二人だけのサーカス
いいの すけこ
再び幕は上がる
ようこそ、ようこそ、サーカスへようこそ。
東のお客様こんにちは、西のお客様ごきげんいかが。
お客様みなさん、いらっしゃい!
今宵も天幕に開幕ベルが鳴り響きます。
今このひとときばかりは、つらいも悲しいも忘れて、笑いましょう。
天幕の外の世界を忘れて、夢見ましょう。
どうぞどなた様も、楽しい一夜を。
月虹サーカス団、間もなく開演です!
ナナホシ団長の口上で、もうそれだけでスポットライトが七色に輝くようだった。
てっぺんに赤い旗を立てた、紅白の天幕。サーカス会場は期待と好奇心の眼差しに満ちていた。
天井近く、足場の上で、リリアーヌ
花を挿したお団子頭と、ひらひらチュールを何枚も重ねたスカート。桜の花びらと、菜の花の花びらがふわふわ重なっているみたい。まるで花の精のようなリリアーヌ姉は、トゥシューズを履いたつま先をそっと一歩踏み出した。
リリアーヌ姉の足裏がとらえたのは、一本のロープ。
ゆっくり、ゆっくり、閉じたパラソルを地面と平行に持って。ゆっくり、ゆっくり、綱を渡る。花の精みたいなリリアーヌ姉が歩くと、ロープもまるで緑の蔦みたいに見えた。
観客が息を飲む。音楽が響き渡る。リリアーヌ姉は笑った。
私は舞台袖で、ぞくぞくしてる。
ロープの真ん中に到達したリリアーヌ姉は、パラソルをぱっと開いた。たったそれだけの動作でロープは揺れて、リリアーヌ姉の体が宙に投げ出されるんじゃないかと不安になる。
だけど蕾を花開かせた妖精は、くるくるパラソルを回しながら花びらを撒き散らした。淡い色の花びらが宙を舞って、舞台にはきっと春風が吹いていた。
音楽の高まりとともに、歓声が上がる。
桃色のアイシャドウで彩った瞼で、『綱渡りのリリアーヌ』がぱちりとウインクすれば。男の人も女の人も、子どもも大人も関係なく虜になってしまうのだ。
リリアーヌ姉と交代するように、今度はレベッカさんとポリーが舞台へ出ていった。
「頑張って、レベッカさん、ポリー」
レベッカさんは薔薇色のルージュを引いた唇で笑って、ポリーは奮起するように鼻を鳴らす。
風のように飛び出して行ったレベッカさんとポリーは、割れるような拍手の中で堂々と手を振った。
ポリーは二本の後ろ脚で立ち。
レベッカさんは、ポリーのそり立つような背に跨って。
『馬使いのレベッカ』と、『白馬のポリー』。
赤絹に金糸の刺繍を施した、レベッカさんのタキシードとポリーの仮面。揃いの衣装が情熱的で、私は大好きだった。
ポリーは円形の舞台上を、ぐるぐると走り回る。ポリーの背の上で、寝転がったレベッカさんがお尻を軸に一回転。足をぴんと伸ばして、時計の針みたいにぐうるりと。思い切り体を倒したら、レベッカさんの頭がレコードの針みたいに地面すれすれまで近づいた。固唾を呑んで見守る観客に余裕の笑みで返して、レベッカさんは体を持ち上げる。そのまま鞍の上に立ち上がって、走り抜けに袖から受け取った深紅の旗を振りかざした。
旗を突き上げるレベッカさんは戦の女神みたいで、白い毛並みがきらきら光るポリーは天馬みたいで、夢みたいだ。
まだ拍手が残る中、音楽が変わる。スポットライトが天井近くを照らした。
舞台両端の足場にサンディ
天井の仕掛けに吊り下がっているのは、二対の止まり木――いや、ブランコだ。
『空中ブランコのサンディ&アルテ』、二匹の鳥は空へ飛び立つ。
サンディ兄は膝裏にブランコを引っかけて、アルテ姉はブランコを両手で掴んでぶら下がった。二人は違う体勢で、それぞれ勢いをつけながら振り子のように揺れる。ぶんぶん、ぶんぶん、どんどん振り幅は大きくなった。
ブランコも、二人も、負荷に耐えられるだろうか――不安が過ぎった瞬間、アルテ姉は手を離した。あっと息を飲んだのも束の間、ブランコから離れた体はくるりと宙返りした。空中で寄るべのなくなったアルテ姉の手を、サンディ兄がしかと掴む。膝裏だけで二人分の体重を支えながら、それでもサンディ兄はアルテ姉の腕を掴んで離さなかった。何度だって、アルテ姉は何も恐れずサンディ兄に飛び込んだし、サンディ兄は必ずアルテ姉を受け止めた。
二人の息の合ったパフォーマンスに、いつまでも拍手が鳴り止まない。
空を飛びながら見つめ合う二人は、きっと命さえ相手に預けている。
そんな二人を見ていると、私はたまらなく胸がどきどきするのだった。
「ミラ、出番よ」
リリアーヌ姉が、そっと私の背中を押した。私は空中ブランコに夢中になっていた頭を切り替えて、舞台へ向かう。といっても、風船で飾られたパネルに縛り付けられてだけど。
磔にされた聖人みたいに、私は舞台上に引き出される。レオタードのスパンコールは鱗みたいだから、まな板の上のお魚みたいかもしれない。
待ち構えていたのは、陽気なドギーおじさん。
赤と黄色が半分ずつの開襟シャツと、縞馬模様のだぶだぶズボンを着た愉快な出で立ちでありながら、手には何本ものナイフを下げていた。
『ナイフ投げのドギー』が手にした銀の
さあ、哀れな子どもの運命やいかに!
ダララララ、ドラムロールが鳴り響く。
観客から怖々向けられる、哀れみと、抑えきれない好奇の眼。
ドギーおじさんは躊躇いひとつ見せず、私に向かってナイフを投げる。だから私も、瞬きひとつしなかった。
スタッ! パアン!
パプリカみたいに鮮やかな、黄色い風船が弾けた。ナイフは見事風船に命中!
安堵と興奮が入り混じった歓声が上がる。
スタッ! パアン! スタッ! パアン! スタッ!パアン!
ドギーおじさんは連続で、パプリカやトマトみたいな風船をナイフで割っていく。
その度に風船の中に仕込んだ金と銀の紙吹雪が舞い散って、きらきら魔法の粉みたいだった。
的の私はドギーおじさんのナイフ投げを、一番の特等席で見られるの。
こんな素敵なことって、ないでしょう?
手足のベルトを外してもらい、私もドギーおじさんの隣に並ぶ。皆様にぺこり、ご挨拶。
ドギーおじさんのだぶだぶズボンのポケットから、風船と同じ赤と黄色のボールが溢れ出す。私がボールを拾い投げて寄越すと、ドギーおじさんはお手玉を始めた。次々増えるボールにわざとらしく慌てて見せて、でも絶対にボールは落とさない。そのうちナイフまでボールと一緒に投げ出して、赤も黄も銀も混じりあう。ドギーおじさんの手の上で、全てが輪になって弾んだ。
ドギーおじさんが一際高く赤いボールを投げ上げる。落ちてくるボールをもちろんナイスキャッチ……と思いきや、赤い玉はドギーおじさんの手の中から逃げてしまった。
失敗? いえいえまさか。
私は急いでボールを追いかける。追いかけながら、そっとボールの軌道を舞台袖へと向けた。ころころ袖の中へボールは消えていき――。
わっと歓声が上がる。
私の背を越える赤い大玉が、舞台袖から現れた。
大玉の上には小さな人影。
器用にバランスを取りながら、大玉に乗ったままドギーおじさんの隣まで躍り出る。
『玉乗りのラキ』は、私と同い年の男の子。クレイジーキルトのツナギ服は、柄も色もでたらめでにぎやかで、見ているだけで楽しくなる。
歓声に向かって両手を振るラキ。私は高いところにいるラキを、アシストしなければならなかった。椅子の上に登って、ラキに虹色をした七本のリングを投げる。
ラキは大玉を足元で転がしながら、受け取ったリングでジャグリングを繰り広げた。ラキの頭上を飛び交う七色のリングは、まるで虹みたいだ。
――私も負けちゃいられない!
椅子の背もたれに手をかけた。金色のスパンコールが貼り付いた体を、足先からゆっくり伸ばしていく。つま先は天井に向かって、腕の力だけで全身を支えて。
不安定な椅子の上での逆立ちに、拍手を送られた。
まだ、もっとほしい。
ナナホシ団長が椅子を運んできた。五段詰んだやつ。私はナナホシ団長が支える椅子の塔に昇って、てっぺんでもう一度逆立ちをした。
つま先まで美しく、ぴんと弓を張るみたいに、大きく開脚する。
『アクロバットのミラ!』
全身の筋肉が緊張していた。
だけど私は、とびきりの笑顔で大歓声に応える。
パフォーマンスを終えた私とラキは、平らな舞台の上に下りて手を打ち合った。
カーテンコールは拍手喝采。
舞台を包む声援を一身に浴びて、私たちは一列になって礼をする。
顔を上げたら頭のてっぺんからつま先まで、しびれるような快感が走り抜けた。
あなたがたも、みんなこの快感がたまらないのでしょう?
今このひとときばかりは、つらいも悲しいも忘れて、笑いましょう。
天幕の外の世界を忘れて、夢見ましょう。
現実がどんなに非情でも、世界がどんなに残酷でも。
偉い人たちがどんなに愚かでも、人間がどんなに間違った選択をしても。
サーカス会場は、夢の世界。
夢の世界の外では、愚かで間違った人たちが、最悪の選択をしたせいで。
偉い人たちは楽しいことの一切を、人々に取りやめるように命令をした。
国と国との喧嘩なんて、サーカスにはなんの関係もなかったけれど。私たちのサーカスに土足で入り込んできた暴君たちの命令に、私たちの優しい王様ナナホシ団長は、首を縦に振るしか出来なかった。
すさんだ茶色い時代がやってきた。
ナナホシ団長、サンディ兄、ドギーおじさんも、男の人たちはみんな馬鹿な喧嘩に駆り出された。
「僕、人を傷つけたことないんだけどな」
とドギーおじさんが悲しい顔で言った。一度も血を流したことのないナイフを、道具箱にしまいながら。ドギーおじさんのことが特に大好きなラキは、一緒に行けたら良かったと涙を流す。
私はラキが子どもで良かったと、心底思っていたけれど。
サンディ兄とアルテ姉が、撤収前の舞台袖で抱き合っているのを見た。アルテ姉の顔は涙でぐしゃぐしゃで、舞台化粧をしたままだったら酷いことになっていただろう。二人はキネマの中でも見ないような、それはそれは激しいキスをしていたので、私は慌ててその場を離れた。多分子どもが見ちゃいけないやつだったと思う。
それからは恥ずかしくて、私はサンディ兄にろくに行ってらっしゃいも言えなかった。
二人のブランコ乗りは、一人になってしまった。
「またみんなでサーカスをやろう」
ナナホシ団長はなんどもなんどもそう言って、ひとりひとりと握手をする。私たちの月虹サーカス団は再び集まることを誓って、ひとたびのお別れとなった。
世界は急速に色を失っていった。
鮮やかな色の洋服は箪笥の奥底に眠り、人々は暗い色を身に纏う。空から鉄の雨が降ってくれば、人間は真っ黒になったり真っ赤になったりして、元の形に戻れなくなった人もいた。住む場所を失えば、泥に汚れてさまよい。痩せた野菜が沈んだ濁ったスープは、何も満たさない。美しいもの、幸福なもの、どんどん色褪せていく。
女の人と子どもだけが残されて、私たちは身を寄せ合うよう生きていた。
リリアーヌ姉たちの化粧っ気のない顔はそれでも美しかったけれど、疲れていたし。桃色のアイシャドウや真っ赤なルージュが懐かしかった。
私も舞台に出る前は目元に金のラメをはたいてもらったけれど、そんなものはもうどこにもない。
化粧は人前に立つ私たちの武器のひとつでもあったけど、武器と言うなら何よりも体で。使わなくなった筋肉や体の柔軟さが、徐々に失われていくのも感じていた。
ある時、偉い人にポリーをよこせと言われた。レベッカさんは怒り狂い、ポリーの首を抱き締める。
「私の愛する子を、軍馬になんかしてたまるか」
レベッカさんは戦の女神なんかじゃなかった。ポリーの大事な相棒だった。
ポリーをどこかに預けようにも、動物園では猛獣を殺していると言うし。
レベッカさんは、ポリーと一緒に山越えをすると言って私たちと別れた。
障害物走が得意なポリーなら、険しい山だって検問だって飛び越えるだろう。そう願った。
レベッカさんとは、それきりだった。
ある晩、アルテ姉が泣いていた。
私とラキは眠ったふりをして、リリアーヌ姉がアルテ姉を宥める声を聞いていた。
他人の子どもまで面倒を見る余裕はないのと、アルテ姉は涙ながらに訴える。
他人。そう、私たちは他人。
サーカス団は家族だったけど、今、みんなばらばらになって、サンディ兄はいなくて。本当はアルテ姉やリリアーヌ姉が、私やラキのことを面倒見る義務なんてないのだ。
「アルテ、大丈夫よ。私がなんとかするから」
リリアーヌ姉が優しく囁く。
「私をね、買ってくれる人がいるのよ。サーカス時代からのご贔屓さん。ええ、そう。いつも気前の良かったあのお客様ね。まだ羽振りは悪くないみたい。だから大丈夫」
世界は馬鹿みたいに冷たくて、恐ろしくて。でもリリアーヌ姉は、ずっと優しかった。
「……ふふ、そんな嫌な顔しないで。アルテはあのお客様が嫌いだものね。でも私は平気よ。まとまったお金になるから、ねえアルテ、それでお腹の子と、ミラとラキとね。この馬鹿げた戦争が終わるまで、耐えてちょうだいな」
私とラキはベッドの中で、声を押し殺して泣いていた。二人のお話し合いが終わるまで、眠ったふりをして。
そしてリリアーヌ姉とアルテ姉が、眠りについたら。
私とラキ二人、ベッドを抜け出そう。
布団の中は真っ暗で、目線ひとつ送れなかったけれど。
握りあった手で、私たちは同じ覚悟を決めた。
リリアーヌ姉とアルテ姉のお話し合いは明け方まで続いて、二人が眠りについたのは空が白み始めてからだった。
旅立つなら、明るい朝がいい。
だから大人二人が、日の出近くに深く寝入ってくれて助かった。
「お別れを言えないのは寂しいけど」
口では伝えられない代わりに、置き手紙をしてきた。いっぱい書きたいことはあったけど、結局綴るには言葉は足りなくて。感謝と別れの挨拶だけを残してきた。
「早く行こう。リリアーヌ姉とアルテ姉が目を覚ます前に」
そして私たちの決意が、揺らぐ前に。
サーカスで生まれ育った子どもが二人、夜明けと共に出発する。
昇り始めた朝日に照らされた街は、灰色をしていた。いつも天幕を張っていた公園も、買い物に繰り出した市場も、美味しいものを食べ歩いたレストラン通りも。
みんな瓦礫になって、黒く焼けて、灰になって。一切の色を、失っていた。
「俺らまた、サーカスできるかな」
朝の白い光に目を細めながら、ラキが言った。
赤と白の天幕。七色のスポットライト。
私たちのパフォーマンス。
「なんにも、なくなっちゃったけどな」
眩しさに瞬いたら、視界がうっすら滲んだけれど。
「……私たちが、いるよ」
あの天幕の中で、光の中で、私たちがサーカスに色彩を生み出していた。
この灰色の世界に、再び色を取り戻せるなら。
「なんにも、ないけど。この体がある」
衰え始めた心と体に再度、力を込めて。
「私はもう一度、逆立ちからでも始めるよ」
「……そっか。うん、そっか、そうだな」
ラキは目を伏せて言った。その横顔は、舞台の上で歓声を噛み締める時の表情に似ていた。
「じゃあ俺も、木の枝でも石でもお手玉するところから始めるか」
芸を積み重ねてきた手を繋ぐ。
この世界が、再び美しく色づきますように。
『アクロバットのミラ』と『玉乗りのラキ』。
子どもだけ、たった二人のサーカスが。
世界のどこかで、ひっそりと幕を開けようととしていた。
二人だけのサーカス いいの すけこ @sukeko
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