忘れられた古の大神殿を、強烈な淫気が埋め尽くしていた。
反響する嬌声。
乳白色をした無数の触手が何人もの女たちを拘束、その身体を弄んでいる。
悪夢のような饗宴の中心にいるのは、一体の異形だ。
人間の美女に似た身体。
ただしその裸身は男と女、両方の性器を備えている。
太腿の途中から先は触手となって分かれ、神殿の何割かを埋め尽くしている。
『勇者』ユリウスは、その威容を前に立ち尽くしていた。
「……これが、邪神の力だっていうのか」
「正確には、我が力のほんの一端を表出しているに過ぎぬがな」
邪神と呼ばれた異形は、人と同じ形の唇を歪めてにぃ、と笑った。
「貴様らのようなか弱き存在など、この身にすら遠く及ばぬ」
ユリウスの後ろには、三人の仲間たちが倒れている。
女ながら剛剣を軽々と扱う女騎士。
一行の最年長であり一番の識者でもあるハーフエルフの賢者。
都の大神殿にて聖女の位を授けられた慈愛の神の巫女。
彼らはこの神殿を根城に邪神復活を企む邪教徒たちと戦い、ギリギリのところでその野望を打ち砕いた……はずだった。
しかし、邪教の司祭が一枚上手。
彼はユリウスの一太刀に自らの身を断ち切らせながら、背後にあった『封印の水晶』まで一緒に破壊させた。
聖なる封印を真っ向から解くには長々とした儀式が必要、ただし、同属性を持つ聖剣の一撃であれば守りを無視して水晶を打ち砕ける。
こうして顕現した『邪神のひとかけら』は邪教徒の生き残りを蹂躙。
男は食われ、女は触手に囚われ嬌声を上げさせられている。
こんなはずではなかった。
あるいはこの邪神は、彼らが討伐を目指す魔王より格上かもしれない。
そんなものを目覚めさせてしまうとは。
歯噛みするユリウスに、邪神はゆっくりと語りかける。
「のう、勇者よ。ここは一つ取り引きをせぬか?」
「取り引き、だと?」
「そう」
艶然とした、笑み。
淫蕩を司る邪神の気配は、それだけで人の心をかき乱し堕淫へと誘う。
「我はこの通り、目覚めたばかりでな。上等な贄を所望しておる。そこで──お主、我に一匹、雌を捧げよ」
「な……っ!?」
邪神に、女を捧げる。それがどんな意味を持つか、触手に囚われた女信者たちを見れば簡単にわかる。
「なに、難しいことではない。お主はただ、その者の名を口にすれば良い。それだけで契約は成立し、その者は我の贄となる。
代わりに我はお主らを見逃し、この世に手出しをせぬと誓おう」
破格の条件と言っていい。少なくともこのまま全滅するよりはマシだが……しかし。
「なにを迷う? 女ならそこに二人もおる。もちろん、上等な雌でなければ我の眼鏡には適わぬが、その者らならば十分よ」
「そんな事……っ、できるわけがないだろう!?」
「そうだ、ユリウス……っ、止めろ、邪神の誘いに乗ってはならない」
苦しげに呻きながら声を上げたのは賢者だった。
彼は這うようにユリウスに近づくと、制止するように足を掴んでくる。
「わかってる。でも、他に方法がない」
「……なら、せめて、奴の裏をかけ。耳を貸すんだ。私に考えがある」
しゃがんで耳打ちを受けたユリウスは、賢者らしい知恵に目をみはった。確かに、それならば邪神との取り引きを成立させ、そのうえで無事にやり過ごすことができるかもしれない。
ただしリスクもある。
失敗した時に備え、口にする名前は身内のものとしておきたい。
ユリウスはぐっと唇を噛みしめると、邪神を見据えて答えた。
「わかった。なら……俺はユリシア・クロ―ヴィスを捧げる。彼女は既に亡くなった、俺の母だ」
「ほう」
邪神が目を見開いた。故人の名を出されるのは予想外だったのだろう。
これが、賢者の策。相手の提案に乗り、捧げる者の名を口にはするが、その相手は故人のためになんの干渉も受け付けない。
超常存在との契約は魔法的な側面を持つため、成立してしまえばお互いそれに逆らうことはできなくなる。
「なるほどな、考えたではないか」
黒い光──矛盾を孕んだ力が邪神とユリウスを縛る。
契約は履行され、邪神は世界に手出しをすることができなくなった。
勝った。
形だけとはいえ身内を差し出した罪悪感を覚えながら、ユリウスは安堵の息を吐き、それから見た。
邪神の、まるで「してやられた」ようには見えない笑顔を。
「では、契約通りお主の『母』をもらい受ける」
次の瞬間、景色は大きく変わり──そして、ユリウスはユリウスではなくなっていた。
◇ ◇ ◇
ふわふわとして、心地がいい。
全身を極上の寝具に包み込まれているような。
あるいは、母に抱かれて眠っているような。
いったい、いつからこうしているんだろう。
ユリウス『だったもの』は微睡みの中でそう疑問を浮かべ、ゆっくりと瞼を開いた。
すると鈍化していた感覚が戻り、急に周囲の音が鮮明に聞こえてくる。
「ああっ♡♡ いいっ♡♡ いいですぅっ、主様ぁっ♡♡」
ぐちゅぐちゅと粘液の鳴る音。あられもない女の嬌声。それが幾重にも石の神殿に響き渡っている。
神殿。さっきまでいた廃神殿と構造は同じなのに、土や埃、蔦は全て取り払われて磨き清められている。代わりに床や壁は乳白色の触手で埋まり、触手の分泌した謎の体液と、女たちの分泌液とでむわりとした空気が漂っている。
捕らえられているのは若く、美しい女たち。それをぐるりと見渡したユリウス(?)は、勇者として「それ」と対峙した時と同じく中心を見た。
「邪神……!?」
発した声はどういうわけか高く、どこか甘さを含んでいた。
対する邪神はあの時とまるで同じ姿で、違うのは一人の美女を抱いていること。
美しい金髪を持つ、二十歳前後の女だ。娼婦のような体つきと、下腹部に浮かぶ淫らな紋が気になるが──その顔立ちはどこか勇者ユリウス・クロ―ヴィスに似通っている。
はっとした。
ユリウスが同じ年ごろの彼女を見たのは遠い昔のことだが、間違いない。
「母さん、母さんなのか……っ!?」
駆け寄ろうともがいて初めて、自分が周りの女たち同様に拘束されていることに気づいた。
触手に抱きしめられた身体は白く滑らかで、真っすぐに垂らされた白銀の髪が肌を撫でる感触まで敏感に受け取れる。
細い両腕と裏腹に胸と尻は豊満で、足にも華奢な印象を殺さない程度にむっちりと肉がついている。
なんだこれは、これではまるで。
愕然とするユリウスに、邪神と、それに抱かれた女が視線を向けてくる。
彼女たちは艶やかな笑みを浮かべると、続けて言った。
「ああ、目が覚めたか。おはよう、ユリーシャ」
「どうしたの、ユリーシャ? 怖い夢でも見たのかしら? 大丈夫よ、あなたは私と主様の娘だもの。どんなことがあっても主様が守ってくださるわ」
「な」
唇がわなわなと震えた。
「どういうことだ。なんだ、これは……!? 俺はユリーシャなんかじゃない。俺は勇者、ユリウスだ。母さんは死んだはずなのに、どうして……っ!?」
「ああ、なるほどね」
くすくすと、邪神が笑った。
「ユリシアの存在は不思議だったのだ。何故、我がなにもしていないのに『我に魂まで染められた存在』がいるのかとな。その理由がようやくわかった」
まるでいとおしむように母の頬を撫でながら、彼女は悠然と告げてくる。
「ユリーシャ。お前は、我と契約を交わしたのだな? 大方、勇者として我と戦い、敗北し、代償に母を捧げるとでも言ったのだろう。故人を挙げれば問題ないとでも思ったか? 残念だが、我の力はそこまで甘くない」
「あ」
言わないでくれ。
それ以上口にしないでくれ、そんなユリーシャの願いは届かず。
「契約は遡って履行された。勇者の母となるはずだった娘ユリシアは、生まれた時から邪神の巫女として身体と魂を染め上げられていた。そして、自然な成り行きとしてここで我のかけらを見つけ、復活させた」
「やめ」
「今のお前は勇者ではない。変わる前の歴史の記憶を持ってはいるが……今のお前はユリーシャ。我と、そしてその花嫁となったユリシアとの間に生まれた『邪神の御子』だ」
「やめろおおおおおおおおっっっ!?!?」
絶叫が神殿内に響き渡り、そして、空しく消えていく。
ユリーシャがどれだけ泣き叫んでも現実は変わることがなく。
彼は、いや彼女は、自分がとんでもない失態を犯したことをようやく悟った。