ホワイトアウト

染谷市太郎

夜の底は白い

 吹雪が列車を飲み込んだ。

 窓の外は闇に潰され、列車を揺らす風と叩きつける雪が吹雪の強さを物語った。

 ただそれでも、列車が速度を落とすことはない。先頭で排雪板が線路に積もった雪をはねあげる光景が目に浮かぶ。どんな吹雪であろうとも列車の中にいる私たち乗客はその恐ろしさを知らずにいることができる。

 そうしてのんきに結露を拭き取った窓を覗き、私は線路上の雪のようにはねあがった。

 窓越しに現れた、包帯の男。

 私はぎょっとして、しかしすぐに正気に戻る。窓越しに現れたそれは、暗闇で鏡となった窓に映る乗客だ。

 この列車は対面式座席で、私の座席から通路を挟んだ向かい側に男女二人の乗客がいる。私から見て斜め左に座っている男の乗客が、ちょうど窓に映り込んだのだ。

 私はこっそりと、結露が気になる神経質な人間のふりをして窓を拭いた。

 男の姿を鮮明にするために。

 私から見える男の左半身は、傷だらけだった。頭部は包帯が巻かれ、目と口、そしてわずかな頭髪がその隙間から飛び出している。左腕にはあるはずの膨らみがない。誰がどう見ても、激戦区から帰還した傷病兵だ。

 だが、痛々しい包帯とは裏腹に着込んでいる軍服に乱れはない。列車の揺れで軍服の裾がずれるたびに、男の向かいに座った女がかいがいしく整える。男が口さみしい様子を見せれば女が水を飲ませる。わずかでも汗がにじめば柔らかいハンカチを丁寧に当てた。その手厚い扱いを、私はもどかしさを感じながら窓越しに眺めた。

 女は軍服の勲章のずれが気になるのかつけては外してを繰り返す。あの勲章は大きくて付け方を知らなければ扱いにくい。軍服へ穴を開けないようにつけなければならないのだが、そればかりを気にしていると勲章のピンが指に。

 ずくりと私は中指が痛みを思い出した。もう治ってもいいはずの刺し傷が、指の腹で赤黒く傷んでいる。傷ができたのはどれくらい前だろうか、覚えていない。なにせあの頃の私は、ただ必死だった。

 学生でなくなると同時に、周囲の同輩と共に自ら軍に志願した。同調圧力に負けたと認めたくなく、喜び勇んで国に奉仕したと自分自身に言い聞かせた。だがそんな自己暗示は、戦場の泥と血に破れた。

 弾丸が友人を貫通し、爆風が上官を吹き飛ばし、補充された後輩はすぐに肉片となって故郷に帰る。敵も味方も血走った目でにらみ合う。あそこは狂っていた。生も死もあいまいな境界で、私は生きているのか、亡霊となってたださまよっているのか、皆目見当もつかずがむしゃらに殺し前進する。

 あの恐怖と狂気の泥沼で、けれど私には先輩がいた。

 私よりも先に戦場を知り、戦場で生き抜いた先輩。だというのに、いまでも目をつむれば思い出せる、あの戦場で彼だけはまっすぐな目を持っていた。ぼろぼろの服で、泥で顔を汚し、それでも彼の目はまっすぐだった。戦場という狂気に染まらず。あの目には平和があった。私も誰もかれもがあの目に帰る場所を見ていた。

 先輩がいた。先輩のまっすぐな目があった。だから死にたくないと思えた。

 だから、私たちは必死に彼のために戦えた。

 嬉しかった。もはや愛国のためではない。彼のために戦場を駆け、彼のために戦果を上げることが。

 私たちは彼のための兵隊になった。

 そして彼へ勲章が送られたとき、それが証明された。国は私たちを認めたのだ。

 彼は勲章を上官ではなく最大の奉仕者につけてもらうことを望んだ。あの、大きくて重い勲章。

 あのとき私は彼の軍服を傷つけないように必死だった。すでに傷だらけの軍服だというのに。そればかりを気にして、だから勲章のピンは私の指を。

 ずくりと中指が痛んだ。あの戦場で受けたどんな傷よりも、中指の刺し傷はひどく傷む。じくじくとした痛みに耐えられず、私は冷たい窓の結露をぬぐった。闇を透かす列車の窓、窓に映った目が、私を見ていた。

 中指が痛みに跳ねた。窓に反射する男の目は闇を背景にどこまでも虚ろだった。どこにでもいる、戦場の泥と血に汚れた人間の目。私たちと同じ目。

 がたん、と列車が大きく揺れた。同時に減速していく。窓の外、闇の中に初めて灯りが現れた。どんどんと近づくその明るさに、私は目をつむる。

 通路を挟んで向かいの男女が立ち上がった。足音はまばらで、きっと、もどかしいほどのかいがいしさで女が肩を貸し男を歩かせているのだろう。

 一歩、二歩、三歩。遠ざかる足音と、窓に叩きつける吹雪の音。開けられた列車のドアが風で暴れる音が響く。

 ずくりと中指が痛い。

 治らないのだ。勲章を授与した彼は、戦場を去ってしまったのだから。私たちはどんな傷を受けても立ち上がってきたのに、彼がいなければ意味がない。

 彼はいるはずだ。こんな安全地帯ではない。戦場に、どこまでも苛烈な戦場に、私たちの合流を待っているはずだ。あのまっすぐな目を湛えて。

 私は固く閉じていた瞼をゆっくりと開けた。窓は雪でびっしりと覆われている。その先に闇はなく、もはや何も映すことはない。この車両には誰もいない。

 汽笛が冷たい空気を裂いた。車輪が軋みを上げ、排雪板が雪を掻く。

 走り出した列車を、吹雪は飲み込んだ。

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ホワイトアウト 染谷市太郎 @someyaititarou

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