真紅の瞳に出会ったら
野森ちえこ
レンズ一枚分の防御
「目がね、なんかおかしいんだよね」
そういいながら、友人の紹介で知りあった彼女はしぱしぱと目をまたたかせていた。
「花粉症?」
「なのかなあ? 去年までなんでもなかったのに」
「それまで大丈夫でも急になったりするっていうからな」
その日はそれでおわり、数日後。
ふたたび会った彼女の目には黒縁のメガネがかけられていた。だてメガネだという。花粉症対策かとたずねたら「まあ、そんなところかな」と彼女は曖昧にほほ笑んだ。
光の反射か、彼女の瞳が一瞬赤みがかって見えたような気がした。
さらにその数日後、彼女は色の濃いサングラスをかけていた。
「なんかね、光がやたらとまぶしいんだよね」
吸血鬼かよと笑えば、彼女もまた「そうかも」と笑った。
「冗談はともかく、眼科に行ったほうがいいんじゃないか?」
「そうだね。そうするよ」
彼女は素直にうなずいたけれど、その日を最後に彼女はこつぜんと姿を消した。
アルバイトはとっくにやめていて、ひとり暮らしをしていたアパートの部屋もひきはらわれていた。
そしてぼくは、彼女の実家がどこにあるのかも知らなかった。
彼女を紹介してくれた友人も、バイト先で一緒だっただけでふだんのことはよく知らないという。
入学がきまっていたはずの大学にあらわれるのではないかという一縷の望みも絶たれ、彼女はぼくのまえから完全に消えてしまった。まるで最初から存在していなかったみたいに。
十八歳の、春のことだった。
☽
あれから約二十年。
ある夜、なんの気なしに立ち寄ったスナックで、ぼくはしばらく立ちすくんでしまった。
カウンターのなかにいる二人の女性。ひとりはママだろう着物姿の中年女性だが、もうひとりの、黒のチュニックを着た若いほうの女性。その顔が、二十年まえに姿を消した彼女そのものだった。似ているなんてものではない。ひかえめにいっても生き写しである。
もちろん消えた彼女にも二十年の時が流れているはずで、本人のわけはないのだけど。
「つかぬことを伺いますが、
ぼくはほとんど無意識のうちにそうたずねていた。親戚とか、なにかしら彼女——羅美とつながりがあるのではないかと思ったのだ。
黒チュニックの彼女はしぱしぱと目をまたたかせ「さあ、聞いたことありませんけど」と首をかしげた。
とぼけているのか、ほんとうに知らないのか。もしもとぼけているのだとしたら、それはなんのためなのか。
「どういう方なんです?」
問われるままに、二十年まえの経緯をひととおり説明してみせる。
「そんなに似てるんですか? 私」
「ええ。似てるなんてレベルじゃありませんよ。生き写しです」
顔だけじゃない。声のトーンやしゃべりかたも、そして目のまたたかせかたまで、そっくりおなじだ。
目のまえの彼女はどう上に見ても二十代前半、もしかしたら十代かもしれない。羅美であるはずがないのに。
いったいどうなっているんだ。
「世界には、自分にそっくりな人間が三人はいるといいますからね」そういったのはママである。
その静かな笑みに、なぜだか背すじがスッとつめたくなった。
「そう、ですね」
ぎこちなく返して、水割りウイスキーのはいったグラスをからにする。
ダメだ。ここにいてはいけない。
理由などわからない。ただ本能がそう告げていた。
ドッドッと、せかすように心臓が鼓動をはやめている。
会計をすませ、ほとんど逃げるように退店する。
ぼくを見送る二人の女性。照明の加減だろうか。薄暗い店内で、四つの瞳が真紅に染まって見えた。
店を出たところでその看板がふと目にとまる。
スナック『
カーミラ。
それはたしか同性愛色の強い作品の、女吸血鬼の名ではなかったか。
まさかなと思って、ぶるぶるっと首をふる。
二人の女性の真紅に染まった瞳が脳に焼きついていた。
☽
あの日以来、ぼくはだてメガネをかけるようになった。
こんなのなんの意味もないと思うけれど。照明の具合とか、絶対なにかの見間違いだと思うけれど。脳に焼きついて離れない『Carmilla』にいた二人の女性の紅い瞳。
いつかまた、あの瞳と無防備に出くわしてしまうのではないかと思うと恐ろしくなって、なんの意味もないと思いながら、レンズ一枚分の防御をほどこした。
もしも、ほんとうにもしもだけれど。
あの二人が吸血鬼とか、人ならざるものだったとしてもだ。美貌の女吸血鬼カーミラが狙うのは可憐な少女である。まあそれだって、あくまで物語。フィクションなのだが。
いずれにしろ中年のおっさんなどお呼びではないだろう。
そうであってほしい。
あれ以来『Carmilla』には近づいていない。
だてメガネをはずすこともできない。
しかたないだろう。
おっさんだって、怖いものは怖いのである。
(おしまい)
真紅の瞳に出会ったら 野森ちえこ @nono_chie
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