緑のメガネは草の色

秋犬

緑のメガネは草の色

 沙苗さなえには三分以内にやらなければならないことがあった。


 それは義母である舞子まいこへのメッセージの返信だった。舞子はメッセージを寄越すと即座の返信を求めた。こちらの都合など知ったことではなく、沙苗は常に監視されているような気分であった。


『明後日のランチなんだけどお蕎麦屋さんとイタリアンどっちがいいかしら?』


 どうせ味などわからないのでどっちでもいい、と沙苗は義母に返信する。


『私としてはイタリアンな気分ですが、お義母さんの好きにしてください』


 すると即座に返信が来る。


『じゃあお蕎麦屋さんにするわね😊』


 沙苗はスマホを枕にぶん投げる。彼女に悪気はない。ただ言葉遣いが異様に下手なだけだ。


「もう嫌だ……」


 沙苗の頭に「離婚」の2文字が過ぎる。結婚して可愛い娘に恵まれ、いよいよマイホームの話をし始めたところだった。沙苗は数日前の夫の話を思い出す。


『そう言えば今度内見行くって話なんだけどな、お母さんがどうしても一緒に来るって言うんだよ』

『何でお義母さんが一緒に来るの?』

『ウチ熟年離婚で寂しいんだよ、当日なんとかしてくれ、頼む』


 夫は沙苗に土下座をする。夢のマイホームに義母という不穏分子が紛れてきたところで沙苗の心は晴れなかった。


 沙苗の義母の舞子には、息子である沙苗の夫、典行のりゆきも頭を悩ませていた。両親に大事に育てられ、箱入り娘だった舞子は言ってよいことと悪いことの区別が付きにくい性格をしていた。そのためトラブルが絶えず、典行の姉は成長するとさっさと遠方に引越して年賀状のみの関係になった。仕事を言い訳に逃げ回っていた舞子の夫も、定年を前にこの妻と死ぬまで暮らすことを諦めた。典行は自分一人に母親の世話が伸し掛ることで最初は離婚に反対したが、申し訳なさそうな父の顔に最後まで反対し切ることができなかった。


 しかし、そんな事情は沙苗にはどうでもよいことだった。本来ならどうでもよいことではないが、義実家の諍いなど心底関わりたくないというのが本音だった。


「なんでお義母さんに邪魔されなきゃいけないのよ……」


 今度見に行く戸建ては、住宅地の中にある建売住宅だった。真剣にそこを検討しているというより、価格や利便性を検討する上での踏み台だった。


 義母に内見の日程が漏れたのは、娘のえみるのせいだった。それはえみるは今度幼稚園の年中に上がるために、進級祝いとして舞子から届いたブランド物の服のお礼として典行がえみるに電話をさせた際のことだった。


『ばぁば、こんどね、あたらしいおうちみにいくの』

『新しいお家?』

『うん、わたしたのしみなんだー!!』


 その後電話口で典行は舞子に内見の日程を白状させられ、沙苗に土下座するに至っていた。沙苗は典行のことは好きだしえみるのことは愛しているが、舞子と一緒にいることだけは耐え難い苦痛だった。一気に夢のマイホームが、地獄の様相を見せ始めていた。


 ***


 内見当日、舞子はウキウキで現れた。図々しく沙苗の運転する車に乗り込むと、真っ先にえみるの顔を覗き込む。


「まあまあえみちゃん、どうしたのそのお顔は!?」


 えみるは先日より幼児用の眼鏡をかけていた。緑の縁の小さな眼鏡を舞子に見せ、えみるは胸を張る。


「めがねだよ、にあう?」

「まあ可哀想に、こんな小さいうちから眼鏡なんて」

「今は珍しいことじゃないから。時間もないから行くぞ」


 えみるが何かを答える前に典行は釘を指し、その隙に沙苗は車を発進させた。不動産屋についてから、舞子は出された茶菓子をカバンにしまい込みながら既に無遠慮が止まらない。


「なんでわざわざ不動産屋の車で行くの? 沙苗さんが運転すればいいのよ」

「沙苗さんちょっと手荒れが少ないんじゃなくて?私が若い頃は子供が小さかったら赤切れささくれ当たり前よお」

「全く私にこんな大事なことを話さないで、えみちゃんのお父さんとお母さんは意地悪ねえ」

「えみちゃんは、ばぁばと一緒に住むのよね」


 この時点で沙苗の機嫌は最悪であったが、えみるの手前と顔色の悪い典行を見ていたら気の毒で何も言えなかった。不動産屋で退屈するかと思われたえみるだったが、不動産屋のキャラクターマスコットをもらってご満悦であった。


「なにこれ、トリだって」


 とりあえずトリでえみるの機嫌はなんとかなりそうだった。しかし、不動産屋の案内で到着した物件でも舞子の横暴は留まるところを知らなかった。


「今どき建売なんてケチくさいわよ」

「この家IHじゃない、停電の時どうやってお湯沸かすの?」

「部屋の数的に子供はもう2人くらいいけるわね」

「洗濯機が2階なんて考えられない!」

「私の部屋は1階がいいわぁ」

「やっぱり戸建てにするなら二世帯よねえ」


 舞子のあれこれに不動産屋は無責任に「ええ、お母様のお眼鏡に叶うなら」とへいこらし始め、沙苗は内見どころではなくなっていた。


 地獄のような内見が終わり、舞子が楽しみにしているお蕎麦ランチへ一行は向かった。典行は「違う不動産屋で仕切り直そう」と沙苗にぼそりと呟いた。沙苗もこの昼食が終わったら一区切りと歯を食いしばる。典行が悪い訳ではないのだ、悪いのは悪気がないことをいいことに出しゃばるババアだと、沙苗は心の中で舞子の葬式で着る留袖のことばかり考えていた。


 ***


 蕎麦屋についても舞子の振る舞いは相変わらずだった。


「えみちゃんは可愛いから、今着てるお洋服よりもっと可愛いお洋服をばぁばが買ってあげるからね」

「えみちゃんは女の子だからお姫様とか好きよね、ばぁばが今度プリンセスのお洋服買ってあげるからね」

「えみちゃんはお子様えび天セットよね。ばぁばのえび天もあげるからね」

「おもちゃはどれにする? えみちゃんはプリンセスの便箋レターセットかな?」

「新しいおうちでばぁばとえみちゃんが住んだら楽しいよねー?」


 既に舞子の中で同居の話は既成事実と化していた。沙苗は同居を前提とした話に辟易し、典行はどうしたものかと頭を抱えていた。一通り食事の終わったえみると舞子は満足し、沙苗と典行はぐったりと疲れていた。


 蕎麦湯を飲んでいた舞子に、えみるは最近気に入っている本を渡す。


「ねえばぁば、これよんで」

「なあにこれ、ポケット子供図鑑ですって?」


 それは幼稚園で貰ってきた子供向けの動物図鑑だった。えみるはそれを大層気に入り、最近はずっと図鑑を沙苗に読んでもらっていた。舞子は図鑑を開き、動物の解説を読もうとする。


「これは?」

「これはゾウさんね」

「ちがうよ、アフリカゾウだよ。これは?」


 老眼鏡を持ってきていない舞子は細かい字が読めず、適当に動物の絵を見て話を進める。


「これは、シマウマ」

「ママはグランドシマウマっていってた」

「これはバッファローね」

「ママはアフリカスイギュウっていってた!」


 まともに図鑑を読む気のない舞子に、えみるは不満を募らせる。


「ばぁば、これはアフリカスイギュウってかいてあるってママがいってた!」

「じゃあママに読んでもらいなさい!」


 可愛いえみるに反抗され、舞子の機嫌が悪くなる。これまで積み上げてきた本日の沙苗の苦労が、バッファローの群れにより全て破壊されていく。


「大体女の子なんだから勉強なんかしなくていいのよ! そんな眼鏡をかけてたら、お嫁になんか行けるわけないでしょ!」


 えみるはわけもわからず舞子に大きな声を出され、項垂れる。流石に典行も見て見ぬふりができず、舞子に声をかける。


「ちょっとお母さん」

「アンタは黙ってなさい、女の子の子育ては大変なんだから。私だって真奈美まなみのことをもっと躾ればよかったって今でも思うんだからね」


 自分の姉を引き合いに出されて、典行は押し黙る。沙苗は典行から、舞子と真奈美の確執は聞いていた。真奈美とは結婚式でしか顔を合わせたことがなかったが、心底自分の母を嫌っていることがわかって沙苗まで辛くなってきたのを覚えている。


「えみちゃんだってそんな眼鏡格好悪くて嫌だよね?」

「どうして? みんなかっこいいっていうよ?」


 えみるの答えに、舞子は面食らう。


「だってね、おいしゃさんいってたよ。このメガネはこれいじょうめがわるくならないようにするメガネで、えみるをまもるんだって」


 すかさず沙苗は口を挟む。


「最近は先天的な弱視には早く眼鏡をかけて、歯科矯正のように視力を矯正させるんです。これをしないと、後々もっと視力で困ることになるんですって」


 沙苗もえみるが弱視であると診察を受けた時はショックを受けた。しかし眼鏡で矯正できる範囲であると聞き、気を取り直してえみるの好きな眼鏡を選ばせた。幼稚園で何か言われるのではとハラハラしたが、他にも眼鏡をかけていた子がいたためか、からかわれることもなかった。


「でもこんな眼鏡、男の子の色じゃない」

「ちがうもん、くさのいろだもん」


 えみるはポケット動物図鑑を舞子に見せる。


「わたしね、アフリカにいくんだ。アフリカでほんもののトムソンガゼルやエランドをみるの。このいろはアフリカいろなんだよ」

「でもえみちゃん、女の子はアフリカになんか行かなくていいのよ」

「やあだ! きょうのばぁばへん! ばぁばといっしょのおうちいや!」

「えみちゃん……」


 えみるに拒絶され、舞子は固まる。そこで典行は立ち上がり、えみるを抱きあげる。


「そうやって姉さんも父さんも家を出ていったんだ。そろそろ自分の理想ばかり押し付けるのはやめろって何回言われればわかるんだ」

「ちょっと典行、あなた実の母親に向かってなんてこと言うの!?」

「自分のことなら我慢できるけど、家族を巻き込みたくない。もうこれ以上関わらないでくれ」


 そう言うと、典行はきょとんとしているえみるを抱き上げたまま店の外へ出ていった。突然の夫の行動に沙苗もポカンとしていたが、すぐに慌てて荷物をまとめだした。


「その図鑑、お返ししていただけますか」


 舞子からポケット動物図鑑をひったくると、沙苗も急いで店の外へ出ていった。急いで車に乗り込み、親子3人は蕎麦屋を後にする。


「どうしたの、急に」

「姉さんの時と一緒だ。女の子は眼鏡をかけるな、勉強するな、オシャレをしろ、ただし私が可愛いと思う格好だけしろって。俺は男だから子育てが面白くなかったんだろうな」


 典行は苦々しく呟く。沙苗のスマホがけたたましく鳴っていた。典行のほうは既に電源を切っているのかもしれない。


「だけどな、多分あの人はああやって育てられたんだろうって思うと胸が苦しいよ」


 沙苗は後部座席のえみるを見る。えみるは何かを察したのか、沙苗から渡されたポケット動物図鑑を握りしめている。それから、沙苗は自分の母親と決別しなければならない典行が哀れで仕方なくなった。


「……はやく引越ししましょう」

「ああ、住所なんか教えてやるものか」


 典行は思いのほかせいせいした声で答える。その返事に沙苗は安心する。


「そう言えば、伝票おいたまま来ちゃった」

「じゃあもっといいもの食べておけばよかった。飯が不味くなると思って盛りそばなんかにするんじゃなかった」

「私も上天丼とかにすればよかったかな」


 沙苗の軽口に典行は笑う。満腹で車に揺られていたえみるは後部座席で寝息を立て始めた。沙苗はこれからの家族を支えていくために、背筋を伸ばして家路を急いだ。


〈了〉

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