園の系列小学校では、入学時点である程度の学力を求められる。
ひらがなの読み書き、自分の名前を漢字で書ける、ある程度の文章を読める、桁数の少ないたし算・ひき算ができる、アナログ時計が読める、横断歩道の渡り方などの交通ルールを理解している……などなど。
なので、園でもこのあたりをしっかり教えられる。
前世の幼稚園時代はもはやあいまいだが、さすがにここまではやらなかった気がする。自分の名前をひらがなで書ければ上出来だったんじゃないか……?
定時になって先生から集合がかかると、挨拶、それから歌を歌う時間を経て、書き取りの時間になった。
この年頃の子ならじっと椅子に座っていられない子も多いだろうに、クラスの子たちはそわそわしている様子を見せつつもちゃんと座って課題に向き合っていて。
感心しながら鉛筆を走らせていると、「すごい!」と感嘆の声。
「やっぱり、れいかちゃんすごいね! こんなに綺麗に自分の名前が書けるんだもん!」
隣の子が持ち上げた紙面には、乱れのほとんどない字で書かれた漢字のフルネーム。
持ち上げられたれいかちゃんはふふん、と胸を張って、
「当然よ。だってれいかは県議の娘だもの!」
出た。れいかちゃんの「県議の娘だもの」。
お父さんとお爺さんが県議会議員なのを誇りに思っているらしく、ことあるごとに口にしている。
クラスの子たちはもう聞き飽きたくらいだが……相応に勉強を課せられているのも事実のようで、実際れいかちゃんはトップクラスに優秀である。
おかげで余計にプライドが高くなっているのだが。
「どう? 莉緒はどうせこんなに綺麗に書けないでしょう?」
どういうわけか、俺(莉緒)はそのれいかちゃんから目の仇にされやすい。
わざわざ身を乗り出すようにして俺の出来を確認してくる彼女に、みゆちゃんがむっと頬を膨らませる。
大人しい性格のみゆちゃんはあまり面と向かって人の悪口を言ったりしないが……俺と仲の良い子のグループとれいかちゃんと仲の良い子のグループはゆるやかな対立関係にある。
言っても、こっちは煽られない限り口を出す気はないのだが。
むやみに他人を挑発するような態度はさすがに気に食わない。
「れいかちゃんほど上手いかはわからないけど、わたしだって書けるよ」
言って、「四条莉緒」と書いてみせる。
四条はともかく莉緒ってけっこう難しいな……と、あらためて書いてみて思ったのは内緒である。
すると、れいかちゃんはぷるぷると震えて。
「だからなに? れいかのほうが上手いんだけど!?」
「れいかさん、莉緒さん、けんかはだめですよ」
先生に怒られてしまった。俺は「ごめんなさい」と言って課題に向き直った。
それからもれいかちゃんは何度も俺に突っかかってきて、
「莉緒、れいかはこんな計算もできるのよ!」
「れいかはこの前、お父様とクラシックバレエを見に行ったんだから!」
自慢合戦をする気はなくとも、だんだんこっちもいらっとしてくる。
「れいかちゃん、その計算間違ってるよ」
できるだけ感情を出さないように告げると、れいかちゃんは「嘘!?」と声を荒げた。
「87+78は、80+70と、7+8に分けたらわかりやすいよ」
具体的に説明すると、周りから「あ、ほんとだ!」と感心したような声が上がるも、れいかちゃんは納得できなかったようで。
「間違ってない! 莉緒の計算のほうが間違っている!」
「二人とも、どうしていつもそうやって喧嘩するんですか」
また先生に怒られた俺は「ごめんなさい」と頭を下げて謝った。
◇ ◇ ◇
「れいかちゃんもヒロインの一人なのかな」
帰宅後、クロを掴まえて尋ねると、彼(?)は「さあね」と素っ気なく答えた。
「どうしてそう思ったんだい?」
「俺にぐいぐい関わってくるってことは、主人公ともそうなる可能性が高いだろ」
「それだと、君と仲の良い子も怪しいことになるね」
確かに、みゆちゃんも候補になる。
「あまり疑いすぎるのも良くない、とは言っておこうか」
「そうなのか?」
「君の知っているマンガやゲームでは、主人公とヒロイン以外の若者はいっさい登場しないのかい?」
「いや。悪役がいたり、ヒロインの親友みたいなキャラがいたり……ああ、そういうことか」
主人公の関係者と俺の関係者がイコールとは限らない。
いわゆる幼馴染ヒロインとかなら別だろうが、どう見ても俺は違うっぽいし。
れいかちゃんやみゆちゃんは、恋愛ゲームで言うところの「四条莉緒ルートの登場人物」といった役どころかもしれない。
と言ってもクロいわく、現時点で未来が決まっているわけではないらしい。
「……ところでお前、また身体が荒れてないか?」
しげしげと眺めつつ言えば、クロは「ようやく気付いたか」とでも言いたげに首を動かした。
「あいつのせいさ」
「ああ、バロンが遊んでくれてたんだ。よかったね」
「いいわけないだろう!? 日中は暇だからか、この部屋のドアを開けてまでボクにじゃれついてくるんだ!」
ぬいぐるみじゃなかったら涙目になっていそうな必死さである。
バロンとしてはちょうどいい遊び相手くらいのノリなんだろうが……大型犬だけあって、俺(莉緒)とそう変わらないくらいの体格があるからな。
黒猫の等身大ぬいぐるみでは翻弄されるしかない。
「でも、バロンったらドアまで開けちゃうなんて器用だね」
「呑気に幼女モードで言っている場合じゃないんだよ。家を出る時はドアに錠前でもつけてくれないか」
「そんなことしたら『娘がおかしくなった』とか言われるだろ」
「じゃあ幼稚園に連れていってくれ。それならいいだろう?」
うーん、と、俺は悩んだ。
「まあいいけど、お前、外では絶対喋るなよ。あと動くな」
「それくらいはわかっているさ。他の人間にボクの存在が知られるのはまずいからね」
そういうことであれば、と、俺は了承する。
クロの身体を可能な範囲でメンテナンスしてやり、夜、家族のだんらんの時間に母に尋ねてみる。
「ママ、小さな首輪かなにかないかなあ? この子をかばんに付けたいの」
「あら、最近その子がお気に入りなのね。でも、あんまり構うとバロンが拗ねちゃうわよ」
「大丈夫だよ。バロンもこの子が気に入ってるから。ね、バロン?」
「わう!」
母は動かなくなってしまった腕時計のベルトを利用して首輪っぽいものをさっと作ってくれた。これを太めの紐でかばんとつなげば黒猫のお守りの完成である。
「うん。ちょっとおっきいのが気になるけど、悪いことから守ってくれそう」
神様の遣いなんだからそのくらいのご利益はあってもばちはあたらないんじゃないかと、つんつんとクロをつついてやった。
「ね、莉緒ちゃん。その子、どうしたの?」
「あ、みゆちゃん。これはね、お守りなの」
登園するとすぐ、みゆちゃんがクロに気づいて声をかけてくれた。
自称神様の遣いは言いつけ通りじっとしていて、みゆちゃんに撫でられても黙っている。
「可愛いね、この子、名前はあるの?」
「うん、クロだよ」
「へー。クロちゃんかあ」
目を細めながら「マリアもぬいぐるみだったらこんな感じかなあ」と呟くみゆちゃん。邪気のない様子に心が和む。
そんな俺たちを見て、他にも何人かの子が寄ってきた。
小さい女の子というのはたいてい可愛いものが大好きなのである。
しかし。
俺たちがきゃいきゃいやっていると、またしても「ふんっ」と邪魔する声。
「そんなの、お守りでもなんでもないじゃない」
クロ、ここにはバロンはいないけど、代わりに厄介な奴がいたぞ。