たかがその程度で、私達は。

各務あやめ

第一話

 もう無理、と彼女は呟いた。

 一瞬聞き間違いかと疑う程小さな声だったが、なぜかその言葉は、はっきりと私の耳に届いた。反射的に、私の目は彼女に吸い寄せられる。

 けれど、それ以上を彼女は話さなかった。何も無いのに、真正面をただ見つめているだけ。ただ、まっすぐと。

 放課後の教室は、徐々に人口密度が減りながらも依然として騒がしい。その隅っこで私はひとり、机に顔を貼り付けるようにして英単語帳を見ている。四方八方から笑い声が聞こえるその空間では、別に悪いことをしている訳でもないのに落ち着かず、居心地が悪い。覚えなきゃ、覚えなきゃと焦れば焦る程、目はアルファベットの羅列を上滑りしていく。それでも義務だから私は目を離せない。

 視界と脳が文字に支配されていく。それを断ち切るかのように、彼女の声が再び降ってきた。


 「無理だよ、こんなの」

  

 小さな、小さな声。

 私は顔を上げ、隣の席に座る彼女をもう一度見る。どこか哀しそうな表情、白くて細い腕は、ぶらりと机の上に投げ出されていた。けれど手だけは力強く拳が握られていて、小刻みに震えている。

 堪えきれずに、聞いてしまった。

 「どうかしたの?」

 「写真だよ」

 そこで初めて、彼女は私を向いた。脈絡の無い会話。意味は分からなかったが、彼女は未だ震え続けていた。そんな姿は、あまりにもかわいそうで、無防備だった。

 「これ、見て」

 そう言って、ゆっくりとだが躊躇なく、握っていた拳を開いてみせる。すると指の隙間から、はらりと小さな紙の破片が何枚か零れてきた。そのまま机から落ちて、宙を舞ってから地面につく。元は一枚の写真だったようだ。

 色褪せた写真の欠片たち。

 はっとする。考えるより先に首を傾げた。

 「破いたの?」

 そんなことするわけない、と即座に彼女は言い放つ。矢継ぎ早で、こちらの語尾と重なっていた。先程までとは打って変わった強い語気。意を突かれる。

 ざわざわと、教室には会話が飛び交っていた。その会話に自分が加わることはそれ程多くない。

 けれどなぜだろう、彼女の言葉だけは放っておけなかった。普段教室で聞く軽い声とは、それは似ても似つかなかった。

 そんなわけないよ、と彼女はもう一度言い、顔を伏せる。そうやって、何かを咀嚼しているように見えた。

 「……私にとっては、大事な写真なの。お守りだから」

 「それじゃあ、どうして」

 彼女は声を詰まらせる。前やがて、静かに告げた。

 「破かれたの。このクラスの誰かに」

 

 

 いつの間にか残っている生徒は大分少なくなって、もう数人しかいない。静かな教室に、窓の外からの運動部の掛け声が空しく落ちる。

 えっと、と言葉を繋げようとしたが何を言えばいいのか分からなかった。目を伏せて一点を睨み続ける彼女の姿は、普段見せないものを明らかにさらけ出していた。滑稽にさえ見えた。

 私は単語帳のページを指先で弄びながら尋ねる。

 「えっと、誰かがわざと破いたってこと……?」

 「この写真ね、破かれて、教室のゴミ箱に捨てられてたの」

 彼女はぽつぽつと繋げる。

 「普通、写真が落ちてたとして、ここまで無惨に破いて捨てると思う? 私だったら拾って、持ち主を探すと思う」

 それじゃあ、一体誰がこんなことをしたのだろう。

 私は密かに呼吸を整えた。彼女から逃れるように視線を落として、床に散った写真の一部を拾う。写っているのは、小学生くらいの子供だ。それにはおかまいなしに、笑っている表情を引き裂くようにそれは破かれている。

 「この写真を撮ったのはね、もうずっと前なの」

 彼女は破片を机の中央に集めて、パズルのピースを組み合わせるように一枚の写真を作っていく。私はそれを、身を固めてじっと見ていた。これが全ての破片ではないのだろう、少し欠けた背景の中に、ふたりの少女の姿が浮かび上がる。

 「これが私で、こっちの子が」

 彼女は幼少期の自分を指差し、もうひとりを指差してから言葉を切らした。当然だ。彼女はその人物の名前を知らない。多分私は、わざわざ名乗らなかった。

 ふたりとも、笑顔でピースをしている。無垢な笑顔で、心底楽しそうだった。彼女が小さな片腕を、一生懸命伸ばして撮っている。

 場所は公園で、後方に錆びれたブランコと滑り台が映っていた。地面には、雑草のような、小さな黄色い花が散らばっている。

 「小学生の頃、近所の公園で知り合った子なんだ。でも学校が同じとか共通点があったわけじゃないから連絡先も知らないし」

 彼女はすっと目を細めて、笑う。

 「懐かしいなあ」 

 「……よく覚えてるね、そんな何年も前のこと」

 キーン、コーン、カーン、コーン。

 青春ドラマから切り取られたかのような、馴染みがあって、軽い鐘の音。明日も学校かあ、とまだ家にも帰ってないのに考えてしまった。

 私は今更後悔していた。話しかけなければよかった。

 「この子ね、すっごく良い子だったんだよ」

 秘密基地を打ち明ける子供のような、純粋な目。そんな視線が、少し怖い。

 「小さな体ですごい重たそうなリュック背負ってたの。なんでだと思う?」

 その時はちょうど、塾の帰りだったから。

 「教科書がね、いっぱい入ってたんだよ。真面目だなあって思った」

 そんなの、親に言われて渋々やってたことだよ。本当は塾も勉強も、やめたかったけど。

 「でもねその子、私に打ち明けたんだ。多分、赤の他人だったから言えたんだと思う。今思い返せば、ね」

 そこで、すっと声のトーンが低くなった。一拍置いて、再び口を開く。

 「塾で、いじめられてるんだってさ。教室で、陰口言われたり」

 まるで自分の事のように、彼女は声を震わせていた。

 「もう何年も前のことだし、今は元気にしてると良いなあ」

 涙交じりの声だった。私はそれを、どこか他人事のように聞いていた。どうしてたった一回しか会わなかった人のことを、今でも覚えていて、案じているのだろう。優しいと思うのを通り越して、不思議だった。

 きっと写真だけじゃ、彼女は気づかない。彼女の記憶の中の私と今の私。どれだけ面影が残っているか。

 別に、今の私は普通だ。小学生の頃のことなんて、もう古い記憶。けれど誰にだって、思い出したくないことのひとつやふたつ、あるはずだった。

 半分ほど空いた窓から、風がこちらに入って来る。風に押されると、カーテンがゆるやかに揺れる。その静かな流れを、私は結構気に入っていた。教室の席で少し遠くから、カーテンが膨らむのを眺める。

 彼女は笑ったような、泣いたような表情で、破かれた写真の破片を見つめている。もう一度会いたいなあと呟く。けれど私は何も言えない。別に大したことでもないはずなのに、なぜかここで自分の正体を明かしてしまうのが怖かった。隠していれば、安全地帯にいられるような。そんな気がした。

 「私、この写真を誰が破ったか知りたいんだ。一緒に探してくれる?」

 おずおずと、彼女はそう頼んでくる。断ることもできたはずだったのに、私は迷いなく頷いていた。一種の罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。

 なぜ彼女がこの写真をこんなにも大事にしているのか。私に再会したいと言っていたのか。その時は何も知らなかった。

 


 私は黙って、彼女が話すのに耳を傾ける。

「写真が無くなったのに気づいたのは、放課後になってから。教室中の床に落ちてないか探しても見つからなくて。……まさかと思いながらゴミ箱を覗いたら、破れてて」

 当時のことを思い出すように、彼女は斜め上の空中に視線を泳がせながら、ゆっくり説明する。私は尋ねた。

 「写真は、いつの間にかなくなってたの?」

 「……うん。ブレザーのポケットに入れてたんだけど。ちょっと暑かったからブレザーを脱いで椅子にかけたの。その後少し用事があったから、数分間教室を離れてたんだけど……。帰って来て見たら、写真がなくなってた」

 ずっと写真を持ち運んでるべきだったなあ、と遠い目をしてぼやく。

 私は彼女の着ている制服を指差した。

 「そのブレザー、もう一回見てみない?」

 「あ、うん」

 彼女はブレザーから腕を抜いて、私に渡す。全体を眺めてから、内ポケット含め全てのポケットを裏返してみるが、特段変わったところはなかった。礼を言って返す。

 彼女が教室を離れたほんの数分の間。その短い間に写真を手に入れて、破ってゴミ箱に捨てる。授業が終わった直後の騒がしい教室なら、写真を破ってゴミ箱に捨てることくらい、何の造作もない。誰にだって目立たずにできることだ。

 「問題は、その人がどうやってその写真を手に入れたかだね」

 「うん、そうなの!」

 彼女は力強く頷いた。

 「私がブレザーを脱いだ拍子に落としちゃったのかもしれない。だけど、そうじゃないのなら……」

 彼女は悲しそうな顔で黙ってしまう。

 ブレザーから写真を抜き取る。盗んで捨てたということだ。

 「写真の存在を知っている人は他にいるの?」

 彼女は背を丸める。身を縮こませるような体勢で、こう漏らした。

 「……誰にも言ってないけど、多分、見られてたんだ」

 「見られてた?」

 写真を持っているところを誰かに目撃されて盗られたのだろう、ということか。

 彼女は困ったように、その細い指をもぞもぞと絡ませていた。華奢で全体的に線が細いのは、昔から変わっていないみたいだった。

 ガタン、と椅子の音を立てて、私は立ち上がる。

 「えっ、どうしたの……?」

 「写真の、残りの部分を探しに行こう」

 私は、さっき彼女が机の上に並べたのを指差した。

 「まだちょっと欠けてるでしょ?」

 「で、でも。一体どこに……」

 「教室は探したんだよね?」

 私は教室の隅に向かった。ゴミ箱から袋をつまんで、一応振ってみる。目を凝らしたが、それらしいものは見つからないので、すぐに諦めた。 

 教室の扉を開く。


 

 教室から出ると、廊下のひんやりとした空気が身を包んだ。

 タタタ、と上履きを鳴らして彼女が走ってくるのはすぐだった。

 「写真、こんな所にあるのかな……?」

 おずおずと困ったように見つめてきたが、やがて私と一緒に腰を屈めて、廊下の床の上を探し始めた。たまに横切る生徒たちが不審そうにこちらを見るが、構わなかった。

 正直あてはない。けれど写真が見つかれば、それを破った人間の足跡もきっと見えるはずだった。

 二人で一緒に、目を凝らしながらゆっくりと廊下を進んでいく。その時、薄汚れた地面に覆われていた視界に、大きな影が入った。

 「何、してるのー?」

 顔を上げる。その人物と背後に付いた二人ほどが、私たちの通路を塞ぐようにして立っていた。

 「何か、探してるのー?」

 真ん中に立ったひとりが、短いスカートを揺らしてこちらに近づいてくる。背後の二人も、何も言わずにやって来る。

 その複数の視線の不気味さに、一瞬寒気がした。それらはずっと、一秒も離れることなく私の隣に注がれていた。しかとそこを見つめて、絶対に逃がすまいとするかのように。

 「ねえ、部活も来ないでさ、ここで何してるの?」

 確か彼女は、バドミントン部だったか。以前ラケットを持っているのを見たことがあった気がする。これは、運動部特有の厳しさなのだろうか。

 多分違うだろう。顔を向けなくても分かった。私の隣にいる彼女は、身を強張らせている。

 「……退部届は、昨日出し」

 「え、先生に出したってこと? 意味分かんねー、部長の私は何も聞いてないんですけどー?」

 「……これから、相談しようかと」

 「相談って、もうひとりで決めてる癖にー?」

 間延びした口調。普通の友達に向けてするそれとは明らかに違っていた。私たち、心配してるんだよー? と言いながら、余裕のある溜息をつく。てか部活来なくても荷物運びはしとけよ、と睨みつけた。

 「それとも何か、私たちに問題でもあったのかなー?」

 「あったんじゃない?」

 鋭い声だった。

 はっとその場にいた全員が声の方向を向く。ひとりの女子生徒が、堅い表情で近づいてきていた。

 「あんたらさあ、マジいい加減にした方が良いよ。顧問や他の部員に隠れて、こそこそちょっかい出してさあ」

 きっと目の色を鋭くして言う。完全に空気が変わった。三人に詰め寄る。

 「でも私は、早紀さきの友達だから。全部早紀から聞いてるし、知ってるから」

 そこまで言ったところで、三人は無言で立ち去って行った。足早に逃げていく。

 その時、カランと小さな音がして、何かが廊下の床の上で光った気がした。何だろう、と私は首を傾げる。

 しかし私以外は気づいていないようで、救世主のその女子は「愚かな奴ら」と吐き捨ててから、友人の手を取った。

 「早紀、またあいつらの荷物運びやったの? 前から言ってるけどもう先生に言いなよ。あいつら馬鹿だから、こんなんじゃいつまで経っても絶対懲りないよ」

 「でも奈央なお、私そこまで酷いことはされてないんだよ。ただ少し、嫌味言われるくらいで」

 「早紀があいつらに何かひとつでも、迷惑になるようなことしたの? してないよね? あいつら楽しんでるだけだよね? そうだよね?」

 私は廊下の奥に消えていく女子達の後ろ姿を目で追っていた。顔を寄せ合って、ひそひそ何かを話しているように見えた。

 退部届を出したと言っていたけれど、すんなり退部できるのだろうか。部活から離れても、あの三人から離れられるのだろうか。

 事情は何も知らない。けれど後味は悪い。

 ツルッ、と何かを踏んで滑りそうになった。足元を見ると、小さな紙屑が落ちている。

 私は腰を落としてそれを手に取った。数センチ角の小さな、破かれた写真の一部。そのすぐそばに、鋭い針の先端を上に向けた、丸い画鋲が転がっていた。

 私は咄嗟に、床に落ちていたものを全て拾って、自分の手で握った。一歩、二歩と後退し、部活や委員会のポスターが貼られている掲示板に背中をつける。誰にも見られていないのを確認してから、手に持ったそれを素早く壁に突き刺した。

 同じような掲示板は、校内にいくつもある。画鋲なんていくらでもそこに刺さっているだろう。少し離れた場所で、こちらをちらちらと伺うさっきの三人組が見えた。口元が少し、笑っている気がする。嫌な想像が頭をかすめた。

 奈央という女子生徒が、心底申し訳なさそうに言う。

 「早紀、ごめんだけど私部活あるから行かなきゃ」

 「あ、ううん、こっちこそごめんね奈央……」

 何かあったらすぐ言うんだよ、いいね? と念を押して去っていく。私は彼女に聞いた。

 「さっきの子、友達?」

 「あ、うん。まあ」

 気まずそうに彼女は目を泳がせている。その様子が、先程の状況の深刻さを物語っていた。あまり人には知られたくなかったのかもしれない。

 「写真部なの?」

 聞くと、そうだよ、何で分かったの? と彼女は目を丸くする。

 「だって、カメラ首からぶる下げてたから」

 ああ確かにそっか、と笑った。

 「奈央はね、写真部のエースなんだよ。コンクールで賞をとった回数も、部の中で一番なんだ」

 友人の話になると、彼女は途端に嬉しそうに破顔した。教室で落ち込んでいて、同じ部員に追い詰められていた時とは別人のように声が明るい。

 私はさりげなく、廊下の窓の外に視線をやった。そこからは校庭と隣の棟への渡り廊下が見える。何人かの生徒に混じって、奈央がその廊下いた。

 「奈央はいつも、校内の写真を撮ってるんだよ」

 「そうなんだ」

 私はその姿が遠ざかっていく方向を確認してから、彼女を振り返る。

 「ね、写真の残りの破片、さっき見つけたよ」

 「えっ?」

 本当に?! と彼女の声がワントーン上がる。

 「どこにあったの?!」

 「普通に廊下に落ちてたよ。さっきの人たちが来た時に見つけて、拾ったんだ」

 案外すんなり見つかったものだ。結局、教室のすぐそばにあった。写真を教室で破ってゴミ箱に捨て、手の中に残っていた破片が落ちたのだろうか。それとも、廊下で破った時に落として、教室に来たのか。

 考えていると、彼女は走って教室に戻り、文化祭で使ったやつまだ棚にあったよ、と言って片手にテープを持っていた。

 「これで全部、そろったよね?!」

 「多分。貼ってみてよ」

 私が言うよりも早く、彼女は壁に写真の欠片を並べて、で貼り付けようとする。私がテープを取って切ると、裏からそれを貼っていった。器用に、一枚一枚丁寧に。

 「やった、できたよ!」

 完成したのを、彼女は嬉しそうに私に見せる。テープの見えない表から見ると、元通り綺麗な写真だった。

 幼少期の頃の自分と、彼女がそこには映っている。完成したのを見ても、私がその人物だと分かるものは何も無いようだった。密かに胸を撫で下ろす 。

 彼女は飛び上がって喜ぶこともなく、目を瞑ってその写真を抱き締めるように胸に当てていた。よかった、と呟く声は、心の底から発せられているように聞こえた。

 「あとは、誰がこれをやったかだね」

 顔を上げ、静かに彼女は言う。

 「犯人を」

 その顔からは、喜びはほとんど消えていた。すっと口元が下がり、目が細く、鋭い色になる。

 「あの部活の人たちが、したと思ってるの?」

 だとしたら本当に嫌だ。そう思いながら尋ねたが、すぐに答えは返ってこなかった。代わりに、すうと深く息を吸い込む音が聞こえた。

 だって、と低い声が彼女の口から漏れる。

 「だって、あの人たちとしか考えられない! ずっと私のこと目をつけて……!」

 「他に思い当たる人は?」

 「いないよ!!」

 きっと睨みつける表情は、泣いているようにも怒っているようにも見えた。

 怯えて、友人にも曖昧に笑っていた先程までの彼女とは一変した様子だった。優しくて臆病な人程、感情が漏れ出す時は激しく、唐突なのかもしれない。

 「あいつら、私が抵抗できないからって……!!」

 白い手を拳にして、歯を食いしばって言う。悪意を平気で突きつけられることへの悔しさ、怒り。けれど、いざそれを目前にすると足がすくんでしまう、自分の情けなさ。それを見抜いた相手は、まだいける、とさらに追い打ちをかける。それに怯んで、また自分を責める。苦しい連鎖だ。痛々しい程伝わってきた。

 「始めから、疑ってたんだね」

 私が言うと、もちろん、と頷いた。

 「あいつら卑怯なんだよ。私の前じゃ堂々とこき下ろす癖に、誰かにバレそうになるとすとコロッと態度を変えるの。だから誰もあいつらが何をしてるか知らないし、責めない」 

 でも証拠があればそれが示せるでしょ、と勢いよく言う。

 「あいつらがやったっていう証拠を集めて、暴いてやる」

 「でも、もう部活はやめるんでしょ?」

 できるだけ彼女の神経を立てないように聞いたつもりだったが、「そんなの関係ない!」と怒鳴られた。ありえないとでも言うように、さらに語気を強める。

 「やられた側は、忘れないんだよ? あいつらは自分がしてることを分かってない」

 あんな奴らなんて、もうどうにでもなっちゃえ。

 低く、呟く。まるで爆弾でも落としてるみたいだ。

 きっと彼女は、ずっと耐えてきたのだろう。針を刺された風船が空気を吐き出すように、彼女の口からは感情がだらだら零れていた。自分でも制御できないくらいに。

 彼女の気持ちは分かる。けれど、正しいかと言われたら別かもしれない。理不尽だけど、多分。

 そっか、と私は頷いた。

 「じゃあ、ちゃんと反省してもらわないとだね」

 「そうなんだよ」

 私は身を翻し、その場から離れる。ちょっとトイレ、と言って廊下を進んで角を曲がった。今日の最後の授業は体育だったっけ。

 トイレとは反対方向に歩きながら、もう一度窓の外を確認する。カメラではなく何か大荷物を背負っている奈央。おぼつかない足取りでゆっくりと、廊下を渡っていた。

 


 あんまり帰りが遅いと、彼女に怪しまれてしまう。早足で向かい、私は部屋の扉をノックした。

 はーい、と間延びした女子の声が返ってくる。ははは、と何人かが笑っているのも微かに聞こえた。

 扉が開いて、穏やかそうな女子生徒が出てきた。私を見ると、あれ、と首を傾げる。

 「いつもみたいに生徒会の人かと思ったのに。どちらさま?」

 会長いっつもウチに来るもんなー、怖ぇ顔で! と奥で誰かが言う。奈央が部費増やせっていつも生徒会に文句言っては振られてるもんねー、と他の声が答える。私はハッとする。

 「奈央さんは、ここの部員ですよね?」

 「あ、奈央なら今は多分校庭だよ。次の賞に出す作品撮ってるから」

 「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

 そう前置きをすると一瞬怪訝そうな顔をされたが、いくつかの質問に彼女は特に理由を聞くこともなく答えてくれた。奈央の写真部での活動や、普段の様子について。

 聞きたいことは聞き終えられたし、早く戻ろう。お礼を言って去ろうとすると、背中から砕けた明るい声が飛んできた。

 「どうせなら見学してってよ、今部員少なくてさー」

 「あ、前メダルとったんだよ! ホラあそこに飾ってあるでしょ、すごいでしょ!」

 「お前がもらったみたいに言うな、奈央が先月コンテストでとったやつだから!」

 私は笑って部室を後にする。廊下を小走りで渡った。


 

 戻ると、彼女はひとりで、教室の自分の席に座っていた。ぼんやりと一枚の写真を見ている。隣の席に座ると、ようやく私に気づいて顔を上げた。

 「あ、おかえり」

 「ただいま」

 どうやって伝えようか、ここに来るまで悩んでいた。けれど彼女がブレザーを脱いでいるのに気づいて、あっと思う。

 「ねえ、そのブレザー……」

 「ああ、あれ奈央のだったから。戻しておいたんだ」

 そう言って後方の席を指差す。一番後ろの端の席の上に、畳まれたブレザーが置いてあった。

 びっくりしたよ、と彼女は笑う。力が抜けたような、弱々しい笑い方だ。

 「ふと自分が着てるブレザー見たらさ、校章が付いてなかったの。おかしいな、朝付けたはずなのにって思って内側のタグ見たら、自分の名前書いてなくてさ。あれ多分、奈央のだよ。私のには名前書いてあるし」

 ブレザーをちゃんと確認したのは、私だけだった。タグに何も書いてなくても、違和感を抱けなかった。

 「体育の時、入れ替わったんだね?」

 「なんだ気づいてたの? 私と奈央、一緒に着替えてたから。ちょっと前にも一回、こういうことあったんだよ」

 私は溜息を吐く。もっとちゃんと調べれば、早く気づけたのに。

 でもこれなら納得だ。きっと彼女ももう、気づいているだろう。

 少しの沈黙の後、ごめんね、と彼女はか細い声で謝った。何も言わないでいるともう一度、ごめんね、と言った。

 「さっきの私、ちょっと落ち着いてなかった。駄目だね私」

 「いいんだよ」

 でもなあ、こんなのなあ、と泣きそうな顔で言う。小さな体が、さらに小さく見えた。

 「写真破ったの、奈央なんでしょ?」

 うん、と私は頷く。

 「でも、悪気はなかったんでしょ?」

 「うん」

 「あの子、写真のことになると本気だからさぁ……」

 それは分かるよ、と返す。あの部室に飾ってあった賞状もメダルも、全て奈央のものだった。

 「あの子が最近使ってるカメラ、ポラロイドカメラって言うんだけどね。撮るとすぐ現像できるやつ。ほらチェキみたいな」

 「うん」

 「奈央、撮って気に入らなかった写真は、その場でポケットに入れちゃうの。それで、自分が納得するのが撮れるまで、ずっと被写体と向き合い続ける」

 「本当に真剣なんだね」

 そうなの、奈央はいつも真剣なの、と俯いて言う。

 「それでようやく最高の一枚が撮れると、ポケットに溜めた写真はもう全部捨てちゃうのね。もったいないって私いつも言ってるんだけどさ。出来の悪い写真は自分の作品だと認めたくないって言って、譲らないんだよ」

 さっき写真部で聞いた通りだった。うちみたいなゆるい部であそこまで熱心なの奈央くらいですよー、と部員は笑っていた。恐らく、友人のブレザーを自分のだと勘違いして、ポケットにあったのを確認せずに捨ててしまったのだろう。

 ひらっ、と彼女の机から紙切れが落ちる。今度は小さな破片たちではない。一枚の、きちんと完成した写真だ。

 私、と彼女が漏らした。

 「私、あの人たちに言いがかりつけられたり嫌がらせ受けたりしてる時、始めの内はただ悲しいだけだったんだけどさ。それが続いていくうちにだんだんと、ああ自分はこういう扱いを受けて然るべき人間なんだ、その程度の価値の人間なんだって思うようになって」

 いつの間にか教室には夕日が差し込んでいた。机の上を眩しい光が、ゆっくりとなぞっていく。

 「あの人たちを責めることができたら、罵倒出来たら、自分を卑下するのをやめられる気がしたんだ。……でも結局、無理だったけど」

 ぱっと顔を上げて、椅子から立つ。私に背を向けて、落ちた写真を拾った。細い指が震えているのが、見えた。

 「部屋の整理してたら、埃を被ったこの写真が出てきて。そういえば昔、こんな子に会ったなあ、この子いじめられてるって言ってたなあって思い出したら、何だか涙が出てきちゃって。お守りみたいに、持ってた」

 きっと始めは、ただの何てことない思い出のひとつだったのだ。けれど苦痛の中で、その思い出に図らずとも意味が生まれてしまった。写真を見れば、同じ戦場に立つ仲間がいたことを思い出せる。まだ戦えるんだと自分に言い聞かせることができる。

 「自分を責めないで」

 口から飛び出たのはありきたりな言葉だった。写真を手に取ってしゃがんだまま動かない彼女に向かって、伝えた。

 「部活をやめるのは正解だと思う。一緒にいて嫌な気持ちになる人とわざわざ関わる必要は無いよ。まあ、逃げた気がして悔しいかもしれないけど」

 使い古された表現を並べることしかできなかった。私も彼女も、同じ苦しみを味わうことはできないのだから。それでもゆっくりと、彼女は振り返った。あたたかな日に照らされた頬に、一筋の涙が光る。あわてて顔をそらすが、雫が何度か落ちたのが見えた。

 そっかぁ、と小さく彼女の口が動く。そっか、そっかと何度も言う。

 「そうだったのかぁ」

 ふわっと彼女の綺麗に梳かれた髪が揺れた。真正面から向き直り、こちらを見る。目を赤くし、けれど歯を見せて笑顔になる。

 「じゃあ私、もう部活には行かない!」

 さっと写真をポケットの中に入れて、荷物をまとめて教室の出口まで走る。私は何か言う前に、ありがとう、またね、と残して去って行ってしまった。

 何だかびっくりだ。しばらく唖然として、閉じた扉を見つめていた。けれどふと気がつく。彼女はきっと、もともとああいう人なのだろう。ずっと卑屈になっていたけれど、本当はすごく強い人。きっかけがなかっただけで、ずっと立ち上がる準備をしていたのだ。踏まれても根を張る雑草のように耐え、これからは花を咲かせるんだ。

 すごいなあ、と思いながら、私は席を立つ。西日が差す窓の外を、目の上に手を当てながら眺める。

 逃げた気がして悔しいと私は言ったけれど、実はそうじゃない。校庭でカメラを持ち、時節思い出したように校舎に目を向ける生徒を見つける。私も鞄を持って、誰もいなくなった教室を後にした。

 


 下駄箱に行き、自分の出席番号が書かれたロッカーを開けようとする。すると、いくつかの足音と共に、女子の話声が聞こえてきた。

 「ねえ、何であたしらの荷物、職員室の前に置いてあったの? いつもあいつ部室の前に置くじゃん」

 「あたしはちゃんと普段通り部室に持ってけって言ったよ? うんって言ってたし……」

 「まさか教師に見つかるようにあいつがわざと置いたってこと? いつも何も文句言わずに運んでるくせに?」

 「そんなまさか……」

 でも何かつまんなくなっちゃったなー、と薄っぺらい声で言う。今まで良い遊び相手だったけど、部もやめたみたいだしね、と言い合う。

 今まで嫌がらせが止まらなかったのは、いじめる相手が何も抵抗しなかったのも理由のひとつだろう。何を言っても言い返さないし、やり返さないから図に乗っていたのだ。要は舐められていた。でももう、これで終わりだ。

 今日廊下でこの女子グループに遭遇した時、丁度いいタイミングで奈央が現れたのは、偶然ではなかった。奈央は友達を守るために、一度部室に運ばれた荷物を全部職員室に運び直したのだ。あれはその時だったのだろう。どんな励ましの言葉をかけても屈してしまう友人を助けたかったのかもしれない。だとしたらちゃんと、繋がった。

 私は上履きを脱いでロッカーを開ける。靴を取った時、目を見開いた。

 一瞬何が起こっているのか分からず、その場で棒立ちになる。どうして? と頭の中で疑問符が飛び交うが、よく考えたら、ああそうかと納得した。

 過去の自分があるから、今の自分がある。一秒一秒の景色を切り取る写真は、それを未来の私に教えてくれる。

 ツギハギだらけの、断片が集まった一枚の紙切れ。いつから気づかれていたのだろう、と思うよりも、過去の自分が彼女の背中を押せたのだと知れたことが、何よりも嬉しかった。

 笑ったふたりの少女の写真をポケットの中に入れる。靴を履いた。

 また明日ね。早紀ちゃん。

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