ぴよちゃんはそういうもの

尾八原ジュージ

あなたとわたし

 ぴよちゃんを食べるの、やっぱりやめようよ。

 あなたがそう言うので、わたしは半分驚く。でも心のもう半分では、やっぱりと思っている。

 あなたが最近ぴよちゃんのことを、なんとも言えないけど強いて言うなら公園で子供が遊んでるのを見守ってる親みたいな、そういう目で見ているのを、わたしは知っている。でも、そもそもぴよちゃんを食べるためにもらってきたのは、あなただ。

 だいたい、自分たちで育てたものは美味しいって言い始めたのもあなただ。最初はプランターを庭に置いてミニトマトを育てた。なるほど確かに美味しかったし、過程も面倒ではあったけれど、楽しかった。

 わたしたちの家にはささやかながら庭があったので、いろんなものを作った。レタスにベビーリーフにラディッシュ、どれも美味しかった。次は何を育てようか? と相談を始めた頃、あなたがいきなり子豚をもらってきた。飼えなくなったんだって。うちで育てようよ。

 あなたはその愛らしい生き物について、うちで飼おうとは言わなかった。だから、わたしたちは子豚に名前をつけなかった。絞め方や解体の仕方を学び、レシピを調べた。やがて子豚は食卓に上った。とても美味しかった。

 育てて、食べる。いつのまにかそういうことが生活の一部になっていた。育てたものは美味しい。どんなふうに育ち、どんなふうに息絶え、どんなふうに調理されるのか、わたしたちはすべて知っている。それが喜ばしい。

 そう、ぴよちゃんをもらってきたのもあなただ。知り合いの家で飼えなくなったんだって。うちで育てようよ。子豚のときとまるっきり同じだった。もちろん、わたしはいいよと答えた。そもそもあなたのお願いにノーと答えたことは一度もなかった。

 その頃、ほかの食物たちと同じように、ぴよちゃんに名前はなかった。かつて子豚がいた庭にある小さな小屋の中で、ひとりで静かに暮らしていた。もちろん世話はきちんとしていたから、ぴよちゃんは清潔で健康で、すくすくと育った。わたしたちにも懐いて、わたしたちのうちどちらかでも庭に出ると、小屋の中ではしゃぎ回った。

 でも、あなたがぴよちゃんという名前をつけたとき、何かがおかしくなった。食べ物に名前をつけないの、と叱るとあなたは項垂れた。わたしはあなたのそういう顔に弱い。なしくずし的にぴよちゃんはぴよちゃんという名前を持ち、運動をさせた方が美味しくなるからという名目であなたといっしょに庭の中を駆け回り、いつの間にか家の中にいて、夜はあなたのベッドの足元で眠るようになった。

 裏切られたような気持ちだ。

 わたしだって、ぴよちゃんがかわいくないわけではない。でも、ぴよちゃんは食べるためのものだ。育てるのが大変そうだからと乗り気ではなかったわたしを、きっと美味しいよと説得したのもあなただ。絞め方や解体の仕方や調理法を調べ、「少しは調べ物を手伝ってよ」って、わたしに文句を言ったのもあなただ。

 わたしは、あなたの望むことにはイエスと答えてきた。あなたが望むならなんでもできる気がした。前に一度、人間を殴ってみたいんだってあなたに言われたときも、躊躇いなくいいよと答えた。あなたの拳が何度もこめかみに、頬骨に、顎に当たって、とても痛かった。意識がぐらぐら揺れた。殴られた痕は痣になって、しばらくの間生々しく顔を彩った。首を締めてみたいと言われたときも、わたしはいいよと答えた。とても苦しかった。息ができなくなって、このまま死ぬかもしれないと思った。もしもわたしがあなたの手の中で死んでしまったら、あなたはどうするだろうか。泣くだろうか。後悔するだろうか。それともわたしのことなんか、すぐに忘れてしまうんだろうか。

 あなたはもう、あの子豚の話なんかしない。ぴよちゃんを食べてしまったら、たぶんぴよちゃんの話もしなくなる。わたしには、それが望ましい。結局あなたと一緒に暮らすのはわたしだけなのだと、そういうことを守ってほしい。

 もしもぴよちゃんを食べなければ、これからもあなたがぴよちゃんとなんらかのコミュニケーションを取り続けるだろうということが、ぴよちゃんに心の一部を割き続けるだろうということが、わたしたちの家にぴよちゃんが居続けるだろうということが、わたしには耐え難く、悲しい。

 あなたはわたしの表情によって、わたしの悲しみと怒りを知る。ごめん、とあなたが言う。ごめん、いつもわがままばかり言って。なんでも言うことを聞くから。

 あなたにそんなことを言われたのは初めてだ。びっくりして、わたしはとっさにどうすればいいのかわからない。頭の中がぐるぐるとかき混ぜられ、混乱の中から飛び出してきた言葉が、ぽろんとわたしの口から飛び出す。あなたを殴ってみたい。わたしはわたしの言葉に驚くけれど、同時に本当にそうしてみたいと強く思う。かつてあなたがわたしにそうしたように。

 あなたの目が泳ぐ。でも次の瞬間にはその唇からいいよという言葉が出る。わたしはあなたを殴る。こめかみを殴り、頬骨を殴り、顎を殴る。そうしながら、わたしは胸の中がなにか愛おしいもので満ちるのを感じる。あなたの希望を聞くばかりだったわたしが、今は自分の希望を叶えてもらっている。これもまた、初めてのことだ。わたしたちの関係に生じた変化を、わたしは尊いと思う。

 首を締めてもいい? そう聞くと、あなたは何か言おうとする。あなたが無条件に望みを叶えてくれないことに、わたしは悲しむ。わたしの目から涙がこぼれると、あなたはあわてていいよと答える。わたしはあなたを床の上に押し倒し、首を締める。かつてあなたがわたしを締めたのと同じくらいの時間、じっくりと締める。

 もしもあなたがこのまま死んでしまっても、わたしはあなたのことを忘れないだろう。あなたの持ち物を捨てず、あなたの分も食事を作り、あなたの好きな歌をうたうだろう。でも、それはあなたに頼まれたからそうするのではなく、わたしの意志でそうするのだ。そういう実感を得て、わたしは、生まれ変わったような気分になる。

 わたしの腕をつかんで剥がそうとするあなたの力がだんだん弱くなり、わたしははっと気づいてあなたの首から手を放す。あなたは床の上で何度も咳き込む。

 あなたがぴよちゃんを食べないというなら、わたしがあなたを食べていい? 震えているあなたの背中に向かって、わたしは問いかける。あなたと一緒に調べた方法で絞めて、解体して、調理する。それでいい? あなたは首を横に振る。

 じゃあぴよちゃんは今までどおり食べる方向で。わたしが言うと、あなたはうなずく。

 あなたが吐いたので、わたしは雑巾を取りに向かう。廊下に出ると、他の部屋で遊んでいたらしいぴよちゃんが、よちよちと二本の脚で駆け寄ってくる。確かに愛らしい。子豚のようだ。この生き物が言葉を覚え、わたしたちに話しかけてきたら、わたしも食べるのがいやになってしまうかもしれない。その前に食べてしまった方がいい。

 わたしはぴよちゃんの頭を撫で、屈んで抱き上げて、庭の小屋に連れていく。雑巾を取りにいくのは後でいい。

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ぴよちゃんはそういうもの 尾八原ジュージ @zi-yon

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