透き通った空
楸 茉夕
透き通った空
「透明」
「透明?」
「透明」
聞き返せば、面倒くさそうに繰り返された。聞こえなかったのではなく、意味がわからなかったから聞き返したのだが、通じなかったらしい。
「いや、好きな色を聞いたんだけど」
「だから、透明」
繰り返す彼女の声音には、面倒くさいを通り越して苛立ちが籠もっている。どうも、僕と彼女は色の定義からして違っていたようだ。
「透明って色じゃなくない?」
「水色とか言うでしょ。水は透明じゃない」
「水は透明だけど、水色は薄い青じゃないか」
彼女をモデルにした絵を描いていたのだが、背景を彼女が好きな色にしようとした。透明だと白と灰色の市松模様になってしまう。油絵だから透過も何もないのだけれど。
「じゃあ白」
「白かあー」
「なんなのよ。わたしの好きな色が関係あるの?」
「せっかくだから背景を君の好きな色にしようと思って」
「なんだ。それなら何色でもいいわよ」
「よくないよ。絵の雰囲気が決まるんだから」
僕は困って窓の外に目をやった。そろそろ夕暮れの気配が濃い。下校時間も迫っている。片付けを始めなければならないが、色だけでも決めてしまいたい。
「空がいいわ」
僕の視線を追ったか、彼女がぽつりと呟いた。
「空の色にして」
「いいけど……青空? それとも夕方? 夜とか、曇り空とか」
「全部」
「全部?」
さて困った。難題だ。人物はもう完成しているのに、背景でこんなに悩むことになるとは思わなかった。
絵を眺めながら途方に暮れていると、立ち上がった彼女は僕の後ろに回り込んで首を傾げた。
「あんたにはわたしがこう見えてるのね」
「いやあ……見てるものに、技術が追いついてない感じだけど。もっと手をかけたいけど切りがない。展覧会も近いし」
「美術部も大変ね。スポーツみたいに、点数とか記録とか目に見える指針がないもの」
「まあ、そうなんだけど。でも、練習すれば上手くなるし……ある程度までは」
努力でどうにかなる部分を超えたら、あとは才能とセンスだと僕は思っている。そして、それらもある程度までは、後天的に身につけられるとも。生まれ持った才能なんて、実はほんの少しで、けれど、そのほんの少しが運命を分けたりするから、難しいのであって。上手く言えないけれど。
「僕、絵描きに向いてないのかも……」
「はあ?」
思わず零れた呟きを聞いた彼女は、怒りすら感じられる声で言う。
「あんたね、死ぬ気で描いたことある?」
「ない、けど……」
「それでよく向いてないなんて言えるわね。死ぬ寸前までやってどうにもならなかったとき、初めて向いてないってわかるものなんじゃないの。甘えんじゃないわよ」
「……そうだね」
彼女は厳しいけど優しい。たしかに、向いていない、才能が無いと逃げるのは簡単だ。でも、続けていればいつかどうにかなるかもしれない。その、続けるというのが一番難しいのだけれど。僕は多分、美大には行かないし。絵を続けても趣味程度だろう。
「まあいいわ。モデルはもういいでしょ、あたしは先に帰るわね」
言い置いて彼女は美術室を出て行った。残された僕は窓の外へ視線を戻す。夕焼けが美しい。―――不意に、この空にしようと思った。
彼女が言うように全ての空を詰め込むのは無理だけれど、この空を切り取っておくことができたらいい。
「……透明、か」
透明な空を、描くことができたらいい。
了
透き通った空 楸 茉夕 @nell_nell
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