つ。コウテイペンギンである。南の果ての大陸で吹雪に囲まれて身を寄せ合う姿を「暖かそう」と見ていた動物が、会社員とロボットと女子高生に囲まれて潰れていた。

 視覚デバイスが壊れたのかと、こめかみのコントロールパネルに触れる。天気予報とニュース、暇つぶしに流している自然風景の動画が実際の風景に薄く被るだけで異常はない。ペンギンの現実感はそれらとはまるで違う。潰れて逆立つ毛並みや、ぱたぱたともがく羽に電車の蛍光灯の光が跳ねている。

 睡眠不足が幻覚を見せているのだろうか。何となく働き、何となく生きている。この先の展望もやりたいこともなく、だというのに生活は自動的だ。起きて、働いて、眠る。それを滞らせることの方が怖い。多趣味の友人には自室を見せると、「人間の部屋?」と揶揄と心配を混ぜた声で尋ねられる。

 誰かに声をかけてみようか、とも思ったが頭のおかしい奴と思われ避けられて当然、悪くて駅員と警察のお世話になる未来まで見える。更には遅刻、遅刻による上司からの叱責、と想像は際限なく悪くなっていく。

 会社は黒寄りの灰色で、辞める人が後を絶たない。アンドロイド等を用いて人手不足を補ってはいるものの、未だ彼らに自律的な行動とそれに伴う責務を負わせることは出来ない。客先も人でなければ簡単なのだが。

 この急行はしばらく止まらない。通り過ぎる風景を眺めて出来る限りペンギンを意識の外へ置こうとしても、黄色い嘴と模様が意識の端でずっと跳ねている。

 気分が重い。月曜は憂鬱であるというのに、更に憂鬱である。ペンギンである以上、電車の中では否応にも目立つ。しかもそれが見えているのが自分だけというのが困る。

──本当に誰も見えていない?

 密集する人の中でどうにか頭を巡らせるが、それを邪魔に思ったらしい女性に髪で払われた。ちくちくとした毛が目に入り、むしろこれで自分の正気は戻ったか、と思って目をやるが相変わらずペンギンが挟まれている。

 しかも、間の悪いことに目が合ってしまった。黒い頭の中、嘴の上で円らな瞳がうるんでこちらを見上げている。

 車内放送が次の駅に着くことを告げた。電車は速度を緩め、車内の空気がわずかに弛緩する。この拘束から逃れられるという安堵と、その先の労務を思っての嘆息。あるいは次の駅から始まる新たな拘束。何を考えても月曜日の満員電車は思考を逃がす所がない。昨日が休みであった分、余計にである。加えて自分はペンギンという問題を抱えてしまった。次の駅まであと数秒。人気の飲み屋の看板が流れて見えた。電車は更に速度を落とす。ロボットに寄りかかって立っていた人が「すみません」と声をかけながら自分の足で立つように姿勢を正す。

 ふっと、風景が薄暗くなる。駅舎に入ったのだ。

 視線を落とすとペンギン。満員の人。ドアの向こうにも人。

 そしてここは、自分の降りる駅ではない。




『当日いきなり体調不良で休まれると、周りが困るでしょ』

 申し訳ありませんと頭を下げて電話を切り、大きく息を吐く。嘘がばれやしないか、しかし好調かと言われればそうではないし、と内心で言い訳が巡ったが出口を失い、溜息となった。明日もまた同じことを言われるだろう、そして嘘を重ねるのか、気分は段々と重くなる。

 隣ではペンギンが大人しく座っていた。それとも立っていると言うのだろうか。折り曲げるような膝もないからずっと立ちっぱなしである。南極の吹きすさぶ吹雪に負けじと立つ姿は逞しかった。

 降りた駅は四路線が入る比較的大きな駅だった。東西に出口があり、東は映画館などの商業施設、西はマンションやビルが立ち並ぶ。乗降客はどの時間帯でも多く、忙しなく歩く人々を眺めつつ、東口の小さな広場でこの幻覚とどう付き合うべきか考えた。

 ペンギンを抱えて満員電車を降り──その際、しっかりとした感触と重量があったことに驚いた──駅前の交番へ駆け込み、ペンギンを見つけたと伝えた時の憐れそうな表情が忘れられない。朝は多いんだよね、特に月曜日は。よく来てくれたね、さあ座って。

 間違いなく、このペンギンは自分以外には見えていない。現に、出勤時間帯でペンギンを連れて座る自分を訝しげに見る人もない。そうなればいよいよ疑うべきは頭だった。

 拡張現実野視覚デバイスは携帯端末と同じくらい普及し、特に働く人は必携とされる。脳の近くに電極を埋め込み、思考とネット通信がリンク、コンタクトレンズ型のデバイスによって常に情報が視界に拡がる。

 この電極が脳へ悪影響を及ぼすという話を読んだことがあった。ワクチンは製薬会社と病院の陰謀だ、と赤い大きなフォントが飛び出す仕様を仕込んだサイトの最新記事に上がっていたものだが、この際信用性は捨て置こう。目前の現実の方が信用性に欠ける。

 よし、病院へ行こう。そう決めて立ち上がった時だった。

「おい、聞こえんのか余の声か」

 足元から大層な声が聞こえた。時代劇でよく殿様役をやる俳優と似た低い声がどうしてそんな所から、と見下ろすと、円らな瞳と目が合った。

「ようやくこちらを見たな。よし、いいからまず座れ。余を見下ろしたことは不問としてやる」

 羽を背中に回され、座るよう勧められた。ペンギンは眉を──そんなものはないのだが、何故かひそめたように感じた。

「なんだその間抜け面は。いや元々腑抜けた顔ではあったが、いくら寛大な余の心をもってもその締まらぬ顔は許せんぞ。おい、これ」

 大きな羽がぺたぺたと頬を叩く。

 感触は本物、鼓膜を震わす低い声も本物。どこにも思考を逃がす場所はない。ひっ、という悲鳴が喉の奥を突いた次の瞬間、意識が切れた。

 暗闇の中で電気がついている。あれは実家の居間の電気である。丸い蛍光灯が二つ、四角いカバーがかけられて垂れ下がった紐を引っ張って点ける古い型。居間の窓は大きかったが向きが悪く、学校から帰る頃には部屋は既に真っ暗だった。電気を点け、その下でおやつを食べながら本を開き、共働きの親を待つのが日常だった。

 電気の下では子供が寝そべって本を見ている。何を読んでいるのかと覗き込むと、ペンギンの絵本を読んでいた。氷に乗ったペンギンが世界中を旅する話だ。自分はこれが、不思議と好きだった。

「──…か。あの、大丈夫ですか」

 体が跳ねた。ばちっと目を開くと、ぎょっとした風に会社員の男性が身を引く。その後ろには人が集まっていた。

 自分の置かれている状況が悪寒と共に駆け上がる。

「あの! このペンギン、見えますか!」

 空気が凍り付く。覗き込んでいた人の間からは「やばくない?」という囁きが聞こえ、声をかけた会社員も足早に立ち去る。蜘蛛の子を散らすよう、という言葉の中心に自分が居座ることになるとは思わなかった。

「悪手だな。自身が信じられぬものの証明を他人に求めてはならん」

 訳知り顔で言われるのも腹が立った。誰のせいだと言ってやりたいが、深く息を吸い込んで気持ちを落ち着ける。

「本当に本物のペンギン……?」

 ペンギンが羽で頭を叩く。かなりの勢いだった。

「無礼にもほどがある。余のことは殿下と呼ぶように」

 何故か童話の「裸の王様」が思い出されたが、余計なことは口にすまい。

「……殿下は、本物ですか?」

「余は余である。お前がお前であるのと同じだ。我らは共に、ここにある存在の一つである」

「わかりました。では殿下をお送りしますので、どこの水族か……城へお連れすれば良いですか?」

 殿下はふっと遠い眼差しになった。

「城は遥かに遠く、今は頑なに門戸を閉ざしておる。その門さえ開けば帰れるのだが……」

「どうすれば開きますか」

 羽で器用に腕組みをして、「そうだ」と閃いたように言う。

「共に探そうぞ。この町であれば見つかろう。なければお前の行きたい所でも構わぬ。必ず見つかるはずだ」

 不思議と自信たっぷりに言われるので「そうなのか」と頷きかけて首を傾げる。

「何故、自分が共に?」

「王に臣下は必要であろう」

 人に使われ、果てにはペンギンにまで使われるのかと項垂れる。今日の運勢はどうだったか、星座占いのページを探したところで、再び殿下に叩かれた。

「何ですか!?」

「ばかもの! 王に見えぬことをするでない! 今後、その得体の知れぬ鏡を覗くことは禁じる!」

 平たい羽でしたたかに打たれた所為なのか、視界に映し出されていた情報が消え、コントロールパネルを叩いても反応を見せない。まさかの故障である。それもペンギンに叩かれて故障など言ったところで誰も信じないだろう。補償期間はまだ有効だったろうか、帰宅して契約書を確認したかった。

「……私の家へ帰るというのは」

「却下だな。まだ何も探しておらんというのに」

 ですよね、と肩を落とす。もはや他人にどう見られるかと意識するのも馬鹿馬鹿しくなっていた。ここまでリアルな幻覚なら、少し付き合ってみれば自分の中の問題が明らかになるかもしれない。

 微かすぎる希望を掲げて立ち上がったところで、殿下が期待のこもった目で見上げた。

「お、どこへ行く?」

「殿下は探さないのですか。殿下の城の門の開け方なんですよ」

「我が城であってもわからぬものはわからぬ。広大すぎてな。なに、臣下のお前に付き合ってやろうと言うのだ。遠慮せず行きたい所を言えばよい」

 行きたい所など、ここ数年考えたこともなかった。家へ帰れば義務的に風呂と食事をこなして眠る。朝起きれば今度は仕事へ行かざるを得ない。やりたいことは寝ること、行きたい所は布団、休日もそんな様子で過ごしている。

 ぽっかりと急に空いた一日はまるで穴のようだった。どこまでも落ちていくので、どうしたらいいのかわからないでいる。何か掴まるものでもあれば、成すがままでいることもないというのにまるで見当がつかない。

 大きな音が響いた。殿下が驚いて自分の足にしがみつく。見渡すと、広場を抜けた道路の先に大きな街頭ビジョンを掲げた建物がある。数年前に完成した建物全部が映画館という巨大なシネコンだった。流れている映像は最新映画の宣伝なのか、大きな音はそこから流れていた。

「……あ」

 今まさに流れているのは昔観た映画の続編だった。シャチと白熊が縄張り争いの果てに嵐を呼び、戦車と化して世界を巻き込んだ戦いへと発展するとんちきな映画だったが、子供ながらに面白かった覚えがある。新作はそこへヒグマとサメが加わった大混戦の様相らしく、ふっと胸がざわついた。

「あれ、行きたいです、殿下」

「はあ!?」

 ペンギンの鳴き声の限界を超えたような大声だった。こうなると普通のおじさんと話しているのと変わらない。見た目がペンギンであるだけで。

「待て、余のような愛らしい生き物をあの魔窟へ誘おうというのか」

「いえ、あれがいるわけではありません。あれらの出てくる想像の物語を見られる建物なんですよ」

 殿下は目を細める。

「お前、ああいうのが好きなのか……」

「好きってわけじゃないですが、久しぶりに観たいなと思って。殿下が嫌なら無理強いはしませんけど」

 殿下は太い首をゆっくり上下に振って悩んだ後、「わかった!」と決意を込めて言う。

「臣下の望みを叶えるのも王の役目。余が造り物などに惑わされぬ王であることを見せてやろう」

 えっへん、と殿下は胸を張る。いちいち芸の細かいペンギンである。



 結論から言えば、殿下は奮闘した。誰にも見えないペンギンなので堂々と入り、コーラとチュロスが欲しいと言うので買う。ペンギンの食性として大丈夫なのかと不安だったが、シアターの端に並んで座ると、嬉しそうにコーラを飲み、チュロスを食べるのでそういえばこれは幻覚なのだと思い出す。コーラもチュロスも無意識に自分が食べているのに違いない。それにしても殿下は目をきらきらとさせてそれらを楽しんだ。

 映画本編は前作を踏襲しつつ、新しいキャラクターの登場でアクションの激しさが増していた。特にシャチやサメの造形にこだわっているらしく、彼らが登場するごとに殿下がびくびくとするので本物も裸足の怖さなのは間違いない。終盤にかけては終始彼らの登場が多く、殿下は途中から羽で目を押さえていた。あまりにかわいそうなのでハンカチで顔を覆ってあげようとしたが、突き返される。

 見終わって後、放心状態の殿下は「どうだ、余は勝ったぞ」と弱弱しく言うもので、なるほど臣下の前で弱い姿は見せたくなかったのかと思った。ただし、映画館を出てしばらくは足元がもたついており、途中から自分が抱えて歩いた。

 建物を出てピロティにあるベンチで殿下が落ち着くのを待つ。世の中はしっかりと動き始めているのに、幻覚のペンギンと並んで映画を観ている自分が今更ながらおかしかった。

 陽射しが暖めた風に、春のような温もりが乗る。何も介さないまっさらな風景は視覚的にも聴覚的にも奥行きがあった。立体的な風景はどこまでも行けそうな錯覚を起こさせる。

「イベント行っていまーす。ご協力いただいた方にはクーポンお配りしていまーす」

 間延びした声に振り返ると閑散とした花壇の前でバイトらしき女性が呼び込みをしていた。思いがけず目が合うと、女性は近づいて「どうぞ」と水族館割引券と書かれた紙を差し出す。

「紙のなんて珍しいですね」

「イベントのコンセプトなんです。人と自然のみで生み出す広告効果というので、広告ドローンも飛ばしていません。ネットにも出していないんです」

「花を植えるんですか?」

 まっさらな花壇の側には黒いポットに入ったパンジーが並んでいた。差し出された割引券と見比べていると、殿下が「好きにせい」と言うので、小さく息をついて立ち上がり、花を選んだ。

 花を選ぶなどどれくらいぶりだろうと思う。母の日は好みを登録しておけば勝手に送ってくれるし、自分のために花を買う趣味はない。しかし、選んだ黄色いパンジーは思いのほか可愛らしく、柔らかな黒土に植える間も大事に扱っていると、女性が「そんなに丁寧にしすぎなくて大丈夫ですよ」と笑う。

「植物は結構したたかで、自分で自分を生かすように育つんです。勿論、水や肥料は必要ですけどね」

「じゃあ、人間はこの花ほど強くはなれないかも」

「うーん、さすがに植物は自分の足で動くことは出来ないので、同点くらいでしょうか」

 あとで調べてみたが、他の生物を利用して移動したり生き延びたりする植物もあると言う。殿下に話すと「それはそうだろう。生き物なのだ」と子供を諭すように言われた。

 割引券の水族館は大きな道路を二つほど北へ渡った先の商業施設の中にあるものだった。

「殿下も仲間を見れば気持ちが落ち着くのではないですか」

「……こんな紛い物の仲間を見てもなあ」

 すっかり調子を取り戻した殿下と並んで水槽の前に立つ。だが、本物ではなかった。高画質の映像を水槽に映しているもので、今や水族館といえばこれが主流だ。動物は映像が主で、ショーなどを行う海獣類はロボットである。かつては世界中の海に溢れていた生き物たちがその数を減らすようになってから、水族館や動物園の生体展示は徐々に減っていった。繁殖は種の保全のためにのみ行われ、行動や生体の紹介はデジタルが行う。

 それでも、この時代の子供たちにとってはこれが本物なのだ。ぼんやりと眺めているのはその前を知っている世代くらいで、自分もぎりぎり知っている世代である。分厚いガラスの向こうやショーの水飛沫から感じる潮の匂いが好きだった。生き物が生きて死ぬサイクルの中に、自分もちゃんといるようで。

「……ちょっと泳いでくる」

「は?」

 聞き返した時にはもう殿下の姿はなかった。

 水槽の中は南極の環境を模したものへと変わっている。本物の風景ではなく、奥に水色の壁が見えるようにし、あくまで水族館の体裁を守ろうとしていた。その前にペンギンたちがたむろしている。殿下と同じコウテイペンギンで、こうして外から見ると改めてその大きさに圧倒される。

 そのうちの一羽が大きく羽をばたつかせて、水の中へ飛び込んだ。わき立つ泡の中から飛び出して黒い体が優雅に泳ぐ。子供たちが歓声を上げて追いかけてくるのを、わざと待つかのようにして。

「……殿下!?」

 思わず飛び出た大声に皆が振り返り、熱くなった顔を俯けて「すみません」と小さくなった。会社員が昼間から水族館にいるだけでも目立つというのに、そこここの子供連れの親たちが何か囁き合っているように聞こえる。隅の方へ移動しながら水槽へ目をやった。すると、円らな瞳と目が合う。やはり殿下である。あれほど崩れかけていた威厳が水を得た魚のように、否、鳥のようにむくむくと元通りになっている。飛ぶことの出来ない鳥と言うが、あえて飛ばないことを選んだ鳥と言う方が正しい。極地の水を味方にし、訪れる者の少ない地でじっと時を待っている。季節を追いかける鳥よりも、より人に近い鳥だ。

「ふう、いい水だった」

 清々しい声で殿下は言う。幻覚なのだからどこにでも行ける、しかし幻覚がどうして子供たちに見えたのだろう。やはり頭の電極が悪さをして水槽内の映像に干渉したのだろうか。

「ここへ来て見るのが自分の足元とは勿体ない。見るべきものはまだまだあるのだぞ」

「水族館の広報にでもなりますか」

「それは臣下の務め。王は座して決めて負うもの」

「かっこいいこと言っても……」

「あっ、あれ、あのしろくま焼きというのは何だ? 敵を喰らってやろうというあれか!」

 軽快に羽をばたつかせて走って行くので慌ててついていき、しろくまのキャラクターの顔をした饅頭を買う。殿下にはカスタードクリームを、自分はあんこにしたが、幻覚の割に食べたしろくま焼きはあんこの味しかしなかった。

 水族館を後にした頃には既に昼を回っていた。朝から甘いものばかり口にしているので、空腹とは言い難いがそろそろ塩っけがほしい。天気が良いので公園で軽く食べようとコンビニへ入ると、処分セールと題したワゴンに真っ赤なパッケージのカップ麺があった。一か月ほど前に発売された激辛麻辣麺である。辛い物は好きだが後の体調を考え悩んでいる内に店頭から消えた。諦めていたものがここに、と取ろうとした時、横から飛び出た手がさっと持っていく。え、と思わず声が出て振り返ると、髪の毛を明るく染めた少年に睨まれて飛び出しかけた言葉が引っ込む。

 これくらい、よくあることだ。小さな諦めの積み重ねが大人というものである。代わりに安いカップうどんを二つ買い、店頭でお湯を入れて公園へ向かう。ベンチに落ち着いたところでちょうど時間となり、並んで蓋を開けてすすった。殿下は箸で器用に麺を巻き付けて食べている。

「お前、ささやかな望みでも簡単に手放すものではないぞ」

「いいんです。大して食べたいものではなかったですし」

「そうやって理由をつけて、自分を納得させるのもあまり良くはない。悪くはないがな、決して良くもないのだ。目の前で臣下にそれをされて気持ちのいい王はいない」

「欲深い臣下がお望みですか」

「ほどよいぐらいがいい。何事もな」

「……嘴にかまぼこがついてます」

 なに、と言って羽でつついて取る。

 腹が満たされれば眠くなる。とろんとした目で公園を眺めながら殿下に問うた。

「どうして殿下が見えるのは自分だけなのですか」

「それはお前の海に余がいるからだ」

「海を抱えるほどのお金はないですよ」

「人の話だ。策に、欲に、何事にも人は溺れやすい。思考も然りだ。お前の場合はその思考の海が時に深すぎる。それでは他人と話しにくかろう」

「……そうですね。でも今日は、あまり考えていない方だと思います。考えても仕方のないことばかり起きているもので」

「普段も大方がそんなことばかりだよ」

「そうですかね。ところで、見つかりそうですか」

「いま少しというところかな」

 今は十五時を回ったところ、帰宅ラッシュに殿下をつき合わせることは出来ない。

「今日はもう帰りましょう。臣下の家で申し訳ありませんが、ご容赦ください」

 空いている電車でうたた寝をしている間に駅へ着く。駅からは商店街を抜け、脇道にそれた所にアパートがあった。賑わう商店街の中を歩いている自分になぜかワクワクしていた。誰かの生活の中に自分という存在が許される実感、行き交う人の顔がいつもより鮮明に見える。

 賑やかに呼び込む八百屋があった。いつもは通り過ぎるが、今日は足を止める。苺が安いらしく、赤く瑞々しい果実に惹かれて買った。

「楽しそうだな」

「苺は好きですか」

 好きだぞ、と殿下は答える。

「なら、明日も買いに来ましょう。今日明日とセールらしいですから」

 慇懃な声を期待していた。だが、返ってくる声がない。ぺたぺたとついてくる足音も聞こえない。

 一呼吸の内に、殿下の姿は消えていた。



 あらゆる検査を受けた。何の異常も見られない。あるとすれば心の方と言われてそれ以上の検査はやめた。

 会社へは詳細を伏せて、健康に不安があったが大丈夫と伝えた。不思議と上司はすり寄るように優しく、後日、聞いた話ではよその部署でパワハラによる通報と左遷があったらしい。次は自分、という自覚はあったのかと驚いた。

 殿下はどこにもいなかった。電車にも映画館にも、どこにも。水族館ではかわいらしい文字で「殿下」と紹介されているコウテイペンギンがいたが、それは自分の殿下ではなかった。説明文にはこのペンギンを殿下と呼んだ人がいたため、とあり、それが自分のことか別人かは定かではない。

 たった一日で躍動した世界は、一日で元に戻った──否、戻り切ってはいない。むしろ後退している。ペンギンのぬいぐるみを買ったとしても、それはあの偉そうな王様ではないのだ。

 どこかで、と電車を待ちながらぼんやりと風景を眺める。殿下が消えて一週間後の月曜は朝から雨で、辺りはどことなく薄暗い。風が吹き、電車が入って来たので一歩進むと、危ないと腕を引かれた。驚いて見渡すと、同じくびっくりした顔がいくつも自分を覗き込む。

「大丈夫ですか」

 電車が来たと思ったのだ。だがそこに車体はなく、空虚なレールの上へ自分は落ちるところだった。では何故、来たと思ったのか。目線の高さに黒い塊が浮いている。

「殿下!?」

「お前は少しぼんやりしすぎだぞ」

 殿下はそう言うと、水をかくように宙をかき、すい、と飛んで駅舎の裏へ行く。慌てて追いかけて改札を飛び出し、裏の階段へ回った。壁のない階段はさらさらと雨が吹き込み、そこへ殿下が飛んでくる。

「どうして? 飛んで?」

「まあ落ち着け。ペンギンも飛べるのだ。飛べると思えば」

「いえ違います、飛べません。そういう動物ではありません」

 言いながら、おかしくて笑いがこみ上げた。

「でも、殿下なら飛べてしまいますか」

「無論。余に飛べるのなら、お前も」

「自分も……?」

 階段の手すりに身を乗り出しかけた自分を殿下は「待て待て待て」と慌てて制する。

「そうじゃない、お前のはそういう話ではない。あのな、お前、今日は楽しいか?」

「は?」

「明日も楽しいか? お前は思考に溺れ過ぎだ。だがな、お前が楽しければ、お前の海は心地よい。……余の城はそうでなければ」

「言っている意味がわかりません!」

「まあ、また会えるということだ。いいか、楽しめよ。これは余からの命令だ」

「また会えるって、殿下は幻覚ではないのですか? 現実に?」

 殿下は宙がえりをした。

「どちらの方がお前は楽しい?」

 上の方で「えっ」と小さな声が聞こえた。身を乗り出して見ると、同じように身を乗り出して見下ろしている人がいる。その目は明らかに殿下を認めていた。

 またな、と殿下は羽を振り、挨拶をするように二回転して曇天へと飛んでいく。

 後に残った二人は呆然と黒い点が空へ吸い込まれていくのを見送った後、互いに顔を見合わせる。そしてどちらともなく身を引いた後、階上から足音が降りて来るのが聞こえた。

 緊張が足元を満たしていく。殿下は何と言っていただろう。

──さて、どこからどう話そうか。

 あのおかしな月曜日を、ペンギン・マンデイとでも言って始めてみようか。



終り

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ペンギン・マンデイ かんな @langsame

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