仲直りはリクロスで

「うちの部にもリクロスの機械あったんですね」

「ないと思ってたの!? ……まあ、ギリギリの数しかないんだけどねー」


 同好会の部屋の隅にひっそりと置かれた金庫の中。

 最先端の多機能ゴーグルがゆっくりと取り出される。姫百合リクロス部の備品よりシンプルな形状。硬質な表面を梨樹がそっと撫でて、


「一個でも壊れちゃうと対戦の練習できなくなっちゃうから大事に使ってね?」

「あの、これ、いったいいくらするんですか?」

「んー。ちょっとした車くらい?」


 くらっとした翠の身体を真綾が支えた。


 ──お嬢様ならお小遣いで買えたりするのかな?


 少女の青い瞳を見つめながら考えていると、整った顔が斜めに傾げた。慌てて「ありがとう」と言うと「どういたしまして」と柔らかな声。

 真綾といると、ふとした瞬間にどきどきしてしまう。

 気持ちを切り替えるように前を向き直して、


「あれ? 二つしか出さないんですか?」


 テーブルの上に音を立てず置かれたのは総数の半分。

 これだと対戦には使えないんじゃ。

 翠の疑問に葵が微笑と共に答えてくれた。


「練習用のモードもあるから2vs2じゃなくても使えるんだよ」

「あ、そうなんですね。わたしはてっきり桜庭さんと参加するのかなって」

「あ、もしかしてやりたかった?」

「え、いやあの、えっと」


 返答に迷った途端、制服の袖をちょんとつままれた。真綾の顔を見られない。

 勝たなくてもいい対戦なら気楽だし、真綾とならいいかなとも思うけれど、正直に言うのも気恥ずかしくて。かといって「やりたくないです」って言うのも申し訳なくて。

 翠は自分の気持ちごと返答を誤魔化した。


明日海あすみさん、協力してくれると思いますか?」


 機器を用意しているのは明日海唯香ゆいかにリクロスを体験してもらうためだ。

 梨樹の提案は強引すぎると思うけれど、他に良い方法も思いつかない。ふわふわしているのか策士なのかよくわからない先輩から詳しい説明を聞いてひとまず納得した。

 けれど、あの子をこちらの領分に引きずりこめるかは別の話。


 不安にかられていると、梨樹が可愛くウインクして。


「そこは翠ちゃんと真綾ちゃんの腕の見せどころだよ?」

「そこノープランなんですか!?」


 やっぱりこの人、なにも考えていないのかもしれない。



    ◇    ◇    ◇



「……こんなところに呼び出して、いったいなんのつもり?」


 明日海唯香は年齢より若く見える小柄な女の子だ。

 笑うと可愛い顔立ちに今、浮かんでいるのは苛立ち。睨む先はリクロス同好会の先輩方ではなく、クラスメートである翠と真綾。


 ──やっぱり失敗したかも。


 早くも後悔。

 普通に「リクロスしてください」なんて言っても唯香は絶対了承してくれない。だから作戦を立てたのだけれど、おかげで余計に怒らせてしまったかも。


「ごめんなさい。でも、明日海さんにどうしても来てほしかったから」

「だからこんな手紙を書いたの?」


 ポケットから取り出されたのは淡い空色の封筒。

 中に入っているのは、翠が文面を考え、真綾が丁寧に記した手紙だ。


『放課後、旧校舎の図書室で待っています』


 風に乗って聞こえてくるのは吹奏楽部の演奏音。

 使われなくなって久しい室内は少し埃っぽいものの、先に来て換気を始めていたのでそんなに気にならない。むしろ、空気の流れに沿って揺れるカーテンが独特の空気を作り出してくれている。

 翠はそっと、唯香の突き出した手紙を見る。

 右下に筆記体で記された「S.K.」というイニシャルは、


「これ、桜庭さんでも小鳥遊さんでもないよね? じゃあいったい誰が──」

「私です」


 図書室の出入り口。唯香が出ていくための最短ルートを塞ぐように姿を現したのは眼鏡の文学少女、倉橋雫だ。

 思わず人物の出現にびくっとする唯香。


「なに。なんの用?」

「ごめんなさい。お話がしたくて、小鳥遊さんたちに協力していただきました」

「別にあたしには話すことなんてないんだけど」

「私はあります。どうしても、明日海さんに伝えたいことが」


 この図書室は普段から誰も使っていない。

 鍵は梨樹が先生にお願いして借りてきてくれた。リクロス部はいろんなロケーションで練習をするのでこの手のお願いが通りやすいらしい。

 その梨樹は葵ともどもここまで黙ったままだったけれど、ここでゴーグルを手に一歩踏み出す。


「明日海さん。私と一緒にリクロスしてください」


 機器のセットアップは終わっている。

 後は装着して、ペアリング済みのノートパソコンを操作するだけ。

 無機質な装置を唯香はぽかんと見て、


「どうしてあたしがそんなわけのわからないもの」

「キスしたり、手を繋いで欲しいわけじゃありません。ただこれを被ってもらえればいいんです」


 大人しい子なのに、いざその場に立った雫はとても落ち着いている。

 心の準備。それから覚悟。

 唯香の逃げ道が精神的にも塞がれる。卑怯なやり方なのはこの際、目を瞑ってもらう。


「話って、なに」


 硬い声に穏やかな声が答える。


「中学校時代のことです」


 十秒以上にわたる沈黙。

 小柄で明るい少女は見る陰もないほど動揺していた。視線を彷徨わせ、唇を噛み、瞳に涙を浮かべている。それでも雫を睨みつけようと顔を上げたのは「自分は悪くない」と思っているからだろうか。


「……着ければいいのね」


 梨樹の持っていたゴーグルを雫が、葵から手渡されたゴーグルを唯香が。

 それぞれに装着したところでリクロスがスタート。

 今回は練習用の時間無制限モード。


「リクロスはね。なにも対戦するためだけのものじゃないんだよっ?」


 楽しそうに、梨樹が翠の耳元で囁いた。



    ◇    ◇    ◇



 姫百合で練習試合をした時、翠は視界にギャラリーが入りにくくなるのを体験した。

 あの機能を応用、というかより徹底すれば「参加者以外の人間を視界から完全に消す」こともできるらしい。


「え、なにこれ。小鳥遊さんたちは……?」

「ちゃんといますよ。でも、こうするとこの場に私たちだけみたいでしょう?」


 始まった途端、唯香は不思議そうに辺りを見回した。

 今、彼女には翠たちの姿が見えていない。

 声もゴーグルがシャットアウトして、お互いの声と環境音だけに集中させてくれる。


 つまり今、この場所は唯香と雫二人だけの世界になった。


 もちろん、二人とも翠たちの存在は知っている。

 知っているけれど、見えないし聞こえないものへの注意はだんだんと弱くなっていく。


「この図書室、中学の図書室に少し似ていませんか?」

「……知らない」


 答える唯香の身体は自然と雫のほうを向いていた。


「ていうかあんた同じ中学だったんだ」

「知りませんでしたよね。私は今も昔も目立ちませんから。……先輩と同じ図書委員だったことも、明日海さんは知りませんでしたか?」

「っ」


 翠たちは前もって雫の知る『事情』を教えてもらっている。

 始まりは、今から一年と数ヶ月前。


「先輩が明日海さんに告白したのも図書室で──」

「やめてよ!」


 悲痛な声が静かな図書室内に響いた。

 大きな声が上がっても、世界はなにも変わらない。風の音も、吹奏楽部の演奏も。翠たちの声が邪魔をすることもない。

 唯香の身体はゴーグルの重さを感じていながら、一方でクリアな視界を維持している。じっと自分を見つめる雫の顔もはっきり見えているはずだ。


「知ってて呼び出したんだ。……なに? あたしを馬鹿にしたかったの? それとも文句を言うつもり?」

「いいえ、そんなことは──」

「嘘言わないで!」


 機器のせいで、翠たちに唯香の目は見えない。

 けれど、彼女が泣き笑いを浮かべているのはわかった。


「中学の時のことなんて思い出したくもない。……あたしは、あの人に告白されたせいで人生めちゃくちゃになったんだから!」

「はい。……先輩は『ここで』あなたに告白しました。返事はいつでもいいからと言って、その場は終わりになって」

「次の日学校に行ったらみんな知ってた! あたしが女子から告白されたこと!」



    ◇    ◇    ◇



 告白された日はきっと悩んだだろう。

 答えは出なかったかもしれない。次の日になっても告白のことが頭から離れないまま登校して、クラスメートに挨拶した途端に『そのこと』を言われたら。


 ──きっと、世界そのものが大きく変わってしまったような衝撃だ。


 想像しただけでひやりとする。

 たくさんのことが頭をめぐって笑顔も取り繕えなくなる。悪意のない声掛けもなにか裏があるのかもしれない、と、信じられなくなるかもしれない。


「あたしのことも、あの人のことも、みんなが好き勝手に喋ってて! 男子から『そういう趣味だったんだ!』って言われて!」


 唯香は、思い知ってしまったのだ。


「女子が女子を好きになるなんておかしいの! だからあたしはみんなから笑われて、変な目で見られたの! 百合なんてなくなればいい! 消えちゃばいい!」


 事情を知ったことで、翠の心から唯香を怒る気持ちは綺麗に消えてしまった。

 もちろん、辛かったからって人を笑う側に回っていいわけじゃない。

 それでも、翠にはもうなにも言えない。

 感受性が強いのはいいことばかりじゃない。唯香の辛さも、彼女に告白した先輩の辛さも、自分のことのように想像してしまうから。


 切なく痛む胸を手でおさえていると、右手に手のひらが重ねられた。

 真綾はなにも言わない。ただ、翠に寄り添ってくれる。

 そして雫は、唯香の気持ちをまっすぐに受け止めて、


「待ってください、明日海さん。……あなたが嫌いなのは『女性が女性を好きになること』ですか? それとも『先輩』ですか? それとも、ですか?」

「っ」

「先輩に明日海さんとの接点はほとんどありませんでした。一方的に見知って、好きになっただけ。……校内で騒ぎになってしまったことを、先輩はとても後悔していました」


 二人がそれから話をする機会はなかったらしい。

 唯香が避けたのもあるし、『先輩』も声をかけられなかっただろう。


 ──もし、噂が広がらなかったら。


 せめて告白の結果が出るまで考える時間を持てたなら、二人が結ばれる未来もあったかもしれないのに。


「明日海さん。あなたは、どうですか?」


 静かな、けれど真っ直ぐな問いかけ。

 視線をそらしても、唯香は逃げられない。本当に向き合うべきはいまここにいる雫ではなく、過去のあの時の自分だから。

 ゴーグルの端に設けられた小さな穴から涙が伝って頬を撫でる。

 唯香は、ゆっくりと両手を持ち上げるとそれを震わせて、


「今更、そんなこと。言ったってなんにもならないじゃない!」

「いいえ。……少なくとも、あなたと先輩の気持ちは救われると思います」


 雫は、『先輩』のことをどう思っていたのだろう。

 百合に忌避感はないという彼女。その当時の気持ちを想像して、翠はさらに胸を締め付けられるそうになった。

 普段は本のページをめくる小さな手が唯香の手に触れて、ぎゅっと包んで。


「私も、きっと救われます」


 壊したかったわけじゃない。

 気持ちを踏みにじりたかったわけじゃない。


 明日海唯香が本当は優しくて──もしかしたら翠と同じように感受性の強い子なのだということは、涙を流すその姿を見てよくわかった。

 だから。

 翠は真綾と、そして二人の先輩たちといっしょに唯香の返事を待った。


 長い、長い沈黙。

 無理矢理に結論付けて胸にしまいこんでいた気持ち。それを掘り起こして名前をつけ直すのはきっと、とても勇気のいる行為だ。

 嗚咽のような声が何度も漏れ、いやいやをするように首が振られる。

 それでも、雫はじっと手を握ったまま待って。


「……あたしだって、あんな終わり方本当は嫌だった。断るならちゃんと断りたかった。別に、あの人のことは嫌いじゃない。告白されたのは嬉しかったのに」

「……言ってくださって、ありがとうございます」

「あっ」


 唯香の身体が優しく抱き寄せられるのを見て、翠はつい声を上げてしまった。

 梨樹が、葵が、真綾までもが咎めるように視線を向けてくるので「だって」と言い訳がましく言ってしまう。

 だって、あんな大胆な。

 ううん。別に女の子同士なんだし。辛いときに慰め合うのは普通なんだけど。

 でも、こんなタイミングでああされたら、まるで。


「なんで」

「私が、あの人の後輩だからです。私が、あの時なにもできなかったからです。……本当にごめんなさい。なにもしてあげられなくて、ごめんなさい」


 やりきれない想いを抱えてきたのは唯香や『先輩』だけじゃなかった。

 騒ぎを大きくしたクラスメートたちだって全員が全員、同性愛を嫌っていたかどうかはわからない。人は、特に子供は『珍しいもの』を大きく騒ぎ立てるものだから。


 ──二人のゴーグルから涙がこぼれて。


「良かったら、手紙を書いてあげてください。今更やり直せなくても。素直になりきれなくても。きっと喜んでくれると思います」

「うん。ありがとう。ありがとう……あの、えっと。あんた誰だっけ?」


 雫の口元が困ったように緩んで。


「雫です。倉橋、雫」


 明日海唯香はこの時初めて、心優しい文学少女の名前を胸に刻んだのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

lily×battle 〜私立桜庭女子学院リクロス部〜 緑茶わいん @gteawine

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ