奥には何が住んでいる

霧谷

✳✳✳

──冷たい鏡面に手を這わせると、爪の先が当たり硬質な音を微かに鼓膜へ届ける。記憶の奥底に留めるまでもないそれは閑寂な空気に溶けて消え、息遣いに乗せて味蕾を撫でたのち、私の身体の中へと還る。


音は肺に、血液に、脳に、心臓に還る。

この場に音が存在していたことを知るのは私だけだ。


「──私は私だ」


耳が痛くなるほどの静寂の中、私は小さく呟いた。


鏡を長く見つめていると、自我が溶けて崩れる感覚を憶えるのは私だけだろうか。否。そのようなことは無いだろう。だって間近に顔を寄せて覗き込めば、眼の奥の自分がこちらを見つめている。眼の奥の自分を覗き込めば、また、そこには私が居るのだろう。


だが、私は確かにここに居る。ここに存在している。

髪を引っ張れば痛いし、頬を抓っても痛い。

痛みを感じられる。だから私は、ここに居る。


「……私はここに居る」


もう一度、呟く。誰かに自らの存在の誇示をするでもなく、ただ、鏡面に映る自分に向けて強く言い放つ。




「──……?」


──ふ、と。そこで。誰かの視線を近くに感じた。




「──……っ……!!」



ぞくり。



例えるならば、それは『目のみ』を切り出した写真と丑三つ時に目が合ったような薄気味悪さ。




「……っ、」


鏡から飛び退くはずだった足は、縫い留められたように床から微塵も動く気配を見せない。足を引こうにも脳からの指令は足に届くまでに霧散してしまう。


「──」


……間近で目を覗き込まれたような底知れない圧力が、嫌悪が、動揺が。ひとしずくの恐怖と形を成して私の背中を伝い落ちる。がちがち。歯の根が合わない。


「──」


場を支配していた静寂と思案の穏やかな渦に、不規則な音が粒となって引きずり込まれていく。がちがち、ざらざら。ぐるり。がちがち。ざらざら。


言葉の無い場にノイズが交じる。ノイズが交じる。


ざらざらとしたノイズが交じる。


視線は変わらず、こちらを見ている。

思考の流れが滞り始める。


「──」


声が出ない。歯の根は合わない。


私を写す鏡像が心なしか、歪んだ気がした。


──ああ。


自己を確立した思考の行く先は、いつも確かだ。

迷い無く目指す地点へと辿り着ける。

迷えども歩んだ道筋は必ずそこに残っている。



ならば、不純物の混じった渦の行き着く先は、どこ。


ノイズを飲んで吐き出すべき言葉は、なに。


視線の主は、どこ。だれ。




「──私は、」


乾ききった喉。掠れた声を辛うじて絞り出し鏡面を強く叩いて鏡を覗き込む。自らを見つめる正体不明の視線に、いま一度、己が己であることを証明しようと。






そうして間近から鏡を覗き込んだ、瞬間。

今度こそ私は息を呑んだ。




覗き込んだ眼の奥底、写し出された私の目は。




『──いくら唱えて、願ったところで同じこと。


この鏡と一緒だよ。本当の自分なんていない。


覗き込めば無数の自分がそこにいる。どれかひとつと定めてしまえば、他は偽物と銘打たれてしまうんだ。


きみもほんもの、わたしもほんもの。

きみもにせもの、わたしもにせもの。


己が己たり得る理由は、本当はどこにもないんだよ。




会いたいね、「私が私たり得る理由」に』






──確かに、嗤っていた。

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奥には何が住んでいる 霧谷 @168-nHHT

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