雪の駅

uni

雪の駅

 遠くの山々も、線路沿いの木々も、白い化粧を施されていた。

 今にも朽ち果てそうなみすぼらしいその駅舎でさえ、なかなかどうして様になっている。死化粧でもあるまいし、と田中は思った。


 辺りはけぶり、線路の先さえ見通すことはかなわなかった。

 田中は不快そうに肩を払った。

 湿気を多くはらんだ重い雪だ。この辺りでは、春が近づく今の時期に降る。体にまとわりつき、じっくりと時間をかけて溶けていく嫌な雪だ。始めこそ足並みをそろえるゆっくりとしたペースで降っていたが、一緒に走ろうなんて口だけで、今では競争するかのように降りしきっていた。 

 強い風が吹くたびに、雪は凶暴性を剝き出しにする。猛スピードでぶつかられては、目も開けていられない。顔はすっかり麻痺してしまった。それでも手を休めることはない。せめて、あの二人が帰るまでは……。風が唸る音の他は、シャベルが雪を掻く音だけしか聞こえなかった。それは時を刻む秒針のように、断続的に鳴り続けていた。



 寒い。

 隙間から漏れる冷気が、ふっと首筋を撫でた。思わず、身震いしてしまう。部屋を暖めているストーブも、隙間から漏れる冷気はどうしようもない。恨みがましく窓を睨むが、埋めるにはその隙間はあまりにも大きかった。

 もう電車は来ないだろう。

「参ったな」

 土井は頭を掻き、大きなため息を吐いた。

 この町にホテルはあるのだろうか?

 見て回った限り、それらしいものはなかった気がするけれど……。


 土井はポケットからスマホを取り出した。しかし、待ち受け画面を見た途端、凍り付いたように動かなくなった。冷気が体の内に入り込んできたような気がした。

 寒い。凍えそうだ……。


 土井はスマホをしまうと、コートのポケット深くに手を突っ込んだ。

 強い風が木の扉を打ち、ギシギシと揺れた。土井は窓から外を見る。そこにある人影を瞳の中に入れると、おもむろにベンチから立った。




 綾子が立っているのは、どこまでも白く幻想的な世界の中だった。強風に煽られた雪が無邪気な子供のようにまとわりついても、彼女は気にする素振りを見せなかった。気づいてさえいないのかもしれない。視線の先にある線路は、白く霞んでいた。まるで彼岸に続いているかのように。


 少し離れたところから土井は綾子の姿を見つめていた。声を掛けようかとも思ったが、その姿にどこか異様なところを感じ、結局やめた。代わりに、プラットホームを端まで歩き、雪かきをする老人へと声をかけた。


「列車は来るんですか」

 田中は何も答えず、作業を続ける。風と自分が生み出す雪を掻く音の他、彼には何も聞こえるはずもなかった。土井は白い息を吐き、しばらく老人の姿を眺める。一心不乱に雪と格闘する彼の姿が、この場においてはありがたく思えた。彼がいなければ、雪に囲まれたこの世界がひどくあやふやなものになってしまいそうだったから。

 視界の端に黒い影を認め、ふと、田中は顔を上げた。土井と目が合うと、大きく目をしばたたせた。

「列車は来るんですか」と、もう一度土井は訊ねた。

 田中はシャベルの持ち手に両手を置き、頭を振った。

「いやあ、来ないでしょうな」

「ではあの人、何で待ってるんですか? あんな場所で、寒いでしょうに」

 綾子へと顔を向け、土井は訊ねた。

「待ちたいから待ってるんですよ」

 突き放すような言い方ではあったが、そこには確かな同情を感じることができた。

「もしかして、いつもあそこにいる……とか?」

「ええ、まあね。でも幽霊ってわけじゃないですよ」

 土井の顔を見て、田中は苦笑して言った。

「可愛そうな女なんです。ここがちょっとね」と、頭の前でくるくると指を回した。

「……病気なんですか?」

「娘さんが列車の脱線事故で亡くなりましてねぇ。ほら、あの事故です、三年前の。知らない? 結構大きなニュースになったんですがねぇ。当日ね、帰省するはずだった娘さんを迎えに来とったんですよ。それ以来、毎日あそこで娘の帰りを待っとるんですわ。受け入れられないんでしょうねぇ」

 やれやれと頭を振り、土井の顔を見上げた田中は、ぎょっとした顔をする。

「……お客さん?」

 先ほどまで確かにあったはずの流れる血の温かみが、土井の顔から消え去っていた。

「それは……さぞお辛いでしょうね」

 絞り出すように、土井は言った。

「ええ、それはもう……哀れなもんで」

「中に戻んなさい、ここは冷えるでしょう」

「ええ、そうさせてもらいます」

 土井は最後にチラリと綾子に目をやると、待合室に戻った。



 待合室はストーブの暖気で満たされていたが、土井の震えは止まらなかった。彼は乾いた目でスマホの画面を眺めていた。光が消えるたび、画面に触れ、再び明るくする。しばらくして、扉を開けて田中が入って来た。しかし、土井の顔を見て、かける言葉を失ってしまう。本物の冷気を肌に感じ、土井は田中へと目を向けた。


「お客さん、申し訳ないですがもう列車は来ません。この雪ですからね」

「そうですか」

 田中はまじまじと土井の顔を見る。

「お客さん、寒いんかね?」

「ええ、とてもね」

「もう少し暖まっていきなさい。帰り道は作りますから安心してください」

 そう言って、田中は待合室のドアを閉めた。

 この分では夜にかけてますます強く降るだろう。田中はプラットホームの端に目をやった。そして、そこに変わらず影があることを確認すると、スコップの柄を握って雪の中に戻った。



「昔からそうなの。いつも途中で後悔して、それが分かってるのに続けて……終わってからもっと深く後悔する」

 いつか、彼女はそう言っていたっけ。

「でもさ、少なからずの人間がそういう問題を抱えているんじゃないかな? 俺だって、今のバイトは嫌いだ。忙しいわりに簡単で、大変だけど退屈で、頭がおかしくなりそうだ。始めたのを後悔しているよ。でも給料はそこそこ良いし、今さら他のバイト探すのも面倒くさい。だから、続ける。でも多分、未来の俺はこの選択を後悔していると思うな」

「そういう話をしているのかな、私は」

「ごめん冗談だ。俺は自分の不平不満をぶちまけたかっただけなんだ。稀に見る甘ったれだから」

 彼女は笑ってくれた。


 土井にはよく分かっていた。彼女が抱えている問題……。遠い故郷に母親を一人にして出てきたこと。その際に酷く喧嘩をしてしまったこと。今もまだ仲直りはしていないこと。

 深い謝罪の言葉は、いつも胸の内にとどまっている。内から彼女を締め付け、心をすり減らす。彼女の苦痛を少しでも和らげてあげるため、土井はよくつまらない冗談を言い、彼女を笑わせた。それが心の内まで沁み込んでいないことは分かっていたが、気にしなかった。雨垂れが岩を穿つように、きっといつか——。


「いつか、一緒に君の故郷に行きたいな」

 ある日、土井は言った。彼女はいつものように優しく微笑むだけだった。



 雪は降り積もる。思い出のように。山も木々も田畑もすべてが覆われて、幻想的と呼べる世界となっていた。それは同時に生きるには現実的ではない、死の世界とも呼べるものに違いなかった。そんな世界の端で、土井と綾子は来ることのない列車を並んで待っていた。

 

「遅いですね」と、土井は言った。

「ええ、本当に」と、綾子が言った。


 それから、沈黙。

 雪はあらゆる音を吸収してしまう。だから、仕方ないんだ。そんな言い訳で自分を慰め、土井は線路の先を見つめていた。白い闇の向こうから、微かな光が現れはしないかと、どこかで祈りながら。でも、来ないんだ。そんなことはとっくの昔に分かっていた。


「娘さん、今日は帰ってきますかね」


 言葉なんてとうに失われてしまったかのような長い時間の後、土井は訊ねた。


「ええ、来ます」と、綾子は言った。

「そうですか。それはよかった」

 土井は微笑み、コートのポケットに手を入れた。

「僕の彼女も、昔この町に住んでいたんです。もう亡くなりましたけどね、三年前に。今日ね、彼女の実家を訪ねたんですけど……留守でしたよ」

「それは残念でしたね」

 綾子はただひたすらに一点を見つめながら言った。

「その子の写真、見ます?」

「……どうして私が」

 初めて、綾子は霞んだ線路から目を離し、土井を見上げた。その虚ろな目をしっかりと見据え、土井は言う。

「あなたに見てもらいたいんです」


 彼女は震える手でスマホを受け取った。


「今日はもう、列車は来ません。あのおじいさんが言っていました」

「……そうですか、来ないんですね」

「ええ。来ないんです」

 

 途端、綾子の目から涙があふれた。


「ここは寒いです。暖房のあるところに行きましょう」

 

 待合室に入る二人の姿を、駅の外から田中が眺めていた。

 彼はうむと小さく唸ると、シャベルを手に、自分の仕事に戻った。その姿はすぐに白く覆われ、見えなくなってしまう。しかし、彼の雪を掻く音だけは聞こえていた。


 雪はますます強く降りしきり、世界は白く染められていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪の駅 uni @uniabis

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ