タヌキが眼鏡を借りに来た話
来冬 邦子
月夜のお客様
昔々と言っても、わりと最近。昭和の中頃の話です。
あるところに目の悪いおじさんがおりました。大学の先生なのですが、本をよく読むためか、何しろ酷い近視で乱視で老眼だったので、分厚いレンズの(当時の言い方をすると「牛乳瓶の底のような」)眼鏡をかけていました。そんな眼鏡をかけるのは恥ずかしかったのですが、見えないのだから仕方ありません。
おじさんが仕事帰りの電車の席で揺られながら、疲れた目を閉じてうつらうつらしていると、誰かが耳元で「おじさん。眼鏡を貸してくれよ」と言いました。
おじさんが驚いて目を開けると、さっきまで
「貸して上げたいけれど、この眼鏡が無いと、わたしは何も見えなくなってしまうのだよ」と答えますと、狸は何度も頷きました。「大事な眼鏡なんですよね。よくわかっております。ですから、今夜、ほんの一晩だけ、お借りできないでしょうか」
(まあ一晩くらいなら、いいか)とおじさんは思いました。寝ている間は眼鏡は要りませんからね。
「朝には返してくれるのかい」
「はい。もちろんです。雀が起きるより早く、お返しに伺います」
「それなら貸して上げよう。わたしが家についたらでいいのかな」
狸は嬉しそうに後足だけで立って、前足をポンと打ち合わせました。
「ありがとうございます。ありがとうございます。ああ、良かった」
電車の窓の外に大きなお月様が見えます。今夜は満月です。
月の光を浴びた街がいくつも通り過ぎてゆきました。
「この眼鏡を何に使うつもりなんだい」
「うちのひいひいじいさま狸が最近すっかり目が衰えまして、お月様が七つにも八つにも見える、なんて嘆くもんですから、今夜のお祭りだけでも綺麗なお月様を見せてやりたいと思いまして」
おじさんはすっかり感心してしまいました。
「そうかい。君は孝行者だなあ」
「いえ、そんな」 狸は恥ずかしがって、しきりに前足で鼻面を拭きました。
「今日がお祭りなのかい?」
「はい。満月の晩はいつでもタヌキ祭りです。よろしかったら、いらっしゃいませんか」
「いやあ、ありがたいけれど遠慮するよ。今夜は仕事で疲れているんでね」
「そうですか。では次の満月の晩ではいかがですか。お迎えに上がりますから」
「そうかい。ありがとう」
おじさんは顔をほころばせました。
狸と話しているうちに、おじさんの降りる駅に着きました。
改札を抜けると、潮の香りがしました。海が近いのです。
明るい満月が照らす道を、おじさんと狸は歩き出しました。
「君の住んでいるところは、この近くなのかい」
「はい。この先の松林の奥です」
「そうか。うちとは御近所さんなんだねえ」
程なく、おじさんは我が家の玄関でチャイムを鳴らしました。
すると、おじさんの奥さんが中から鍵を開けて「お帰りなさい」と出てきましたが、おじさんの足元を見てびっくりしました。
「あら、可愛い猫が」
「違うよ。狸だよ」
「まあ、狸なの。驚いた」
「おくさん、今晩は。夜分に失礼します」
狸が丁寧に御挨拶をしたので、奥さんは余計に驚きました。
「あら、あら。今晩は。まあ、どうしましょう」
「どうもしなくて良いから、ちょっと僕の眼鏡のケースを取ってきてくれないか」
「はいはい」
奥さんは直ぐ戻って来ました。 「これでしたよね」
「ああ、これだ。ありがとう」
おじさんは眼鏡を外すと、黒いケースの中に入っていた布で丁寧に拭いてから、ケースに入れ直して狸に渡しました。「はい。どうぞ」
「ありがとうございます」狸は前足で抱くようにして受け取りました。
すると、それを見ていた奥さんが「それでは持ちにくいでしょう」と大きめなハンカチを持ってきて眼鏡を包んで、狸の首に下げてやりました。
「ああ、これは助かります。ありがとうございます」
狸は喜んで尻尾を振りました。
「それじゃ、狸君、おじいさんによろしく」
「はい。ありがとうございました。おやすみなさい」
狸はこちらを振り返り振り返りしながら夜の闇に溶け込んでしまいました。
「眼鏡、貸して上げたの?」
「うん。そうなんだ」
おじさんと奥さんはひとしきり笑うと、家の中に入りました。
空には満月が煌々と輝いておりました。
了
タヌキが眼鏡を借りに来た話 来冬 邦子 @pippiteepa
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