明朝の古い茶碗は海辺の岩の陰に沈んでいたのだが
葛西 秋
明朝の古い茶碗は海辺の岩の陰に沈んでいたのだが
明朝の古い茶碗は海辺の岩の陰に沈んでいたのだが、いったい自分がいつからここに沈んでいるのかをだいぶ前に忘れてしまっていた。
明朝の、というからには、まあ、昔のことなのだろう。
二、三年前ということは無いはずだ。
湊に荷揚げされる時に零れ落ちたか、海辺の料亭で酔っ払い客が海に投げ込んだか。過去の一切合切を忘れていたが、幸いなことに茶碗としての形をちゃんと保っていた。
縁に多少の欠けはあっても海に落ちる前からあったのかもしれない。
厚めにかけられたガラス質の釉薬が海に落ちてからも茶碗を塩水から守った。
明朝の古い茶碗は浜辺の浅い海の中、岩陰にじっと身を伏せて長い年月を過ごしていたのだ。
一人だったら寂しかったかもしれないが、茶碗には隣人がいた。
隣人は模様も釉薬も無い素朴な地肌の壺だった。
「壺さん、今日も波は青いですなあ」
「ええ、なので私の地肌もだいぶ青黒い。茶碗さんは草花模様がいつにもまして明瞭ですなあ」
「おや、そうですか、ありがとう」
そんな会話で日がな一日、ゆらりゆらりと波に揺られて過ごすのだ。
ただ明朝の古い茶碗にはどうにも気がかりなことが一つあった。
――自分は本当はもっと色鮮やかな茶碗なのではないか。海の圧倒的な青さに赤や緑の染料が色を吸われているだけなのではないだろうか。
天気の良い海は青く、青く、その海水の内にあるものをしっかり青く染めてしまう。
陽の光が無い海は暗く、暗く、すべてのものから色を奪い取ってしまう。
――いったい自分はほんとうに、どんな色をしていたのだろう。
明朝の古い茶碗はゆらりゆらりと波に揺られながら、そんなことを思っていたのだった。
そうして長い年月が経ったある日のこと。
それまであったことのないほどに強い台風がやってきた。
陸の上、海の上だけでなく海の中も荒れ狂い、渦を巻く海水に巻き込まれた茶碗と壺はあっという間にきりきり舞い、上も下も分からない濁流の中で一晩中翻弄され続けた。
気がついたのは台風一過の青空の下。
なんという奇跡か、古い茶碗は割れもせず、欠けもしないまま柔らかな砂浜に打ち上げられていた。
海の水を介さずに燦燦と降り注ぐ太陽を地肌に浴びていると、近くの岩陰から茶碗を呼ぶ声がある。
「茶碗さん、茶碗さん、昨夜はだいぶひどかったねえ。無事だったかい」
隣人だった壺の聞き覚えのある声の方を振り向くと、壺はやわらかな丸い形をすっかり失い、ただ焼き物の破片となって岩に寄り掛かかっていた。
「壺さんはだいぶやられてしまったなあ。他の部分はどこにいった」
「波にさらわれ、南の海に流れていったか、北の海に流れていったか」
ちゃぷん、ちゃぷんと台風の名残の波が打ち寄せる度に、壺の破片は岩にぶつかりだんだん小さくなっていく。
「いやあ、それにしても自分の色を最後に見ることができて良かったよ。そうか、私はこんな黒くて頑丈な焼き物の壺だったんだ」
感心しているようでもあり、強がりを言っているようでもある壺の言葉に、茶碗はあらためて自分の身体を見下ろした。
なんてことは無い、赤も緑も黄色もなく、茶碗に描かれた模様はただ青色の一色だけだった。
これまで思い描いていた鮮やかな色彩は遠のいて、茶碗は燦燦と降り注ぐ太陽の光を恨めしく見上げた。
「茶碗さん、茶碗さんの色も見ることができて良かったよ。ああ、とてもきれいだねえ。地肌がまるで雪のように真っ白だ」
茶碗は壺の破片を見た。
しっかりと、実用に耐えるように焼きしめられた壺の焼き肌はただ真っ黒なだけでなく濃淡の豊かな濃灰色だった。手びねりのうねや細かに付けられた紋様が微かに見えて、壺がただの飾りではなかったことが見て取れた。
「壺さんのその色も素晴らしいねえ。どれほどの年月使われてきたらそんなに深い色になるのだろう」
「そういえば、だいぶ、だいぶ長いこと使われていた気がするよ。まだあの頃は象がまわりを歩いていてね……」
壺の言葉はふい、と途切れ、少し大きな寄せ波が辺りを覆ったその後に、壺の欠片はもうどこにも見当たらなかった。
真白な地肌に海の青さを吸ったような青い草花模様が描かれている明朝の茶碗は、それからずっと砂浜の上で沈黙した。
明朝の古い茶碗は海辺の岩の陰に沈んでいたのだが 葛西 秋 @gonnozui0123
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