弟が真面目に仕事をしている姿に見惚れてしまう話


 その日、親衛隊の勤務が休みだったヴァリアンテは、どこから聞きつけたのか黒羆バラム師団長である実弟からランチの誘いを受けていた。

 二十四時間年中無休のように思われている親衛隊だが、長時間勤務後は休日を与えられるし、同僚との勤務割り振りができるなら、長期休暇を取ることも可能だ。ただ、親衛隊に所属する者は、自分の休養よりも主への奉仕を生きがいにしているところがあるので、時間外労働は大歓迎だし平気で休暇を忘れてしまう。

 そんな筆頭であるヴァリアンテは、主である女王が見かねて勝手に休暇を出すことも少なくない。今日もそんな日だった。昼から休暇を取らされている。明日の夜まで城には帰ってくるななんて言われて、ちょっとショックを受けた。

 隊長就任から日が浅かった当時は融通を効かせず常に女王の隣にいたものだが、信頼できる部下が育ち、王国の内部問題も片付いて久しい今は、女王の休暇命令を拒否することはなくなった。

 身分を示す目立つ隊服から私服に着替え、それでも手放すことはない親衛隊騎士章を胸に戴いたまま、ヴァリアンテは待ち合わせ場所へむかった。今日は、師団本部近くのレストランで昼食をとる予定だった。

 だが、時間になっても相手が現れない。実弟のカーシュラードにしては珍しいことで、急ぎの仕事でも入ったのかと見当をつけた。あまり多くないが、ないわけでもない。

 ヴァリアンテは気分を害するでもなく早々に見切りをつけた。黒羆師団の本部へ足を向け、道すがら気に入りのベーカリー&デリに立ち寄る。店は混んでいたが、目星のものは買えた。

 黒羆師団の本部の警備兵の敬礼には目礼で返し、誰何されることなく建物の奥へと進む。

 親衛隊は女王直属の護衛官だ。仕える主の代弁を許される立場の者なのでどこへ立ち入ろうと許されるが、本部の中枢に辿り着くまで誰ひとり訪問理由を尋ねないのもどうなのだろう。ヴァリアンテはここのトップに伝えようと心に書き留めた。

 ただ、その地位を悪用する者は、そもそも親衛隊に所属することすら適わないよう厳密に審査されている。親衛隊員というだけで、あらゆる信用に値するのも事実だ。

 片腕に紙袋を抱えたまま、師団長のプレートがついた重厚な扉をノックする。わずかに時間をおいて、聞き覚えのある声で誰何が返された。先に扉を開けないということは、何かあったのだろう。

「ヴァリアンテ・ゼフォンですが、師団長閣下に届け物をしてもいいかな」

 柔らかい声を心がけて要件を告げると、扉はすぐ開かれた。

「これは親衛隊長殿。申し訳ございません、ただいま立て込んでおりまして……」

 顔を出したのは白髪交じりの男性だ。クウィンデル・サムハイン。カーシュラードが部隊長時代からの副官で、現在は事務官長となり師団長付きの事務方トップとして働いている。

「そうかな、と思って。見てのとおり私は私用だからすぐにお暇するけど、これを渡してもらえると助かります」

「いえ、入っていただいて結構です。あなたを帰してしまっては、私が師団長に愚痴られますよ」

 小麦とバターと匂いが漏れる紙袋を持ち上げてみせたヴァリアンテに、サムハインは笑って答えた。すぐに扉を開けて迎え入れてくれる。押し問答するような手間を取らせる気もないので、ヴァリアンテは礼を述べて素早く中に入った。

 師団長室は手前に応接間があって、その奥に師団長の執務室がある。応接間の右手には小会議室、左手には事務官用の執務室と給湯室の扉がある。いまは扉という扉が全て開け放たれていた。事務官室と会議室を兵士が行き来し、執務室ではカーシュラードが咥え煙草で書類を読みふけっている。なるほど、ある種の戦場だ。

「ご覧の有様で。あまりお構いできませんが……」

「気にしないで。適当にしてるから、私は置物か何かだと思って仕事に戻ってよ、サム」

「痛み入ります」

 苦笑をこぼしたサムハインが、目礼をして会議室へ吸い込まれていった。

 ヴァリアンテは給湯室のカウンターテーブルに紙袋を置いて、ケトルでお湯を沸かした。シンクにはコーヒーをいれたポットがそのまま置いてあるので、お湯が沸くあいだに洗ってしまう。

 大きなティーポットを見つけたので、ベーカリーで一緒に買った紅茶をいれた。ティーカップは邪魔になるだろう。支給品のマグカップに紅茶をついで、応接セットのテーブルに並べておく。

「紅茶を置いておくので、水分補給にどうぞ」

 会議室に一声かけて、師団長には直々に給仕に回った。執務室の背面には大きな窓がある。昼をすぎた柔らかな明かりが差し込んで、カーシュラードの赤毛が光に透けていた。

「部外者が入っても平気?」

「ええ」

 答えは短く、視線を上げることもない。けれど、その気配が近寄ることを許している。執務机を回り込んで、空になったマグのかわりに新しいマグを置いた。

「助かります」

「それはよかった」

「あまりに素敵な『置物』すぎて、見惚れそうです」

「馬鹿言ってないで、ほら、ついでにこれも」

 ナッツとキャラメルのクッキーを差し出すと、カーシュラードは口の端に笑みを乗せて唇を開いた。一口サイズなので、口に押し込んでしまえば手を汚すこともない。

 謝罪か感謝を告げようという気配を向けられる。口の中に物が入っているから話せないのだ。声の代わりに瞳を向ける余裕もない。カーシュラードは一度だって書類から視線を上げなかった。

「わかってるよ」

 ヴァリアンテは気にするなという気持ちをこめて、指の背で彼の頬をなでた。言葉がなくたって、何を言いたいかは感じられる。

 これ以上邪魔する気はないので、ヴァリアンテは大人しく給湯室まで戻った。回収したカップを洗って、ついでにクッキーをかじる。糖分を入れておけば、昼食を食べられるようになるまで腹を鳴らさずに済むだろう。

 待ち合わせをすっぽかした謝罪や、これからどうするのか何も言わないけれど、だからこそ待っていろということだろう。終わりそうにないのなら、カーシュラードはそう告げたはずだ。

 手持ちぶさただが、つまらなくはない。応接用のソファに端に座りながら、ヴァリアンテはぼんやりと執務室を眺めた。両開きの扉を開け放つと、威圧感が薄れて開放感が生まれる。キャビネットと本棚が並び、反対側には尖った長い葉を垂らす観葉植物の鉢があった。磨かれた黒檀の机は年代物なのだろう。歴代の師団長が使用していたに相応しい重厚さだ。

 会議室から報告にきた事務官の話を聞いて指示を返すカーシュラードは、刀を振るう姿とは違った安定感があった。外見こそ二十代後半から三十あたりだが、纏う気配は師団長という肩書きに相応しい。部下たちの視線にも、上司を絶対的に信頼しているという態度が感じられる。

 カーシュラードのデスクワーク姿はほとんど見る機会がないので、ヴァリアンテには新鮮だった。

 長く無骨な指を唇に押し当て、考え込むたびに指が揺れる。かと思えばシガレットケースをなで、爪先でつつく。集中しているせいか、指の動きは無意識なのだろう。思案する顔はゾクゾクするほど整っている。

 あらためて思うが、我が弟ながら顔がいい。混血というのは不思議な作用を生むのかもしれない。カーマ人らしい荒々しさを、ダークエルフの血が美しく研磨している。クセルクスの家系は昔から顔が整っていたらしいけれど、老化の止まったカーシュラードにはさらに不思議な魅力があった。

 漆黒の瞳は鋭く冷たい氷のようなよそよそしさと、火傷しそうな情熱が混在している。切れ長で、縦に裂けたような瞳孔が見えないので、とてもエキゾチックにも感じた。鼻筋が通り、薄い唇はセクシーだ。無骨さはないのに、弱さは感じない。雄性の強靱さを帯びている。

 精悍な美形が真剣に仕事に打ち込む姿は、男女問わず見惚れてしまうんじゃないだろうか。働く姿を見て恋に落ちる者の気持ちが、なんとなく理解できてしまった。

 そう。恋だ。彼を見つめて感じる胸の高鳴りは、親愛では説明がつかない。ただ慈しみたい愛情もあるけれど、性欲や独占欲が混じってしまう。その漆黒の瞳に情熱を燃やして見つめてほしい、なんて考えがよぎる。それはもう、親族に向ける感情ではない。

 弟だということは理解している。けれど、一緒に育ったわけではないので、未だに兄弟の絆のような実感はわいてこない。けれど、子供の頃にずっとひとりだった反動なのか、弟という生き物が可愛くてたまらない。同時に、彼を唯一の同族だと思っているし、ひとりの男として見てしまう。

 カーシュラードと愛しあうようになった最初の頃は、若い押しの強さに流されていた。長く付き合っていき、己も歳を重ねていくと、彼に対して恋心を抱くようになってしまった。この気持ちをどう処理していいのか、まだわからない。

 ヴァリアンテは己の感情を持て余したまま、カーシュラードに見惚れていた。

 節の目立つ硬い指を視線で追う。書類をめくり、机を軽く叩く。そっと持ち上がって、薄い唇をなでた。穏やかで、真剣で、見ていて飽きない。

 けれど、ふいにその唇が動いた。独り言ではなさそうだ。じっと動きを追っていると、それは意味のある単語になった。ヴァリアンテ、と。無音で名を綴られ、弾かれたように視線を上げる。

 カーシュラードは書類ではなくこちらを見つめていた。からかっているのだ。それはわかる。だが、漆黒の瞳が妙に生々しい熱を纏っていて、ヴァリアンテは慌ててそっぽを向いた。

「……くそっ」

 誰にも聞こえないように小さな声で悪態をつく。執務机と応接用のソファでは距離があるのに、カーシュラードが吐息混じりに笑う声が聞こえた気がした。

 顔が熱い。心臓が早鐘を打っている。なんなんだ。真面目に書類を読んでいたはずなのに。あんな目は、日中に見せていいものじゃない。余計なことを思い出してしまって、腹の奥がぐるぐると疼く。唐突に、最後にセックスをした日付を思い出そうとしてしまい、慌てて気を散らした。

 集中しているところを見つめられて気が散ったのかもしれないが、邪険にするにしても、もう少しやりようがあるだろう。

 流し目ひとつでときめいた自分が悔しい。弟という生き物はただ可愛い存在だったのに、彼が狩る側の雄だと思い知らされる。

 ヴァリアンテは羞恥を隠すようマグに口をつけ、心を落ち着けるべく紅茶を飲んだ。

 平常心を取り戻そうとしたその時だ。

「あった! これだ!」

 会議室から若い男の叫びが聞こえた。歓声が続き、サムハインが足早に執務室へむかう。

「団長、こちらです」

 書類を受け取ったカーシュラードは、しばらくしてうなずいた。顔を上げて椅子の背にもたれ、息をつく。

「結構です。サムハイン、差し替え処理を頼みます」

「かしこまりました」

「ジャッカ、ブレンダ」

 事務官長と入れ違いで男女が呼ばれ、手短に指示を与えている。できるだけ内容を聞いてしまわないよう、ヴァリアンテは壁にかかった絵を見つめた。

「不都合があれば、僕の名前で押し通しなさい」

 事務官は敬礼を返し、何やら慌ただしく事務官室や会議室を行き来する。ヴァリアンテは邪魔にならないよう、そっと気配を消した。

「あ、あの、紅茶をありがとうございます」

 事務官の青年が執務室を出る前に、一度立ち止まって感謝を伝えてくれる。微笑みで返せば、彼は足早に去っていった。

「ヴァリアンテ」

 呼ばれて顔を向けると、淫靡な気配など微塵も出さずにカーシュラードが穏やかな表情でこちらを見つめていた。

「もう少しで終わりますよ」

「気にしないで。なかなか面白いものが見られたしね」

 会議室では事務官たちが作業を行っているので、私的な会話は極力控える。カーシュラードがわずかな謝罪を滲ませて、小さくうなずいた。しばらくは万年筆が紙を滑る音が続いた。

 待つのは苦ではない。戦闘指揮をとる姿とは違った静かな態度を眺めるのは、なかなか心が躍った。途中で恋する少女のような心境にさせられたのは複雑だけれど。

「師団長閣下、魔術証印をお願いします」

 サムハインが紙束をかかえて執務机に戻ってきた。受け取って厚みを確かめたカーシュラードは、魔力を溶かした特別なインクを使って何枚かにサインをした。

 魔力による本人証明は、いっさいの偽造が不可能だ。ヴァリアンテも立場上、何度も公的な書類にサインをしているので、やり方は知っている。

 署名をするごとに己の魔力を焼き付けるのだが、カーシュラードはそれをしない。不思議に思って眺めていると、彼は書類をすべてまとめ、利き手を押し当てた。一瞬、指のあいだから光がもれて紙束が震える。

「……横着だなぁ」

 普通は一枚一枚捺していくものをいっぺんにやってのけた弟に対して、ヴァリアンテが苦笑混じりにつぶやいた。

「器用、と言ってください。こちらのほうが効率的です」

 数が多ければそうだろうが、普通はそんなことはしない。というより加減ができないんじゃないだろうか。そういう意味では器用だが、失敗して紙を焦がす心配はないのだろうか。サムハインが止めないということは、大丈夫なのだろうけど。

 カーシュラードは写り込みの甘い物がないか確かめ、問題がないと認めてから事務官に書類を返した。自分の仕事は終わったとばかりに立ち上がって肩を回している。そして、煙草に火をつける要領で、紙を一枚燃やした。魔力の残滓を弾けさせ、煤が灰皿の上に散って消えた。

 やがて退室していた事務官が戻ると、カーシュラードは全ての事務官を呼んだ。

「さて、ようやく安心して昼食が取れますね。君たちもご苦労さまでした。休憩は十五時半まで延ばして結構です。外で休んできてもかまいませんよ」

 ねぎらいの声をかけられた事務官たちは肩から力を抜いた。サムハインだけこらえきれずに苦笑を浮かべ、執務室の両開き扉を閉じている。気を利かせてくれたのだろうか。

 なんだかむず痒い気持ちになりながら、ヴァリアンテは立ち上がった。給湯室に置いておいた昼食の紙袋を抱え、気を緩めた事務官たちと挨拶を交わす。腹が減ったとなげく彼らを見ていると、ベーカリーで人数分を買ってくればよかったと後悔した。まさか事務官全員で詰めているとは思わなかったのだ。

「ヴァリアンテ」

 半分閉じた扉の前でカーシュラードが呼んでいた。急かす態度は子供みたいだ。苦笑を浮かべ、マグカップを片手に執務室に入ると、部屋の主は扉を閉じた途端にヴァリアンテを抱き寄せた。

「こら、危ないって」

「伝令も出さずにすみません」

 挨拶にしては親密すぎる仕草で頬にキスをする。けれどそれ以上をする気はないのか、カーシュラードはすぐに離れた。

「呆れて帰ってしまったかと思っていたんですけど、嬉しい誤算ですね」

「私用に伝令なんか出したら、それこそ呆れるよ?」

「そうですか」

 カーシュラードは上機嫌で応じ、簡易椅子を引いた。普段はエスコートする側だが、される側というのも貴重な体験だ。くすぐったいけれど慣れてしまった。大人しく座って、執務机の上に昼食を並べていく。デスクで食べるのは褒められたことではないけれど、滅多にないことだから、なんだか浮かれてしまう。

 ベーカリー&デリで買ってきた昼食は、ボリューム満点のバゲットサンドだ。パストラミを挟んだものはカーシュラードに。レモンソースのチキンは自分用に。付け合わせは揚げたマッシュルームとポテト。ミニトマトとチーズをソースであえたサラダ。フォークのかわりに長い串が刺さっているので、ピクニックみたいだ。

「あ、サムにコーヒーをいれてもらえばよかった!」

「……あれはギャルソンじゃありませんよ」

 カーシュラードが仏頂面でつぶやいた。

 サムハインは事務官としても優秀だが、彼のいれるコーヒーは、紅茶派のヴァリアンテも認める味だ。かの王配はその昔、コーヒーの味だけでサムハインを引き抜こうとしたこともあるという。いつか、カーシュラードが拗ねないときにでも頼んでみよう。

 ヴァリアンテはコーヒーを諦めて、チキンサンドに齧りついた。なんだかんだ言って、待っていたぶん腹は減っているのだ。カーシュラードも倣う。しばらくはふたりそろって、黙々と咀嚼に勤しんだ。

「あなたの選ぶものに外れはありませんね」

「そう? よかった。デザートはアプリコットパイだよ」

 目立った好き嫌いはないけれど、カーシュラードは肉が好きだ。特に、赤身の肉が。だから大抵それを選んでおけば外れないのだが、素直に喜んでくれるのは嬉しい。

「ランチの埋め合わせはいつか、次の休日にでも」

「……んー、休みの日は君とばかり一緒にいる気がする」

「おや、不満ですか? 休み以外は一緒にいられないのに?」

「そう言われると、そうなんだけど」

 独り身でいた頃より、カーシュラードと連れ添うようになってからの方が長い。時間があれば顔を見たいと思うくらいには情がある。会わなければ焦がれるので、それだけ愛していることは確かだ。

 戦時中ではないのでカーシュラードの方が休みは多いけれど、暇なわけではない。そして休みを取らないのは何よりヴァリアンテの方だった。無理矢理にでも予定を合わせなければ、一緒に過ごすことは難しい。

「長く時間が取れるなら、屋敷に籠もりましょう。あなたと手合わせもしたいし、ベッドで過ごしたい。カレンツの子供たちが育って士官学校に通うようになれば、あなたを連れ込んで淫蕩な休日を過ごすのも難しくなる」

「それはそうだけど、今だって後ろめたいよ。君のとこの使用人の口が堅いのは知ってるけどさ……」

 ヴァリアンテは親衛隊長に就任したとき、城下に借りていた部屋を引き払ってしまった。今は王城に一室を与えられ、そこで暮らしている。職場に住んでいるようなものなので、私室で休日を過ごしていても勤務の延長のような感覚になるし、恋人を連れ込むこともできない。

 だから、カーシュラードに呼び出されるのは、正直なところ助かっているのだ。目が曇らないように、物理的な距離をとって精神をリセットする。奉仕は本分だけれど、王城の外の空気を吸うことも大事だ。

 けれど、王都ではお互いの知名度が邪魔をして暢気に街歩きをするのも大変だった。常に規範として立たなくてはならず、気を抜くことが難しい。だから、結局はどこかに籠もることになる。師団寮の上級士官棟に借りているカーシュラードの部屋か、軽い手合わせができる庭のあるクセルクス邸のどちらかだ。人目を考慮するとクセルクス邸にお邪魔することがほとんどだった。

 カーシュラードは当主ではないので、クセルクス邸の主寝室を使っていない。学生時代から住み慣れた部屋をそのまま利用している。ヴァリアンテが尋ねるときは当然客間を用意されているけれど、そちらのベッドで眠ったことは片手で足りる程度だった。

「彼らは血のつながりを知りませんよ。師団長と親衛隊長の密会に協力していると認識しているはずです」

「だとしても、昼過ぎまでキッチンに顔も出さずっていうのは、ちょっと……、はしたない気がするんだけど……」

「はしたない……? いまさら? あんなに情熱的な視線で僕を見つめておいて?」

 その物言いに、囓りかけのマッシュルームを吹き出しそうになった。咄嗟に唇を押さえ、咀嚼して飲み込む。

 書類に集中していた顔に見惚れてしまったのは確かだ。視線というものは厄介で、そこに何らかの意志が籠もっていれば感じとれてしまう。しかもカーシュラードは戦士としての感覚に特化しているので、ある程度は感情まで察することができるだろう。

 だからこそ、カーシュラードはやり返してきたのだ。まともに煽られて視線をそらしてしまった時点で、きっとヴァリアンテは負けていた。何に負けたのかよくわからないが、とりあえず、何かに負けたという感覚だけがある。

「……デスクワークしてる君が珍しかっただけだよ」

 照れ隠しに唇を引き結ぶと、カーシュラードは吐息に笑みを混じらせた。

「本当にそれだけですか?」

「私に何を言わせたいんだ」

 こんな真っ昼間から猥談に興じたいのだろうか。人目があれば性的な匂いなんかさせないくせに、ふたりきりになった途端に甘えはじめる。精悍な師団長が自分にだけ子供みたいな態度をみせるのは、実は結構な優越感があるけれど、恥ずかしいものは恥ずかしい。

「あなたが僕のせいで心を乱すのは、すごくいいですね」

 ふふ、と上機嫌にバゲットサンドに齧りつくカーシュラードは溌剌とした少年のようだった。ちょっと可愛いと思ってしまった。まったく、暢気なものだ。こっちは自分の感情を制御することで手一杯だというのに。

 先に惚れた方が負けなのだとはよく聞くけれど、あれは間違っているとヴァリアンテは思った。絶対に、後から惚れた方が負けだ。相手の感情を笠に着ておごり高ぶっていられなくなる。

 まだ愛されているのかと、急に臆病になるのだ。追われているときは余裕でいられたのに、追う立場になると不安を覚えてしまう。いまさら遅いと突き放されることが怖くて、追われるままでいたいと立ち止まってしまう。最近は、そんなことを考えるようになってしまった。

「ヴァリアンテ」

 不意に呼ばれて我に返った。指で顎を上げられ、強制的に視線を合わせられる。探られているというより、心配してくれているのだろう。漆黒の瞳は澄んでいた。

 こういう優しい仕草が好きだ。触れられた場所から熱が広がる。

「嫌いなハーブでも入ってました?」

「え?」

「いえ、チキンをにらんだまま黙るので」

「あ……、ああ、いや、ちょっと考え事してただけ」

 言い訳じみた声になってしまうのは、気恥ずかしいからだ。何を怖がっているんだ。それこそ、いまさらだろう。追うのが遅いかどうか、追ってみなければわからない。

 というか、これは多分、欲求不満だ。

 カーシュラードが休日をねだるのも納得できるだけ、熱を分け合っていない。それなりに年齢は重ねているが、老化しないということは性欲も衰えないのだ。

 せっかく意識を逸らそうとしていたのに、一度自覚してしまうと駄目だった。セックスをしたくてたまらなくなる。この飢えを抱えたまま女王の隣に立てば、聡い彼女のことだからすぐに見抜いてしまうだろう。

「……君、明日も勤務だっけ?」

「あなたを昼過ぎまで部屋に閉じ込めておけるなら、有給休暇をとる準備はできています」

「……実は、明日の夜まで帰ってくるなって言われてて」

「知ってます」

 なんで知ってるんだよ。

 思わず問い詰めたくなるけれど、こちらを見つめる漆黒の瞳が獣のようで、冗談で流せなかった。

「僕の方こそ本当は昼で退勤する予定だったんですよ。ここまで長引くとは思いませんでした」

 長嘆するカーシュラードは、例え休暇申請をしていても仕事を優先する。その点は自分と同じだ。

「それで、仕事は終わったの?」

「そうですね。事務官達と打ち合わせることが一件あるくらいです。通常の退勤時間よりは早く帰れるとは思いますけど。なんだったら、終わるまでこのまま居てくださってかまいませんよ」

 淡々と予定をすり合わせているようで、その実、お互いの欲望を探り合っている。カーシュラードの長い足が、ヴァリアンテのふくらはぎに触れた。

「最後にしたの、いつだっけ」

「四週間くらい前ですね」

 よく覚えているなと呆れるより、数字を突きつけられたことで疼きが強くなった。それだけしていなければ、欲求不満にもなるだろう。愛する女王に暇も出されるわけだ。

「……まずは、手合わせかな。夕暮れの中でもかまわない?」

「ええ、気配を読むいい稽古になる。それに、明日のあんたは万全じゃなくなってるでしょうし」

 遠回しに抱き潰す気なのだと宣言されて、ヴァリアンテは内心で苦笑した。トマトを串に刺しながら、そうだなぁ、と思わせぶりに囁く。

「手合わせの後って、燃えるよね。凄く疲れるけど」

 舌先でソースを舐めて、真っ赤なトマトにくちづける。性的なアピールを過分に含んだ仕草は過剰すぎたのか、カーシュラードは瞳を細めて困ったような笑みを浮かべた。若い頃なら鼻息荒く乗ってきたのに、老成してしまってつまらない。

「わかりますが、乱暴にしそうでちょっと怖いんですよ……」

「されたことないけど? ……君、セックスしててもたまに冷静だよね」

「なんで拗ねるんですか可愛いな。あんた別に、痛いの好きじゃないでしょう? 僕だって恋人に苦痛は味わわせたくない」

「痛いのは嫌だけど、理性を失ってる君は見たい」

「……この好き者め。若い頃ならまだしも、お互いの歳わかってます?」

「わかってるよ。そういう君だって、別に枯れちゃいないくせに。一晩中できるのって、相当だよ」

「全盛期で止まってますからね」

 ただ軽口を叩き合っているだけ。そんな意識をしながら、けれどふたりの距離はずいぶん近くなっていた。ほとんど膝がぶつかりそうだ。メインは食べ終わっているが、最後の方は味がよくわからなくなっていた。

 お互いを意識している視線や気配に温度があるなら、火傷しそうに熱くなっている。求めあっているのだと、言葉にしなくてもわかってしまう。

 せめてキスがしたいけれど、触れてしまえば止まれないような気がした。だから、ギリギリのところで踏ん張っている。

「……このまま早退しようかな」

「駄目に決まってるだろ黒羆師団長ダディ・ベア

 真剣な顔で馬鹿馬鹿しいことを口走るカーシュラードを黙らせるため、ヴァリアンテはその唇に揚げたイモを突っ込んだ。



◆◆◆



「おや、ジャッカ。いたのか。休憩時間はまだあると思うが、ずいぶん早いな」

 後回しにしてある雑務を終わらせようと師団長執務室に戻ったサムハインは、事務官の中では一番若いジャッカが事務官室でうずくまっているのを発見した。姿を見るまで気配を感じなかった。

「お疲れさまです……」

「お前のほうが疲れているようにみえるが、まさかこの程度でへばっているのか?」

 師団長付きの事務仕事というのは、師団長に回す書類の下読みや承認のための下準備、指示書の代筆から晩餐会の招待状に返信を書くことまで、多岐にわたる。

 今回のようなことは滅多にないが、まったくないわけでもない。他師団に提供する情報の最終承認で、致命的なミスが発覚したのだ。師団長まで借り出すことになったのは、あまりに時間がなかったからだ。他師団に舐められるくらいなら頭を下げてでも師団長に雑用を頼んだ方がマシだろう。実際、カーシュラードは率先して手伝ってくれた。

 休暇の予定を潰させてしまったのは大変申し訳ないとは思うが。

「ええと、いえ、別に、仕事でへばってるわけじゃなくてですね。俺の自業自得というか、なんというか……」

 歯切れが悪く椅子に懐くジャッカから、聞いてくれという切羽詰まった気配が放たれている。無視をしてもいいが、放っておけない程度にサムハインはお人好しだった。続きを話せと無言で促すと、ジャッカはあからさまに安堵した。

「食堂は終わってるし外に行くのも面倒だったんでカフェテリアで済ませたんですけど、そのまま休憩してたら、通りかかった同期にクビになったんじゃないかとか囁かれたので、悔しくてさっさとカフェから撤退したんですよ」

「そうか」

「戻るついでに受領通知が届いてないか通信部に寄って、それはちゃんと届いてたんで受け取って、ここに戻ったら戻ったで、師団長に明日有給取るって宣言されました」

「ふむ。事前に通達されていただろう。何か問題があるか?」

「……師団長、すごいギラッギラで獣みたいだったんです」

 ジャッカの視線の先は執務室だ。普段は開け放っているので応接室を含めて師団長の執務室の印象があるが、実際に執務を行っているのは年代物の机のある奥の間だ。今は両開き扉をぴったり閉め切っている。

 我らが師団長は在室中だし、その気配を絶ってはいない。人払いもしていない。ただ、彼は扉を閉める前に、最愛のひとを招き入れていた。

「取り込み中という訳ではなさそうだが」

 いくら師団長が恋愛に関して情熱的でも、職場で性行為に励むほど愚かではないと信じている。間違いが起こったとしても、少なくともこんな昼間から励まないだろうし、何より相手が断固として断ってくれそうだ。

「それは、そうなんですけど。でも、中にいるのは団長だけじゃなくて、親衛隊長殿じゃないですか。つ、つきあってんですよね? いえ、公式発表してないのは知ってるんですけど、でも、恋人同士だってのは事実なんですよね?」

「まぁ、そうだな」

 サムハインは歯切れ悪く同意した。長年のらりくらりとかわす協力をしていたので、何年も経っているというのに、胸を張って認めていいのかと心配になるのだ。確かに彼らは恋人同士だ。見合いだなんだと政略に使われることを回避するために、隠すことを止めたらしい。彼の若い頃から手引きをしていたので、大変感慨深い。

 だが、新人に近いジャッカには、そんなサムハインの心躍る苦悩はわかりようがない。

「師団長、プライベートだとあんな顔するんですね……。なまじ美形だからめちゃくちゃヤバかった。ギャップがすごい」

 いったいどんな顔だったのか。ギラギラした獣みたいな顔か。戦闘中のカーシュラード様はだいたいそんな表情をしているだろうに、それでどうしてお前が頬を染めるのだ。ジャッカは深呼吸をした。

「それでですね、ここに居座って邪魔しちゃまずいかなと思ったんですが、有給申請の処理してたら出て行くタイミング逃してしまって……」

 なるほど。だから気配を消してうずくまっていたのか。

「変に気を使うとこっちが疲れるぞ。熟年夫婦だとでも思って、適当に流せ」

「新婚の間違いでは? いえ、わかってるんですけど、俺はそこまで図太くなれないですよ。憧れの親衛隊長殿を部屋に入れて、あんな顔になるほど中で何してんのかなって、ちょっと、考えちゃって……、すみません忘れてください」

「憧れの、か」

「あああ、他意はないです。私服だと雰囲気違っててちょっとドキドキしたとか、紅茶いれてくれるとかめちゃくちゃ優しくてときめくとか、そんなんじゃないですから」

「……お前、それはカーシュラード様の前で言うなよ? あの方は冷静そうにみえて、親衛隊長殿関連では相当心が狭いからな。理不尽に睨まれるぞ」

「言いません忘れてください。というか、俺、師団長に憧れて黒羆バラムに就職決めたんであんまりイメージ壊さないでください……」

「お前の憧れの人はたくさんいるなぁ」

「憧れにも種類があるんスよ……」

 両手で顔を覆う青年に、サムハインは可哀想なものを見るような同情的な視線を向けた。

「お前は早く恋人のひとりくらい作れ」

 青年はさめざめと背中を丸め、机に額を打ちつけて黙った。

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カーマ王国物語・短編集 田花 喜佐一 @ks1tbn

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