めがね橋デート
諏訪野 滋
めがね橋デート
「お兄ちゃん、あれじゃない? きっとそうだよ!」
小走りに駆けていく
少し走っただけで息が切れることは妹自身が一番わかっているはずなのに、それでも走らざるを得ないほどに彼女は興奮しているのだろう。半年ぶりに主治医から外泊許可が出たのだから無理もないか、と肩をすくめた俺は、歩みを緩めるとポケットに手を突っ込んで、絵葉書のようなその光景を眺めた。一足先に橋のたもとに着いた凛は、黒ずんで年季の入った石柱をいとおしそうに
親戚の法事で長崎に来ていた俺と妹は、酒が入ってどんちゃん騒ぎを始めた親族を放っておいて、二人で市内を回ってみることにした。俺は来年に予定されている中学の修学旅行でも長崎を訪れる予定であったので、今回の旅行には少しうんざりしていたのだが、気を取り直してこれは予行演習だと考えることにした。一つ下の凛は長崎を訪れることはこれが初めてで、見るものすべてをその瞳に焼き付けておこうという勢いである。そのようないきさつで俺たちは、日本三名橋の一つに数えられているという眼鏡橋をこうして訪れているのであった。
「凛、いきなり走ったりするなよ。そういうの、先生に止められてるんだろ」
「平気、平気。少しはリハビリしたほうが、心臓の筋肉を鍛えることが出来るんだって」
ようやく息が整い始めた凛は、額にうっすらと汗を浮かべながら笑う。午後の陽光が彼女の透き通るような白い肌をより一層輝かせて、俺はその眩しさに思わず目をそらした。
橋の真ん中まで渡った俺たちは
横顔に凛の視線を感じて我に返った俺は、慌ててつまらなそうな顔を作った。
「でも眼鏡橋ってさ、こうして上に乗っていると、眼鏡かどうか全く分からないじゃん。離れて見る分には感動もするけれど、実際に渡ってみるとそんなに面白いもんじゃないよな」
凛はあきれたように笑った。
「お兄ちゃん、いつもそういうひねくれたこと言うよね。そこにいる最中には、当の本人は気付かないものなんだよ。童話の『青い鳥』って読んだことある? 幸せって、そういうもんでしょ」
俺は妹には全くかなわない。俺が凛の立場だったら、幸せなんて言葉はとても口には出せそうもない。
「まったく、もっともらしいこと言いやがって。俺はいつもお前にやり込められてばかりだな、なんだかしゃくに
あはは、と凛は得意げに胸を張ると、俺の肩をからかうように叩いた。
「まあまあ、せっかく来たんだからさ。今いるここが眼鏡だってことを確認しておこうよ」
「ん? どういうこと」
「客観的な証明が欲しいって言ったのは、お兄ちゃんの方でしょ。あのう、写真撮ってもらってもいいですかぁ?」
凛はたまたま近くを通りがかった二人の女子高生に大きく手を振ると、またしても小走りに駆けていった。だから走るなって言ってるだろ、と冷や冷やする俺を尻目に、彼女は自分の携帯を覗き込みながら女子高生たちに頼み込んでいる。
「わかった、ここを押すだけでいいのね?」
「はい。少し離れたところから、きちんと眼鏡だってわかるように撮っていただけると嬉しいんですけれど」
「了解、任せて。それじゃあ撮るから、あなたは彼氏さんのところへ戻って」
え、と凛はわずかに頬を染めたが、何を思ったのか、彼女は話をそのまま女子高生たちに合わせ始める。
「彼ったらあの通り無愛想ですけれど、実は結構優しいんですよ。頭は馬鹿ですが」
凛の真実が交じった嘘に、女子高生たちが笑いながら食いつく。
「やだあ、あなたたち中学生でしょ? 後輩にのろけられるんて、私の人生悲しいなあ。でもあなたの彼氏さんってさ、ちょっと格好いいよね」
「え、長崎始めて? だったら
黄色い声でひとしきり会話を交わした後で、凛はにやにやと笑いながら戻ってきた。渋面を作って待つ俺の隣に立った彼女は、満面の笑みとともに左手でピースサインを作ると、自分の右腕を有無を言わさず俺の左腕に
「おい。何、腕組んでるんだよ」
「聞こえてたでしょ、私たちカップルに見えるんだって」
「あのなあ、お前」
「お兄ちゃんの顔だけは、私も認めてあげてもいいかな。ほら、さっさと前向いて。いいですよ、お願いしまーす!」
シャッターが切れる音がかすかに聞こえたような気がした。写真の中で泳いでいる俺の目を見て、凛は腹を抱えて笑った。
石畳を歩いて帰る途中で、凛が俺の脇をつついた。彼女の視線を追って振り向くと、そこには完全な眼鏡がその向こうに黄昏を映して、黙って俺たちを見送っている。
「またもう一度来たいなあ。今度はこんなノリの悪いやつとじゃなくて、優しい彼氏とさ」
「言ってろ。これだから女子って奴は」
もう一度。凛は今までずっとそう願い続けながら生きてきたが、それがかなったことなど数えるほどしかない。彼女が眼鏡橋を訪れることも、恐らくはもう二度とない。凛も心の中ではそれが分かっているのか、しばらくの間立ち止まって、大きな石造りの眼鏡を名残惜しそうに見ていた。
やがて、うんと一つうなずいた彼女は、俺の方を振り返った。
「ねえ、お兄ちゃん。稲佐山どうする? 帰りは遅くなるって、お母さんたちに連絡してみようか?」
その時の俺は、あの女子高生たちが話していたジンクスを確かに気にしていたのだった。ばかばかしい。稲佐山に登ろうが登るまいが、お互いがいつか別れる時が来るなんて、当たり前の話だというのに。
山の頂上へと上っていく豆粒のようなロープウェイのゴンドラを遠目に見ながら、俺は首を横に振った。
「いや、やめとこう。それよりも凛、
俺の言葉に凛は目を細めると、朗らかに笑った。
「おお、さらにデートらしくなってきたねえ。もちろんお兄ちゃんのおごりでしょ? こんな時に割り勘なんてしたら、可愛い彼女に振られちゃうよ?」
俺は妹の頭を軽くはたいてやると、地図を片手に歩き出した。その俺の左手を、慌てて追ってきた凛が握ってくる。その白い指の意外なまでの力強さは、別れの予感を俺に感じさせないための、彼女なりの精一杯の優しさなのだろう。
中華街の入り口にある朱塗りのアーチを抜けると、店々の軒につるされた無数のだいだい色のランタンが狭い裏路地を照らして、俺はどこか違う世界の入り口に迷い込んだような錯覚にとらわれた。
離れないようにと手を引きながら振り向くと、はにかんだ凛が肩を寄せてくる。
このまま、時が止まればいい。
でもそれが、かなわぬ望みだというのなら。
せめてもう少しだけ、恋人気分でいさせてくれ。
めがね橋デート 諏訪野 滋 @suwano_s
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