この仮初めの世界に【KAC20248】

深川我無

クァンタムマトリクス

 普遍のものが


    不変のものが


  この世界に、存在するのだろうか?


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 真希は風変わりな娘だった。


 生まれ付き盲目の彼女には、僕とは違った世界が見えていたのかもしれない。


 そんな違った世界に住む僕らにも、僅かに重なり合う世界というのがあったらしく、そこは郊外の寂れた図書館だった。


 白い杖を机に立て掛け、見えていないはずの本に熱い視線を送る彼女に、僕が釘付けになっていると、彼女はさっと顔を上げた。


「何か用?」


「その、本が読めるのかと思って…」


 彼女は何も言わずに再び見えぬはずの目を本に向けた。


 それは分厚い聖書だった。


「あの…よければ読むのを手伝おうか?」


 親切を装って、僕は罪悪感を隠す事にした。


 しかし彼女にはお見通しだったらしく、再び顔を上げると、サングラスをずらして白く濁った目で僕を睨みつけて言う。


「私じゃなく、あなたの為にだったら、読んでくれても構わない」


 少しムッとしつつも、僕は彼女の前に座り、聖書を朗読した。


 その日のうちに、僕らは互いの体温を知ることになった。



「この世界は本物だと思う?」


 ある日彼女が言った。いつものことだと僕は当たり障りない答えを言う。


「関係ないよ。本物だろうと偽物だろうと、僕らが今感じている事は事実だから」


「ならあなたは麻薬で感じる快楽も、モルヒネで誤魔化した末期癌も、快感だから別に関係ないって言うのね?」


「麻薬はだめだけど、モルヒネは必要なものだよ。苦しみを消してQOLを向上してくれる。その間に大事な人と大事な時間を持つ事ができる」



「あなたには見えないのね…」


 サングラス越しに、あの日の目を見た気がした。


 僕は何となく腹が立って、それ以上は何も言わずに家を出る。


 仕事を終えても、むしゃくしゃした気持ちが消えずに、僕は懇意にしてる風俗嬢に会いに行った。


 僕のプレイを何でも受け入れてくれるМな娘で、僕は彼女によってなけなしの自尊心を保っていた。


 汚い言葉を浴びせ、白くて柔らかなお尻を叩いても、彼女は恍惚の声を上げて僕を受け入れてくれる。


「ただいま」

 

「おかえり」


 真希は机に並べた料理の前に座り、静かに本を読んでいた。


 あの日と同じ分厚い聖書。


「ねえ。この世界は偽物だったとしても、あなたは此処に住み続けたいと思うの?」


「またその話…?」


「大事な話よ? 少なくとも私にとっては大事な話なの。あなたが懇意にしてる女の子だって、本物じゃない。本当の姿は不気味な半機械生命体で、あなたの持つ精神エネルギーを吸収して、量子コンピュータの電力に変換してる。この世界は量子コンピュータが創り出したまやかしで、何も残さず幻のように消えてしまう。何もかも忘れて、自分のクローンがまた新しい人生を始めて、その繰り返しを輪廻とか言うのね。でもそれは輪廻じゃなくて、電池交換みたいなものなの。意味なく存続するための、意味のない消費。それは耐えられないことよ?」


「僕は今の暮らしが好きだよ。君のパスタを食べて、本を読んで、クラシックを聞いて、それを続けていきたいと思ってる。その為のガス抜きで風俗に行ってることは悪かったと思うけど、君と一緒にいたいと思ってるんだ」


 彼女はゆっくり立ち上がると、僕の頬にそっと触れた。


 その指触りは、嬢との激しいプレイより、ずっとリアルでゾクリとした。


「それなら、私を追いかけてきてね。私はもうこの世界には居られない。だからあなたの言葉が本当なら、私を追いかけてきてね。そのめがねを外せば、あなたにも見えるはずよ?」


「僕は眼鏡なんてかけてないよ?」


 その言葉に彼女はサングラスを外し、白く濁った目で僕を見つめた。


「あなたがたは確かに聞きはするが決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである」


「預言者イザヤの言葉よ。私を見つけてね? めがねを外してね?」


 憐れむような、慈しむようなその目とその言葉を最後に、彼女はこの世界から、僕の目の前で姿を消した。




 それから半年後、僕は再び懇意にしてる風俗嬢に会いに行った。



 白い杖をつき、サングラスをかけた僕に、彼女は驚きの表情を


「お別れを言いに来たんだ」


 僕がそう言うと、彼女は僕の首に腕を回し、そっと耳元でささやく。


「それなら、二度と忘れられないくらい、今夜はルミをめちゃくちゃにして下さい…」


 鳥肌が立った。


 僕の落ち窪んだ目に映る、彼女の姿に。


 うじの湧いた腐った肉の塊に、チューブや電極の突き刺さったルミを優しく押しのけて、僕は分厚い本を差し出す。


「さようならルミ」


 そう言って、サングラスを外した僕を見ても、ルミは微動だにしなかった。


 ポッカリとあいた両目の穴に、僕は自身の指を差し込んだ。


 まるで吸い込まれるように、僕の指が、手が、腕が、質量を無視して呑み込まれていく。


 カラン…と落ちたサングラスを拾い上げると、ルミはそれを掛けて、聖書の付箋のページを開いた。




「もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐりだして捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろって燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです」

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この仮初めの世界に【KAC20248】 深川我無 @mumusha

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