おじいちゃんの鼈甲眼鏡
ジャック(JTW)
古めかしい鼈甲眼鏡
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小学二年生の頃、私は祖父のお通夜に出席した。ほとんど顔も知らない親族や知人たちが集まり、さめざめと泣きながら祖父を悼んでいた。棺の中には、まるで眠っているかのように静かに横たわる祖父の姿がある。もう二度と起き上がることはないのだと思うと、胸が痛みを覚えた。
両親や祖母が葬儀の準備にバタバタと動いている間、何か手伝えることはないかと家族に声をかけたが、私がまだ幼いこともあり、今は特にできることがないと言われた。
手持ち無沙汰な私は祖父の部屋に足を踏み入れた。木造住宅の中でも、二番目に日当たりのいい部屋だ。祖父はいつもこの部屋で過ごしていた。しかし、今はもうその姿を見ることはできない。私は懐かしさと寂しさが入り混じった感情に包まれた。
祖父はいつもしかめっ面で、寡黙な人だった。正直、私にとっては怖い存在でもあった。何を考えているのか、いつも分からないままだった。しかし、今はもうその怖さも何も感じられない。ただ、ささやかな祖父との思い出が蘇ってくる。
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祖父は、漬物が好きな人だった。食事の度に、ポリポリシャクシャクと、きゅうりや白菜の漬物を食べている姿が印象深い。
特に
しかしつまみ食いを咎められたことはない。祖父は大好物の漬物が減っていることに気づいていただろうに、私を叱ることはなかった。
祖父は毎朝、いつも難しい顔で新聞を読んでいた。私は、新聞に載っている四コマ漫画が早く読みたくて、祖父の近くをちょろちょろと歩き回っていた。
祖父は、そんな私を鬱陶しく思ったのか、四コマ漫画の部分を切り抜いて私にくれるようになった。私はとても喜んで、「ありがとうおじいちゃん」と言った。その言葉に、祖父はなんと返事をしてくれたのだったか。もう、思い出せない。
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私は祖父の部屋の机の上に、眼鏡が置いてあるのに気づく。
祖父がいつもつけていた
そして、眼鏡入れの下に、何か冊子が置いてある。
いかめしい達筆で、『
私は、好奇心にまかせて表紙をめくり、最初の文字を読んだ。
達筆で読み取れないところもあったが、挿絵に赤ん坊の絵が描いてある。そこに、『かわゆい 美香子ちやん』と添えて書いてあった。美香子というのは、私の名前である。私は目を疑った。
あの、厳格で、無口で、いつも重々しい雰囲気の祖父が、こんなことを書いていたとは予想外だった。
私は祖父の日記をめくる。毎日の献立や、日々あったこと、特に、私の成長に関する喜びと嬉しさが綴られていた。
『いない いない 婆』と書いてある部分には、幼い私、美香子をあやす祖母の絵が添えてあった。洒落のつもりだろうか、婆の所に強調するための点が打ってある。
常に厳しい表情をしていた祖父が描いたものとは思えず、私は噴き出して笑ってしまった。
他にも祖父は、割としょうもない部類のギャグを盛り込んだ日記を書いていた。
『今日の天気は雪でスノウ』とか、『おフランス製のせんべいパリパリ』とか、『お墓参りにボチボチ参ります』とか。
普通だったら苦笑で済ませてしまうかもしれないけれど、いかめしい顔つきの祖父がこんなことを書き残していたのだと思うと、笑いを堪えようとしてもこらえきれず、プルプルとお腹を震わせてしまった。
もしかしたら、しかめっ面で新聞を読んでいたあの時も、難しい顔でテレビを睨みつけていたあの時も、ずっとずっと、日記に書くギャグのことを考えていただけなのかもしれない。
そう思うと、あの祖父の荘厳な雰囲気も、威圧感のある表情も、全然怖いものだと感じなくなってくる気がする。
そんなことを思いながらページをめくり、あるところで手が止まる。私が祖父の好物の漬物をつまみ食いしているところを見た、というようなことが書いてある。
祖父は、私が同じものを好んでいることを知って、嬉しかったそうだ。『漬物を美味しそうに食べる美香子ちやん』という文字が添えられた、五歳くらいの女の子の絵が描いてある。
『一緒に食べやうと声を掛けようとしたができなかつた。美香子ちやんは、儂を怖がつて居るやうだ』
と、祖父は書き遺していた。
その言葉を読んで、胸がドキリとした。
私は、祖父に嫌われているのかと思っていた。
でも本当は、違ったのだ。祖父の方も、私に嫌われているのではないかと怖がっていたのだ。
冷たくなった祖父の、棺の中に入った姿を思い出して、ボロボロと涙を零した。もっともっと、話しかければよかった。
勝手に怖がっていないで、おじいちゃんに、日頃から気持ちを伝えればよかったと思った。
祖父の鼈甲眼鏡をケースごと抱きしめて、私は泣いた。
「ごめんね、おじいちゃん」
その時、窓から風が吹き込んできて、パラパラと日記がめくれた。開いた部分を見ると、そこには、新聞の四コマ漫画の切り抜きが挟んであった。
『美香子ちやんの大好きな漫画。後で渡す』と、メモ書きが残っていた。おじいちゃんは、亡くなる当日にも、私のために新聞の切り抜きをしてくれていたのだった。
それを見て、私は大泣きした。今までこんなに泣いたことはないというくらいに、大粒の涙を零した。私の声を聞いて心配した両親が駆け寄り、何があったのかと尋ねた。
私は泣きじゃくりながら、おじいちゃんの日記と、おじいちゃんが切り抜いてくれた新聞の四コマ漫画を見せた。
両親は私を抱きしめてくれて、祖母も涙ぐんでいた。
祖母は、「少し前、あなたが赤ん坊だった頃のアルバムを見せたことがあったでしょう。あのアルバムもね、ほとんどおじいさんが撮った写真なの。おじいさんは、あなたの写真を撮る時、すごく幸せそうな顔をしていたのよ。覚えてないかもしれないけど……」と言いながら、私の頭を撫でてくれた。
私は、祖父に大切にされていた。
ちゃんと、愛されていた。
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通夜の間、私はずっと、祖父の棺のそばにいた。
「風邪をひくからそろそろお眠りなさい」と祖母に言われても、私は頑として動かなかった。祖母は、私に温かい上着を掛けてくれて、「お腹がすいたら言いなさい。何か作るからね」と、悲しみを堪えながら微笑みかけてくれた。
棺に寄り添っているうちに、私は眠ってしまって、気がついたら両親の手によって布団に運ばれて自分の部屋にいた。
夢の中で、おじいちゃんの大きな手に頭を撫でられる夢を見た。
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お通夜の次の日、お葬式が執り行われた。お通夜の日よりたくさんの人が訪れて、祖母も両親も忙しそうだった。
私は、祖父の為に来てくれた人に何かしなければと子供ながらに考えて、「来てくれてありがとうございます」と言って頭を下げた。
参列者の人々は、優しく微笑み返して、「源一郎さんは、美香子ちゃんを一番可愛がっていたものね」と言ってくれた。源一郎というのは、私の祖父の名前だった。
私は、泣きそうになりながら、こくんと頷いた。
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やがて、親族達が連れ立って、火葬場に向かった。
「おじいちゃんの顔をよく見ておいてあげてね」と母が言った。幼い朧気な知識でも、これから祖父が焼かれるのだということはわかった。涙を零して滲む視界で、一生懸命祖父の顔を見つめた。
「おじいちゃん、大好き」と私は言った。
その言葉を聞いた両親や、祖母、周りにいた親戚が、涙を堪えるように俯くのがわかった。
大人達も悲しいのだと、辛いのだと、肌で感じとって、私はボロボロと泣きながらも、涙を堪えるようにしゃくりあげて耐えた。
祖父の鼈甲眼鏡は、金属が含まれているため、棺の中に入れられなかった。私は少しだけほっとした。祖父の思い出の詰まった眼鏡も燃やされてしまうのかと心配していたからだ。
私は、鼈甲眼鏡のケースを抱きしめながら、火葬場での時間を過ごした。待合室では、親族や家族が、口々に祖父の話をしていた。釣りが趣味だったとか、写真が趣味だったとか、面倒見が良くて優しかったとか、私の知らない祖父の話をしていた。私はその一つ一つに耳を傾けて、忘れないようにしようと思った。
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骨上げは、大人達が終わらせた。骨になった姿を見るのは、まだ幼い私にはショックだろうと考えたらしい。
次に私がおじいちゃんを見たのは、骨壷に入れられた形だった。
大柄だったおじいちゃんが、骨になるとこんなに小さくなってしまうのかと、私はそれにも少しショックだった。
私は、骨壷に向かって「おじいちゃん」と声をかけた。返事はなかった。返事がなくて当たり前だと分かっていたが、それがたまらなく寂しくて、私はまた泣いてしまった。
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火葬場から帰ってきたあと、大人達が話し合って、『形見分け』や『相続』の話を始めた。
当時の私にはよく分からなかったが、おじいちゃんの持ち物が生きている人に分けられるのだということは何となくわかった。
私は、別室に移動させられる前に、「おじいちゃんの眼鏡が欲しい!」と叫んだ。価値があるとか、無いとか、そんなことは分からなかった。ただ、おじいちゃんが一番身につけていたものを、手元に置いておきたいと思ったのだ。
その結果、しばらくしてから、おじいちゃんの鼈甲眼鏡は、ケースごと私に手渡された。私は、部屋で1番日当たりのいい場所に、おじいちゃんの鼈甲眼鏡を飾った。
おじいちゃんは、日向ぼっこが好きだったから。
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おじいちゃんの葬儀から数年経った今も、おじいちゃんの鼈甲眼鏡は、庭の綺麗な景色を見つめている。
私がおじいちゃんから受け継いだものは、鼈甲眼鏡だけではない。おじいちゃんの万年筆も、私が受け継ぐことになった。
毎日日記をつけていたおじいちゃんを見習って、私も日記を書いている。
おばあちゃんの漬物は今日も絶品。
いつも、ありがとうがらし🌶。
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おじいちゃんの鼈甲眼鏡 ジャック(JTW) @JackTheWriter
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