後編

 深呼吸を一度した後に、『仮面ライダー』に戻った夕子は、背後のシートをとんとんと叩く。

「後ろ、乗って」

後ろの方までゆったり伸びたボンネビルの平べったいシートは、確かにもう一人を乗せて走るためのものだ。

 あの不可解な注文は、絵里を彼女の夜中のツーリングに同行させるためのものだったのか、と絵里は今更理解する。

「マフラーの上んとこに脚置きあるからさ、座ったらそこに脚置いて。マフラーは火傷すっから絶対に触んないで」

 夕子の言葉通りに、絵里は横からぴょこんと飛び出た棒に春用ブーツの底をかけ、恐る恐るばらばらとエンジンを震わせるボンネビルの後席に跨がる。

 シートにお尻を付けた瞬間、絵里のお尻の肉とそれに包み込まれた骨を伝って、全身にびりびりと振動が伝わってくる。体験したことのない不思議な感触が「バイクに乗っている」という実感を強く湧かせた。

「それ付けて。そんで私のベルト掴んで」

 夕子がたすき掛けにしていたメッセンジャーバッグから、夕子のと同じくらい頑丈そうな革グローブを取り出す。

夕子のズボンのベルトは太く大きな革物で、絵里が握りやすいようにか、少しだけ緩めてあった。

「仮面ライダーのベルト掴んでるってわけだね」

「それ、上手いこと言ってると思うなよ」

 グローブを嵌めた絵里の手がベルトを握ったのを確認すると、夕子は「行くよ」と左の靴底でペダルを踏み込み、右手を捻って、バイクを支えていた右脚を蹴る。

甲高い鼓動と振動が絵里の耳を、身体を揺さぶる。

びゅう、と強い風切り音が絵里の耳元を通り抜けていく。

ボンネビルは幹線道に出、森に呑まれかけた道をヘッドライトで照らし、金属の羽ばたきを残して突っ走った。

夕子の左足がペダルを踏み込み、右手のアクセルがゆっくりと開かれると、ボンネビルは死んだ夜を切り裂く、一羽の金属のフクロウと化す。

 フクロウはこんなにうるさく羽ばたかないけれど、そのくらいしか絵里には夜を切り裂ける鳥が思いつけない。

桂沢かつらざわダムまで行くの?」

「いーや」夕子は速攻否定する。「このまま朝までツーリングするつもり」

「朝までぇ!?」

 夕子の回答に、絵里は素っ頓狂な声を上げた。

「あたしこっそり抜け出してんだよ! 朝いないのわかったら後で親に何言われるかわかんねーじゃん!」

「絵里」夕子は面白そうに、絵里を下の名前で呼ぶ。「私の正体知った瞬間、あんたはもう共犯者になってるんだよ。だから付き合ってもらう!」

「なんだよそれぇ!」

 絵里は抗議混じりで夕子のベルトをがちゃがちゃやるが、夕子は止まる気配もない。ボンネビルは東の富良野ふらの方面へ抜ける山道に挑み始める。

 芦別あしべつ市、富良野市と次々すっ飛んでいくカントリーサインを見送って峠道から平野へ。

南富良野町のサインを追い越した頃には、夜の濃紺の色と星が、朝の白みに追いやられはじめていた。

 だが夜明けの光に照らされた平原の景色も、占冠しむかっぷの青看板の先で西へと方向転換したことで、山の中に逆戻りだ。

「結局あんた、どこ行こうとしてるのさ」

 絵里は流石に行き先もわからないまま夜明けの中をデタラメに走り続けられることに耐えきれず、夕子に訊ねる。

「夕張。私が生まれた街だよ」

夕子は短く答えた。

「夕日の綺麗な中で生まれたから、でもって夕張生まれだから、夕子。お母さんが付けた名前」

 優しくバラードか何かを歌うように、夕子の声はボンネビルのエンジン音と混じって不思議なメロディを伴って、絵里の耳に入る。

「でもさ、私が生まれた頃ぐらいに夕張は本気で手遅れになった。小学二年の時に小学校が廃校になって、うちでもお母さんが骨髄腫こつずいしゅで倒れた。父さんの職場も潰れちゃってさ。『夕張じゃもうダメだ』って札幌に引っ越したんだ。お母さんが死んだのは、そっから三年後」

 絵里のベルトを握る手に、いつの間にか力が入った。

口を開きかけた絵里を遮るように、夕子が言う。

「札幌には六年しか居なかった。父さんが再就職先で道外転勤の辞令貰って、中二の時に岩見沢の祖父ちゃんの家に預けられたんだ。そんで祖父ちゃんにバイクのこと教えてもらった。裏の空き地でボンネビル実際に運転して、プラグやオイルの替え方に、サスやキャブの調節。デイトナビーチの話とかもそん時に。父さんも叔母さんもバイクに興味なくって、私に全部教える気でいたみたい」

下り坂に合わせて、夕子はペダルを踏み込む。

「でさ、祖父ちゃんも去年死んじゃったわけ」

 夕子の歌は、ペダルを踏みこんでペースを落としたエンジン音と共に、トーンを低くする。

「祖父ちゃんも火葬場で焼いてもらったら、お母さん時と一緒で、ロクな骨残ってなかったんだよね」

 夕子の肩は先ほど以上に前かがみに丸まっている。

それは絵里の目には、危ないぐらい前のめりになって先に進もうとするようにも、不安に襲われて小さな子供みたいに背を丸めるようにも、そのどちらにも見えた。

「お母さんの時は三年も闘病したからまだ仕方ないって思えたけどさ、バイクのこと私に何でも教える気だった祖父ちゃんが、半年でグシャグシャで何にも残んなかったのはショックだった。約束したツーリングも免許取ったのはいいけど、コロナ騒ぎでバイク買うためのバイトも全部なくなって……私さ、何も出来ずに色んなもんにグシャグシャにされる気がして、怖くて仕方なかった。だから何かしたいって……叔母さんに無理言って、ボンネビルぶん回した。そしたら満足出来そうな気がすると思って」

 朝空の中、山の下に沈みこんだ月が、絵里の目に入る。

明け空の白い満月は、『かぐや姫』の駆るボンネビルの真ん前に陣取って、夕子を待ち構えているようだ。

もし夕子が言ったように絵里を死の世界に誘うのがあの立坑櫓のスキップなら、彼女を死の世界に誘うのは月とこのバイクなのだろう。バイクで空を飛んで、月へ、死の世界に行ってしまうのだ。

前のめりになりすぎて『死』に手を伸ばしかけた少女の背に、絵里はそっともたれかかり、呟く。

「大丈夫だ。夕子がグシャグシャになっても、古いバイクぶん回すいい女が居たって、共犯者が覚えてるから」

 絵里はその時急に、言葉を半端に遮る不織布マスクがもどかしいと思った。



山道を抜け、新夕張駅を見上げる駐車場で長めの休憩を取った後、二度と列車が走ることの無いJRの線路と並走しながら二人は北を目指す。

ボンネビルが羽ばたきを止めたのは、昇りきった朝日に照らされる元JR夕張駅だった。

「ここで到着」夕子はそう宣言して、マスクとゴーグルを外す。「絵里もそれ、取っちゃいなよ」

 絵里は言われるがまま顔を覆う全てを取る。

「家とか、思い出の場所とか、行かなくていいわけ?」

「見に行く気しないんだ」

 夕子はからからと寂しげに笑ってみせる。

「行く前にネットで調べたらさ。住んでた家とか、小学校とか、お父さんの働いてたガラス工房とか、全部爆弾落っこちたみたいになってた。実物なんか見たくない」

 ああ、と絵里は声を漏らす。

夕子が身近に感じすぎて恐れた、破壊と忘却が全てをグシャグシャにしていく『死』は、彼女の故郷すらとっくに飲み込んでしまっていたのだ。

絵里は「ごめん」と夕子に呟く。

 夕子の怖がっていたものを知らないまま、絵里は夕子に勝手に『生』と都会の空気を見出し、憧れ続けていた。

結果的に絵里は忘却と破壊の『死』を恐れていた彼女をずっと苛立たせていたのだろう。

「急に謝るなよ」

 絵里の「ごめん」に返す彼女は、髪を朝風に靡かせ、朝日に透かす、セーラー服の『かぐや姫』とも月下の『仮面ライダー』とも違う、格好良いバイク乗りだった。

「何謝ってるのかはだいたい想像付くけど。ここで最後に残った景色は消えてなかったし、ここまで来ればいいって気づかせてくれた奴も連れてこれた」

「最後に残った景色?」

「ここの駅前広場」夕子はまた、歌うように答えた。「祖父ちゃんと叔母さんと一緒にこっから高速バスに乗って、この街を出て行ったんだ。母さんを追って札幌にさ」

 夕子が指差す高速バス乗り場のバス停は、背後の元駅舎に比べたらとても素っ気ない。

「『死んでる街』の話してて何となく思ったんだよ。私がここに戻ってきたら、何も出来ないままグシャグシャになるのが怖いって感情も消えるのかなって」

「……それで、どう?」

「正直まだ怖いけど、やりたかった長距離ツーリングしながら言いたいこと言って、実際に来たら、結構すっきりした。それにそいつに嬉しいこと言われたから、十分」

 そう。それなら、と絵里は返す。こういう時は素っ気なく返す方が多分良いんだろう、と絵里は嬉しさを抑えた。

「絵里、朝ご飯買ってきて」夕子が道の奥のセイコーマートを指差した。指はすっと滑って、手前のガソリンスタンドに止まる。「私はその間ガス入れに行くから。もうリザーブタンクまですっからかん」

 どうやら二人と一台は全員お腹ぺこぺこで、お疲れモードだったようだ。

夕子の細かい注文と共に切れ目の入った千円札を受け取ると、絵里は一目散に丘を登って、夕子の注文と自分の朝食――ハムサンドと見るからに甘そうなミルクティー――をレジ袋に入れてもらい、元駅舎に戻った。

 夕子はまだ戻っておらず、絵里はベンチに腰掛け、時計を見る。午前八時十一分。いつもの土曜日ならまだ布団の中なのに、隣市の廃駅でガソリンを入れに行った共犯者を待っているのだから、不思議だ。

 遠目に作業着姿のスタンドの壮年の男性店員の手で、ボンネビルのタンクにガソリンが注がれているのが見える。

夕子は何やら店員と話し合っているようだった。

 だが燃料を入れ終わっても、二人は向き合ったまま動く気配がない。

 そして時計の長針が真下に下がった頃、夕子は頭を垂れてボンネビルを押して戻ってきた。

「スタンドのおっさんに説教された」

 絵里のもとに着くなり、夕子は手短かつ苦々しげに戻らなかった理由を説明する。

「説教って、無免運転バレたの?」

「そう」夕子は恨めしげに言う。「スタンドのおっさん、ボンネビルと祖父ちゃんと私のトシまで覚えてて、お説教。タンデムしてたのも見られてて『今回は見逃すけど次は本気で警察に通報する』って。三笠と岩見沢のスタンドも全部根回しするっていうから、多分次無免で乗ったら逮捕からの一発免停で即退学」

 絵里がスタンドの方に目をやると、さっきまでは気づかなかったが、男性店員は絵里と夕子に無言の圧を掛けていた。 とんでもなく険しい顔つきを見るに、彼が本気で夕子に言ったことを実行するのは想像に難くない。

先ほどまでの格好良い女ライダーはたった数十分でしょげかえった女の子に早変わりし、どーすりゃいいんだよ、チャリにでも乗れってか、と世界が終わるような様子で自分の身に降りかかった自業自得な理不尽に嘆いている。

「でもそれはそれで良いんじゃないの?」

「はぁ?」

 絵里の言葉に、夕子が精彩に欠ける逆ギレで返す。

「二年後に免許取ってズルせずボンネビルに乗るっていう目標が出来りゃ、とりあえず二年は生き急がなくて良い。その間に何かあっても、そん時はそん時だ」

「そうかもしんないけど」

「……バイクならさ、最初に夕子を『仮面ライダー』つった新聞屋のおばちゃん、原チャリ一台保険切れでほっぽらかしてて。何ならタダで持ってって欲しいとか言ってんだ」

「多分それ業務カブじゃん。だっせえ」

「あんたが乗りゃ新聞屋のカブでもカッコ付くっての」

 絵里は、夕子がよくそうする含みのある笑いを浮かべる。

「どこまでも付き合うよ。バイク乗って夜にあの櫓の下来て、ダベってさ。でもって、あんたが大型免許取って、またタンデムする――あたしはあの夜にあんたの共犯者になったし、あんたはバイク乗ってないとカッコ付かないんだ」


終 

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